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黒い肌のダンサーによって上演されたピナ・バウシュ振付『春の祭典』が、呼びさました記憶。

 


ピナのいない日常


 二○○九年六月、ドイツを代表する振付家ピナ・バウシュがこの世を去った。
 第二次世界大戦で敗北したドイツ、しかも西ドイツの代表として、ナチスの幻影を振り払い、コンテンポラリーダンスの分野をリードする作品を作りだしてきた。頻繁に世界ツアーを行い、戦後ドイツの文化水準を世界に知らしめる役割を負っていたように思う。

 私がはじめてピナ・バウシュとヴッパタール舞踊団の舞台に接したのは、一九八六年九月の来日公演だった。プログラムAは、『カフェ・ミュラー』と『春の祭典』、プログラムBは、『コンタクトホーフ』。ピナの代表作・演出を揃えて、満を持しての公演である。

 

文化の宣教師として

当時のパンフレットを取り出して見ると、東京ドイツ文化センター所長のDr.クラウス・P.ローズは、
「この十年間に彼女がヴッパタール舞踊団を率いて行った50以上の外国公演旅行は、ほとんど全てのヨーロッパ諸国、北米、南米並びにアジア、オーストラリアに及んでおります。そしてこの度、初来日を果たし、舞踊と演劇は単に豊かで多彩な伝統を有するだけではなく、近年これらの分野において非常に興味深い展開をとげているこの国で公演を行うことになりました」
としるしている。

 ヴッパタール舞踊団が獲得した莫大な助成金は、文化の伝播者であり、復興するドイツのシンボルとなるべき存在に与えられたのだろう。

 東京公演で上演会場に、三宅坂の国立劇場が選ばれたのは、偶然ではない。歌舞伎専用劇場として作られた国立劇場に(新国立劇場はまだ、ない)、厖大な土を持ち込んで敷き込み、『春の祭典』が演じられたときの衝撃が忘れがたい。
 ピエール・ヴーレーズ指揮の録音がリズムを刻んだとき、その明晰な音世界と、人間の存在をすべて投げ出す振付が、摩訶不思議な融合を果たした。私は激しい衝撃とともに、ピナの世界に参入していった。


初来日公演のパンフレットより

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。