【劇評339】初代萬壽の一門の隆盛を願う気持ちが伝わってくる『山姥』
時蔵が萬壽となり、名跡を梅枝に譲ると聞いて、ある種の感慨に捉えられた。
子供時分はいざしらず、歌舞伎を自覚的に観はじめたとき、当時は三代目梅枝を名乗っていた可憐な女方に心惹かれた。私よりはひとつ上で、同世代意識もあった。同じ年代の勘三郎、三津五郎が五十代でこの世を去ったこともあって、私にとって、萬壽と彌十郎が同じ時代を生きてきたと、共感できる役者となった。
六月大歌舞伎は、初代中村萬壽、六代目時蔵、五代目梅枝の三代が襲名する。あわせて、獅童の息子二人、陽喜、夏幹が、梅枝とともに初舞台となる。襲名は代替わりでもある。初舞台は、新しい歌舞伎役者の誕生でもある。おめでたいことばかりで、歌舞伎座が華やかににぎわった。
若手花形がとりくむ「だんまり」
夜の部は、若手によるお目見えだんまり。『南総里見八犬伝』から、円塚山の場が出た。巳之助の浪人もの網干左母二郎と、米吉の庄屋娘浪路のやりとりに、こぼれるばかりの色気がある。駕籠書きが去ってからのからみも、歌舞伎のクリーシェを巧みに踏まえている。巳之助、米吉の成長を思った。
この幕の見どころは、歌昇、巳之助、種之助、米吉、児太郎、橋之助、染五郎、左近による八犬士のだんまりにある。暗闇のなかで探り合う歌舞伎独特の演出手法だが、それぞれの身体に、味がしみているかが勝負となる。
奇抜な扮装をして、お互い探り合えばよいのではない。実際には舞台上はまっくらではないのだが、観客に闇を感じせせることが不可欠である。今回だけのことではないが、近年、だんまりの闇に深さがなくなっている。様式をみせるだけで、暗闘とよぶにふさわしい緊張感が保てなくなっている。
だんまりは、スタアの顔見世の色彩ももちろんあって、襲名にふさわしい演目ではあるけれども、歌舞伎の味がしみてくるには、それ相応の年季がいる。
儲け役の道節は、歌昇。荒事を得意とするだけあって、だんまりののち、捕手とからんで、花道を引っ込む一連の件りがすぐれている。座頭役にふさわしい芸の輪郭がそなわってきていること、それとともに身体の重みとキレが共存していること。見応えのある道節だった。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。