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【百年ニュース】1920(大正9)5月31日(月)ニコライエフスクに日本軍が迫りパルチザンは街を焼き払う。堅牢な建物は爆破しアムグン川上流ケルビに逃亡。2月6日無線施設破壊以降日本は現地詳細不明。3月14日領事館焼失し守備隊全滅。5月24日捕囚者も殺害。救援隊到着は6月3日。

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【百年ニュース】1920(大正9)5月21日(金)ニコライエフスクで逮捕と処刑が始まる。司令官トリャピーツィンはパルチザンとその家族をケルビ村に避難させ、市内は焼きつくす方針。中国領事と中国人居留民は全財産を持ちアムール川上流へ避難。収監中の日本人居留民生存者にも緊張が走る。尼港事件。

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【百年ニュース】1920(大正9)3月29日(月) ハバロフスクから敦賀港に帰着した引揚者の談として、パルチザンとの衝突でニコライエフスク領事館が焼失し石田虎松副領事生死不明と伝わる。尼港事件に関する初報道。→解氷を待ち多門二郎大佐の救援隊が到着したのは6月3日。

【百年ニュース】1920(大正9)6月3日(木)早朝多門二郎大佐の救援部隊がニコライエフスク到着。全市が火焔に包まれ、トリピャーチンはじめパルチザンはすでに逃走後。墓地に避難していた市民約70名を発見。ロシア人のほか中国人4,米国人1。上流マゴ村で中国人妻妾となった日本人女性14名生存の報。

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【百年ニュース】1920(大正9)3月14日(日) ニコラエフスク日本領事館がパルチザンの包囲攻撃を受け焼失。石川正雅少佐、三宅駸吾少佐以下日本軍全員戦死。石田虎松副領事とその妻子、領事館内の在留邦人も全員死亡。兵営に残った日本軍80名と民間人13名が翌日正午に白旗投降したが5月までに全員殺害。

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【百年ニュース】1920(大正9)4月2日(金)「午後閣議(官邸)、外相陸相よりニコライウスクにおいて我が守備兵および居留人の多数惨殺せられたる由を報告せしが、事情判明せず、結氷中なれば救援隊を送る方法も之なし、甚だ心痛のことなり。(原敬日記)」

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【百年ニュース】1920(大正9)5月24日(月)ニコライエフスクのパルチザンが撤退するにあたり、収監中の日本陸軍軍人軍属108名,海軍軍人2名,居留民12名,計122名をアムール河岸に連れ出し殺害。病院に収容中の傷病日本兵17名も殺された。監獄に処刑宣告時刻の12時を忘るなとの壁文字が残る。尼港事件。

【百年ニュース】1920(大正9)6月24日(木)貴族院衆議院合同の尼港事件追悼会。貴族院代表徳川家達、衆議院代表岡崎邦輔に続き、原敬首相が弔辞を読み上げた。「断じて黙認寛恕することあたわざるところなり」。同日水戸でも尼港で全滅した歩兵第2連隊第3大隊の招魂祭開催。

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【百年ニュース】1920(大正9)6月24日(木)貴族院衆議院合同の尼港事件追悼会。貴族院代表徳川家達、衆議院代表岡崎邦輔に続き、原敬首相が弔辞を読み上げた。「断じて黙認寛恕することあたわざるところなり」。同日水戸でも尼港で全滅した歩兵第2連隊第3大隊の招魂祭開催。

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【百年ニュース】1920(大正9)7月7日(水)ヤーコフ・トリャピーツィン(Yakov Tryapitsyn)、ニーナ・レベデワ(Nina Lebedeva)ら尼港事件の首謀パルチザン計32名が、ケルビでボルシェビキと連携中の元白軍将校アンドレーエフ(Andreev)の部隊に逮捕される。2日後に全員が死刑宣告をうけ即刻処刑された。