芸能界って休みたいって言うと、ホントに声が其の人にかからなくなり、強制休暇となる虞があるのは暗黙知である。非常にむつかしい。暫く長編は結構という人が次の作品に呼ばれるのは稀有なケース。作品を選ぶ事にするという宣言も、レギュラーがドンと減らされるきっかけだ。演者の主導は無理だ。
本屋で探すのは先ずは文庫コーナー。山崎豊子先生とか真山仁先生とか司馬遼太郎先生等。自分は時代の趨勢とか経済原理で動く社会の動態等、ダイナミズムを感じる作品に惹かれる。僕は学部の頃から色んな作品にチャレンジしてきたが、YouTubeの本ツイ観てから、文学系にもチャレンジしよかななど
先週健診受けてきた。血糖値が心配だったが、何とか基準以下。帰りに本屋寄って色んな本を買った。真山仁先生のタングル、高橋洋一先生の経済学入門、上橋菜穂子先生の鹿の王等。本ツイ観てから、本屋で買うのが勝手に緊張してしまう。自意識過剰だ。一万円も貰っていないのに。井田先生の本も買いたい
海外旅行って非常に大事だと思う。考えを広げてくれるし、制約も客観視出来る。見てて面白い事も沢山ある。大学で学べた世界の様子も、直接外国に行く事でその真贋が体感出来るので尚OK。現地での食べ物も非常にその文化に触れられるいい機会だし。逆に日本の持つ素晴らしさも解る。
子供への教育内容や指導をする権限のあるものは、国か?学校の教師か?保護者か?という論点は憲法学にはあるのだが、判例はそれぞれに一定程度あるという無難な判決を下してる。ただ、在野から言わせてもらえば教育に予算を回す回さないを決める保護者が絶対的である事は指摘しておかねばならない。
寧ろそういう理想のメタ解答って説得から逃げてるだけだよ。自分の頭フル回転させて、子供に勉強机に向かわせるのは親としてノルマだし、それやっても子供からは感謝されないのも別人格である以上致し方ないものだから。僕はこういう第三局で~す、理想の親で~すって当人は気持ちよくても無責任。
当たり前の環境に感謝しなきゃという事をよく説教として示唆されるんだけど、と考えると自分もその当たり前の環境に適合してるんだよな、協力出来てるんだよなって毎回脳内反論として思いつくのだが、言ってみた試しはない。誰にとって最善で誰にとって不満かまでそこまで把握しろって、鬱だよんなん。
強かもんじゃ、薩摩、示現流は‥。的場浩司さん演じる有馬新七どんは学者であったという。薩摩というと威力ある方に後からついていく要領の良さを覚えるが、島津久光に真っ向から異を唱え処せられた彼の言い分とは、朝廷を中心とした皆帝の家来であるという、正しく公武合体を叩き潰すものであった。
大学で勉強頑張って良い成績取って、後は就活に臨んで会社に入れるというゴールデンロードは無くなっていると考える。だとしたら、食い扶持とは?学生時代の間、バイトに打ち込んだりインターンやったり独自の食い扶持探しをやる事で、自身の適性を量るしかない。大学がどうたらはファッショントーク。
法思想の本読んでたら、ふとこれらの国々毎の思想の流れを一本の横串を刺す俯瞰的な講義って実に有益な、旨味の多いものなんだろうなと思ってきてる。先ず昔の議論を現代の人らが学ぶという時空を超えた学びの面白さが解ると、無味乾燥な記述の息遣いが聞こえてくるんじゃないか。
今度のドラマ『相棒』の新シーズンの杉下右京のバディは何と亀山薫!!いや、こればかりは胸熱なカムバックでしょう。これで小野田官房長とまた二人で戦ってくれたらと思うばかりですが、物語上それは無理なので。右京と亀山のひたむきな捜査はきっと今の社会に光明をもたらしてくれると信じる。
同性愛が気持ち悪いというのは、同性愛を過剰に演出する作品や流行くらいしか同性愛に触れられないからという面がある。LGBTが増えると国家が破綻するという理屈は背が低い人が増えるとバスケの国際試合で勝てなくなるというのと同じ。異性愛を否定するものじゃない。統計上少数派な事も忘れず。
日本人は平和ボケしている、お花畑にいるという意見がどうしても席巻しやすい。だが、現実の日本人の防衛意識は着実に向上している世論調査が読売から出ている。実際日本は島国であるし、基本海を眺めるしかないが、防衛意識の潜在はギリギリの日本人の平和主義を体現しているのではないかと思う。
好きな科目はマクロ経済。面白かったし、国家の取りうる選択肢は意外と限られてるようなフレームが理解できたのは、何よりの今の財産だと思った。それからAmazonでもケインズの本を漁ったり、マンキュー経済学読んだりで、知見を深められたと感じる。本当に面白い学問は意外と体に沁みてる。
政治を語るのは公では控えられるべき、というのはコモンセンスとしてある。ただ、政治が日陰となると政教の関わり合いも同時に伏せられてしまう事にもなる。日本の政治が宗教との関わり合いで成り立っている部分もあるが、政教が過度に繋がると、一般国民も虐げられてしまう人が出てくる事も考えねば。
大卒クリエイターの多くは日の目を見ていない。そもそも”大卒”という資格がロスばかりでゲインが殆どない実情を世間一般はどう見ているのか。茂木健一郎さんがそれでも大学で学ぶ意味はあると動画で述べておられるが、実質これだけの大卒下位互換がいるとなると、別に本気で行かなくてもいいなって。
プロゲーマーのネモ選手が書き下ろした新著・『思い込む力』読んで大学受験に備えよ!!自分が絶対あの大学に入るんだ!あのキャンパスを歩くんだ!という熱き鼓動の果てにみんなで入ろう!大学に!だから諦めるなよ、出来ねえからって。思い込めって。
e sportsをこれから盛り上げていくには、単に個人成績の充実だけでは難しいと言われて久しい。無論プロにとって優勝というタイトルは喉から手が出る程欲しいものであるが、それすら超越した一般ユーザーを巻き込む”お祭り”を起こすには、ある種肉を切らせて注力する必要もある。正念場にある
大学受験。国公立大目指す人も大勢いるし、私大トップの早慶目指す人も多い。はじめしゃちょーの静大アピールも今となっては懐かしい話だ。この頃のYouTubeは高学歴当て擦り配信者が減ったのか知らないが、学歴論争に一定の終止符が打たれて久しい。でもあるに越した事はないんだけど。
諦める事を責める事はしたくない。というかそんな資格ある人ってのは限られている。少なくとも人生の節目節目を目の当たりにしてきた人が、いざ他人の人生を眺めるときに、そんな上段構えの発想でコメントを残すべきでない。自分が出来なかった事を他人に強いるのも、極力控えた方が良い。
人の好き嫌い問わず、波長を相手に合わせる事が出来る人がやっていけると学校では教わらない。個性を個性をって叫んだってそれを包摂する環境がない限り、ただのはぐれものだぜよ。
何故勉強が嫌いなのか?頑張っても良い点が取れない。講義の中身がチンプンカンプン。判らない所言えと言われてもそもそもどこで躓いているのかも判らない。究極人生に必要ないと思ってしまう。色んな理由で諦める。だったら頑張る面白さを伝えるべき。一緒に導入から入り、例題を数題、共に苦しむ。
勉強嫌いな子に効く魔法の薬はない。好奇心を伸ばす教育や情操教育といったオプション的なモノは別として。出来るとしたら、一緒に机に並んで、一緒に苦しんだり喜んだりする地道な相互理解くらいしかない。子供が既に勉強が楽しいと思っていても高校に入ってその壁が出来たり、辛く苦しい思いするし。
勉強する理由は無くて良い、ホントか?先ず子供に惰性でやらせるのが楽なのは道理だけど、高校までは勉強する理由は要らないというのは子供にとって気が休まる安寧の答えと言えるか?理由を掲げるに、島田紳助さんの選択肢拡げる説は妥当だろう。訳なくてもやれって言うんなら、そりゃやらんよ。
オーストラリア・シドニー。ワールドスクウェアで色んな国の人を見た。中国系のオーストラリア人は非常に感じ良かった。オペラハウスの中も観れたが、建築物の精巧な出来栄えと、オペラ劇場の椅子の作りに特に感動した。エレベーターは吹き抜けで見上げると天井が見えて驚いた。また行きましょうね。
そもそも働くとは生活費を稼ぐだけじゃない。世の中の空気に参加する意味合いを持つ。世の中の空気とは、そこに住まう人達の考えや意見、信条の塊の事で、参加するとはそこに自分の考えを打ち込む事だと思っている。いわば、社会の流れに参加するのは、自分の存在証明であるとも言える。価値を持つ事。
GWからか、登山の話がnoteでも上がってる。特に八王子市にある高尾山に登ったという記事が結構ある。高尾山は偶に登るのだが、GW中混みあっているなか登るのは少し憚られるところで、中々行動に移せない。それでもとある記事で山頂でのビールが良かったというご感想は何とも美味しそうな話だ。
スト6は凄まじいCPUの強さに閉口するプロが続出。だが、どうせ発売してアプデ入ったらリュウはナーフされるんやろが。ドライヴラッシュで攻め推奨する発想は良い点だとウメハラさんは言われてる。護って護って勝つ、というVの名残を一掃して頂きたい。
若者と高齢者を二項対立に捉えるのは、高齢者を尊ぶ若者と若者を思いやる高齢者の価値を結果的に高める。薩長対立と坂本龍馬のようなものだ。カテゴライズすると必ずそれらを兼ねる存在が現れる。意外と対立を解消するヒントはそこにあるのではと思う。
自民も立憲も維新も何れも旧統一との関係が深いのなら、その関係を白状してリセットをしないといけない。少なくともその縁を疑われるのなら、今一度真偽を民意で問わねばダメだろう。安倍さんの国葬には賛成だが、こういう実態が疑われるのは今までの禊が済んでない証拠だ。
ココイチのカレーを食べながら、ふと思索にふけっていた。それぞれ別個の考えが妥結するということはそんなに難しいのかと。そりゃあ人間なんだから、違う環境、人の繋がりがあったりするんだけれども、それでもここでは手を取り合う半沢直樹みたいな縁もあるのでは。少しロマンチに過ぎるかな。
大学と院で挫折して以来、必死になって受験勉強してる人を見ると嘗ての自分を思い出す。難関大学とか中堅大学とか色々ネームバリューを売り込むとこが多いけど、先生と上手くやるだけでなく自分の研究志望分野との折り合いもしっかり検討しとかないと、結局肩すかしを食らうからね・・。
論理的思考力を高尚なものみたいに言う人って果たして何言いたいんだろ。論理的に考えるって型を覚えて訓練するもので教条主義的で正にザ·学者な発想やで。思い切り主観を汲み取り科学するような血の通った学問こそ、学足りうると思うがな。