見出し画像

人の命は意外と軽いと思わないか?

みなさん、こんにちは。はしまさです。

今回は、タイトルにある通り、人の命について、個人的な考えを述べていきたいと思います。

色々意見はあると思いますので、それぞれの意見を持っていていいと思っていますので、これだけはご理解ください。

私の考え

結論から言うと、「人の命は、みんなが思っているほど重くはない」と思っています。

いつだったか、某Youtuberがホームレスの命を軽視した発言があり、それに伴い多くの人が批判していました。

人の命を軽くみているだとかで。。。

ホームレスと特定した言い方ではありましたが、それでも私にとっては別に批判するほどのことでもないと思っていました。

どちらかとうと、それに便乗してYoutubeに動画をアップしてまで批判しているYoutuberは再生稼ぎでしかないなって思っていました。

でも、私としてもホームレスの人に限らず全ての人の命はみんなが思っているほど重くはない。むしろ人の命って軽いなって思っています。

昔の記事ですが、それでもみなさんの記憶にあるのではないでしょうか。

園児をバスに置き去りにした事件。

そして、池袋暴走事故の事件。

などなど。毎日のように人が死ぬ世の中。

故意に殺人を犯す人もそうでない人も、事故を起こして人を死に追いやる人もそうでない人も、皆等しく人を殺しています。

それでも、逮捕され、数年で生きて世の中に帰ってきます。もちろん、殺陣を犯した人は、賠償金など金銭的な要求で苦しむこともあれば、そうでないこともあると思っています。

でも、世の中に戻ってきます。

だから、私は「人の命って思ったよりも軽い扱いをされている」と思っています。

もし私の子供が殺されたら・・・

では、もし私自身の子供が、高齢ドライバーのブレーキとアクセルの踏み間違いで殺されたら、あるいはバスに置き去りにされ、殺されたらどう思うのか。

もし、人の命が重いならば、「子供の命と等価な物を差し出せ」と思ってしまいます。きっと。

だって、賠償して、表面だけごめんなさいって謝られても、何も帰ってこないし、当の本人は数年後には殺したことを忘れて生活しているだろうから。

ずっと覚えている人なんていないでしょう。その後の経過なんてメディアに取り上げられないんだから、人々の記憶からも消えていきますよね?

周りはどうあれ、私個人としては、我が子を殺された恨みは晴れることはないと思います。

インタビューでよく聞く「二度とこのようなことが起こらないように、働きかけたい」なんて思わないと思います。

真っ先に、我が子の命と等価なものを差し出せ」って言うと思います。

さて、みなさんの中で、「等価なものとはなんぞや?」って疑問に思った方はいるかと思います。

だから、私の考えをお答えします。

きっと、私はこう言うでしょう。

「お前の命をかけろ」と。

もう少し具体的に言うと、もし我が子が5歳だったとしたら、平均寿命を80歳として残り75年分の命を差し出せって言うと思います。

命が重いと言うのならば、そして命は人間全てにおいて重いと言うならば、「等価」なものといえば、同じ命の想定される残りの寿命でしょう。

だから、同じ命という年数を差し出せって言うと思います。

ちなみに、「差し出せ」って言うのは、「いますぐに残りの命を消せ」ってことです。

デスノートに出てくるような悪魔な考えかもしれませんが、でも命は重たいもの、軽いものじゃないと言うならば、上記の考えはありになると思います。

なぜ、ここでいう「命を差し出す」ことができないのか

でも、世の中は、命を別の価値である「お金」に変えて換算しています。

それも、子供でも数千万円程度の価値をつけたりするわけです。

ここで疑問になってくるのが、「生涯年収」という考え方。

価値をつけるならば、サラリーマンの生涯年収2億円と言われるこの金額を基準に考えるべきではないかと思っています。

つまり、もし殺害された人が30歳だったら、60歳まで働くとして、残り30年分の賃金を払うべきではないかということです。

年功序列じゃない世の中になりつつありますが、30歳で殺された場合の具体的な金額は下記の通りになるのではないでしょうか。

前提として、20歳から働き始めて、平均500万円の年収とした場合、10年勤めたので30歳まで5,000万円稼いだことになります。

残り30年も同様に平均年収500万円とした場合、1億5,000万円稼ぐことができます。

つまり、30歳の人を殺した代償は1億5,000万円ということ。この金額を払うべきだと思います。

しかし、現実には、故意ではなかった(たとえ故意だとしても罰を軽くするために試行錯誤しますよね)という言い訳をするなどで賠償金を下げるし、懲役を短くする努力を図ります。

結果、人の命を奪ったとしても罰はそれほど重くはなく、また世の中に帰ってこれるわけです。

どう思いますか?

もし、「人の命」を等価と考えた場合・・・

さて、ここまで私の個人的な考えをずらずらと語ってきました。

では、本当に「人の命」を等価で考えた場合、どうなるのでしょうか。

①仮に、等価の命を差し出す場合、殺害された人が5歳児だったら、加害者及び加害者一族から75年分の命を奪います。

②仮に、等価の賠償金を支払う場合、とても払える金額ではないため、結果世の中未払いだらけになる。

これらはいずれも経済を停滞・後退させる原因になりかねません。

①では、人が減るため国力を失う。人口が減ることでさらに経済停滞する。

②では、これも同様に未払いが横行し、経済が発展するのだろうかと疑問に思ってしまいます。

と、マクロで考えたら、影響が大きくなってしまいますよね。

だから、きっと殺人を犯しても、罪を軽くし、「世の中に貢献しながら、罪を償う」という聞こえのいい言葉を使い、人々に納得させながら、経済をまわし、発展させているんだと思います。

最後に・・・注意点

さて、最後になりますが、ここまで今まで感じていた「命」について言いたい放題語ってきました。

これら全て、確証があるわけではありませんし、ちゃんと調べた情報ではなく、あくまで個人的に感じていること、考えていることを羅列しただけですので、この点ご理解ください。

まぁ、世の中こんなもんだって生きている私にとって、勝手に疑問に思い、勝手に納得して、受け入れて生きているので、特に世の中に対し、「人の命をなんだと思っているんだ!!」って声を大にして活動するつもりはありません。

ただ、きっと私と同じことを思い、考えている人がいるだとうと感じ、発信してみました。

個人の意見があっていいと思っているので、何かした感じたり、考えるきっかけになればと思っています。

補足

私個人の話をするならば、大学時代に友達2人を亡くしています。どちらも白血病で入退院を繰り返し、最後は亡き人になりました。

きっと、生きたかったんだと思います。私と一緒に色々旅行したことも、思い出として亡くなる前に語ってくれました。

また、私の祖父母も亡くなり、癌だとか寿命とは言え、やはり最後にはきっともっと生きて世の中を見たいって思っていたことと思います。

世の中、自殺も一定数いることを考えると、命は重たいのか、軽いのか本当に分からなくなります。

ですが、一つ感じていることは、自殺する人は相談ができなかったり、周りの環境を簡単に変えられなかったり、自分の力ではどうすることもできないと思っている人たちだと思います。

でも、相談なんてできないでしょうから、解決策はもしかしたら、自分で見つけるしかないのかもしれません。

ちなみに、こういうと、また何か言われそうですが、私個人としても、死ぬなら安楽死がいいと思っていますので、半分自殺願望を持っていると言ってもいいかもしれません。

ただ、違うのは、痛くて死ぬことはしたくないですし、痴呆になってまで生きたくないし、人に迷惑かけてまで生きたくないと思っています。

つまり、わがままなんです。

ちなみに、安楽死で死ぬときは、寝たきりになった時にお願いしたいですね。

と、長くなりましたが、まぁ楽しめる内容ではないですが、何か感じたり、考えるきっかけになればと思います。

以上!!!

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が参加している募集

ありがとうございます! サポートいただいたものは、形を変えて、世の中に還元したいと思います。