ひとかどの役者と、なりおおせるために かつての納涼歌舞伎を振り返る。その2 円朝と黙阿弥
勘三郎と三津五郎が注ぎ込んだ熱は、一年では終わらなかった。
年を追うごとに、納涼歌舞伎の狂言立ては、他の月と一線を画していると明らかになっていく。
三津五郎のことばを借りれば、
「八月は歌舞伎がはじめてのお客さまにも愉しんでいただける出し物を考えるのだという。
愉しんでもらうためには、周到な思案が必要だ。たとえば、第一回目の公演で、上演された『怪談乳房榎』と『豊志賀の死』を思い出す。
東京の八月、猛暑を意識しての怪談話。季節を重んじる歌舞伎の狂言立てを忠実に守っているばかりではない。三遊亭円朝の原作による二作を並べているところに、納涼歌舞伎の方向が示されている。
明治期の落語を代表する円朝には、歌舞伎の古典へのむやみな憧れがない。物語性にとんでおり、観客本位の仕立てである。
黙阿弥ではなく円朝
いうまでもなく一年を通して、黙阿弥の狂言は、頻繁に歌舞伎座で上演されている。かといって、めったに上演されない黙阿弥を選んだのでは、八月の売り物とはならない。黙阿弥に拮抗できる作者といえば、円朝より他にはないとの判断が働いたのかどうか。
『乳房榎』(平成十四年・二十一年)と『豊志賀の死』(平成九年・十四年・二十一年)は、この納涼歌舞伎で繰り返し取り上げられることになる。
他に怪談物を拾い上げると、『怪談蚊喰鳥』(平成三年)。岡本綺堂の『番町皿屋敷』ではなく『播州皿屋敷』(平成十四年)。やはり円朝原作だが大西信行の脚本を選んだ『怪談牡丹灯籠』(平成八年)と、ひねった選択を行っている。
初期の納涼歌舞伎では、平成四年に昼夜を費やして上演した『義経千本桜』の半通しが思い出深い。
昼は『鳥居前』『渡海屋・大物浦』、夜は『木の実・小金吾討死』『鮨屋』『川連法眼館』が出て、八十助の忠信、勘九郎の静御前が初役である。
この通しは、平成十三年に浅草・平成中村座で上演された『義経千本桜』(知盛編、権太編、忠信編)へと結実していく。本来は勘九郎のニンにない知盛も出してみようと思ったのは、この公演がきっかけとなったのではなかったか。
古典のなかでも大作とみなされている狂言を通して上演する。その経験を生かして作品全体をつかみ、次の公演につなげていく。コクーン歌舞伎や平成中村座ともつながって、さまざまな上演のかたちを探っていく役割を果たしているとわかる。
一方、三津五郎は、七代目三津五郎の当たり役であった『大原女』を、平成六年に初役で勤めている。
八代目も得意としたが、不思議なことに先代は、六十歳をすぎてからこの踊りを出した。『大原女』は、お多福の面をつめるために視界が狭く、女方の衣裳の下に奴の着付を着込まなければならない。
「六十歳を越えてはじめてやるもんじゃないね」
との父のことばを受けて、早いうちに本興行で手がけておきたい気持がこの舞台で実った。
踊りの家とされるだけに、他でも踊りの大曲を勤める機会はめずらしくない。また、世話物も菊五郎劇団で育っただけに、松緑から教えをうけた『魚屋宗五郎』も、本興行では、平成元年に国立劇場で出している。
それだけに時代物は、坂東の家とは遠いものとばかり思い込んでいた。
演目と配役が発表されたとき驚いたのは、平成七年の『熊谷陣屋』の熊谷である。勘九郎の義経、孝太郎の藤の方、亀蔵の梶原と初役揃いでありながら、戦国の武将の苦渋がにじみでる理知的な舞台だった。
平成五年にすでに『逆櫓』の樋口を演じていたとはいえ、八十助が熊谷を演じるとは、だれも想像していなかっただろうと思う。『熊谷陣屋』の熊谷は、これ以降、『金閣寺』(平成十七年)の松永大膳、『伽羅先代萩』(平成十年)の仁木弾正と時代物の大役を勤めていくきっかけとなった。
納涼歌舞伎が出発した当初は、澤村藤十郎が三年連続して参加していたのを忘れてはならない。また、上置きのかたちで富十郎が加わり、宇野信夫の『巷談宵宮雨』で勘九郎の太十を相手に、龍達を勤めて、昭和の世話物の味を見せた舞台も記憶に残っている。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。