腹の立つ他人の大体は、自分を鏡に写したような奴ですね。 本当に困ったもんです。
この国で生きていると、自分でやれる自信みたいなものを得れば得るほど、誰かをたよる勇気みたいなものが失われていくのはなぜなんだろう。
何かをやろうとするとき、理由がないとダメな空気が漂うけど、何かをやることで理由が見つかる時もあって、その理由が変化したり増えたりして、そのやったこともカタチを変えたりして、いろんな人が来はじめて、いろんな人が居れる場所になって、また何かをやろうとして、後から理由が見つかって、、
他人の自由を制限して、自分の自由を護るほど醜いものはないんだね。 それに気づかずに他人を傷つけ、正義を謳う人の多いことよ。 結局、その人たちに足りないのは愛で、その人たちを救えるのも愛だ。
不安みたいな感情を抱いている人に対して私ができることは、少しだけ明かりをともしてみたり、その暗闇に一緒にいることだと思っている。
汗水をながして稼いだお金をすべて、誰かのためだけに使う。 これはこれで何か、すがすがしい。 今のぼくにはできないけれど、一度くらいはやってみたいな。
その人を愛する気持ちと、その人から愛されたい気持ちは、同じようでまるで違う。
「 がんばれー 」って言われたいときに 「がんばらなくてもいいよ…」って言われると 心が折れますね。
もういいんじゃないかなぁ 毎日毎日、死にかけている人に何発ピストルの玉を撃ち込めば気がすむのだろう 正しさを突きつめた先には狂気が待っている だからもういいんじゃないかなぁ 相手に向けていた銃口が、いつしか自分に向けられて、あなたの大切な人もみーんないなくなっちゃうよ
最近、多様性を強く叫んでいる人が、その意味をわからない人や意見の違う人を攻撃する場面をよく見かける。 相手の思考を理解する前に、自分の正しさが前のめりになると、この現象が起きていることに気づき自分を戒める。 違いを尊重することが、違いを主張するだけにならないように…
それは結局相手を攻撃するための準備でしかないのに自分の考えを正当化するためだけに相手の話を聞いている人がいる おそらくその場は議論ではなく戦いだから結果として負けたものが勝者に屈するか立ち去るかしかない もしもそんな生き方しかない世の中なら嫌だなあと思いながら黙りこむ私
成長という概念は、自分が自分のために活かす物差しのひとつくらいでいいのに、別の誰かが成長を評価するようになってから、社会の居場所を分ける物差しのひとつになってしまった そしてみんな、できないことを恥じるようになり隠すようになった。 できることもできないことも含めて人間なのに
子どものとき、親は私が愛してほしいように私を愛してはくれなかった。 親は、親自身が愛したいように、私を愛した。 だから私は、親からの愛情をあまり自覚していない。 そして今、私は私が愛したいようにしか親を愛せないでいる。 本当は、親自身が愛してほしいように親を愛したいのに。
自分の本当の笑顔を忘れてしまった というか 私は心の底から本当に笑ったことがあるのだろうか
他者への気遣いを「~べき~ねば」と言って強要すると気遣いがルール化されて評価され始める そこから気遣いのできる人できない人に分けられる やがてそこに分断が生まれると排除の空気が漂い始める 気遣いのできない人はその社会から自ら出ていくか、追い出されるかのどちらかだ。
子どもの頃は 「相手の気持ちを考えたことがあるのか?」 とよく叱られました。 大人になってからは 「相手の気持ちで考えたことがあるのか?」 とよく諭されてます。 私なりの愛しかたはできるけど、相手が望む愛しかたに応えることがいつもできない。 今年こそ大人しくなるよ。