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喪失感。2000年前の哲学者に学ぶひとつの考え方。

21時、職場からの帰路。
薄暗い商店街を歩く家族連れ、カップル、飲み会帰りのグループを眺めながら考える。
「帰宅したら家に誰かがいるのはどんな気持ちだったかな」と。

ひとりの生活も1年半が過ぎたせいか、はっきり思い出せない。
苦い喪失感を覚える。

親密な人間関係を得たり続けたりするには、努力とセンスと運を要するようだ。私にはその全てか、そのどれかが欠けていた。

古代ギリシャにエピクテトスという哲学者がいた。彼は人間関係を含む身の回りの全て、果ては自己の身体も神からの預かりものだと考えた。

だからそれらを失ったとしても、それは本来の所有者(神)に返しただけのことであり、悲しんだり悔やんだりする筋合いのものではない、と説く。

どんなことについても、「それを失った」とけっして言ってはならない。むしろ「お返しした」と言うのだ。

國方栄二訳『エピクテトス 人生談義(下)』(岩波文庫)367頁

この考え方によるなら、私が築いた(つもりだった)ささやかな人間関係も、その他何もかも、そもそも自分に留まる類のものではなかった、ただそれだけのことですな、となる。
エピクテトスの言葉を反芻する。喪失感の構成要素である寂寞や後悔が少し静かになる。

自分のコントロール下にないものをかくも平然と手から離すエピクテトスの諦観。感傷に振り切りそうな心のメーターの針が真ん中付近まで一旦戻る。

午前3時半、暗い部屋で早朝覚醒した私は、書棚に目を凝らし『人生談義(上)(下)』を抜き出す。
狭いベッドの上で約2000年前の思索に目を走らせながら、再び短い眠りに落ちる。(零)

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