【劇評242】野田秀樹が、阿部サダヲという化身を得た『THE BEE』2021。10枚。
筆者が大病にかかったために、掲載が遅れたことをお詫びします。初日に観た『THE BEE』の劇評をお届けします。お待たせいたしました。
『THE BEE』については、2006年、ロンドン、ソーホーシアターでの初演以来、ヴァージョンを改めるたびに劇評を書いてきた。
河出書房新社から出した『野田秀樹の演劇』(2014年)の「『儀式』の日常化」には、この戯曲と野田の演出の方向については、もう、書き尽くしたと思っていた。
はじめは英語で書かれ、のちに日本語に翻訳された作品は、野田戯曲のなかでも、めずらしい成り立ちを持っている。そのあたりの特殊性についても、この評論を参照いただければうれしい。
さて、最新の『THE BEE』である。
これまで、小古呂の妻、井戸の役を演じてきた野田秀樹は、演出に回って、出演していない。野田の作品をたどると、大竹しのぶによるひとり芝居『売り言葉』が見当たるくらいで、めずらしい上演形態となった。
もちろん、これは小劇場での上演に限ってのことである。
たとえば、野田秀樹は、大劇場で行われる公演については、東宝で上演された『野田秀樹の十二夜』『野田秀樹の真夏の夜の夢』、『虎ー野田秀樹版・国性爺合戦』にいずれにも出演していない。上演台本を書き、演出家として参加している。
けれども、私自身の実感で言うと、野田は、中村勘三郎を得たことによって、はじめて自分の分身を得たために、出演する必要を感じなかったのではないか。歌舞伎座で上演された『野田版 研辰の討たれ』は、その果実であり、数は少ないけれども、『野田版 鼠小僧』と『野田版 愛陀姫』をあわせた作品群は、野田秀樹が出演していない舞台として輝きを失っていない。
おそらく野田は、勘三郎を得て、はじめて演出席に座って稽古をする喜びを得た。初日が開いてからは、勘三郎の芝居を観ながら、ノートにダメ出しを書く愉快さを味わった。
勘三郎が野田の分身たり得たのは、何と言っても、その身体性だろう。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。