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「200字の書評」(370) 2025.2.25
こんにちは。
今年は昭和100年、戦後80年です。昭和レトロがブームになり観光化しています。昭和歌謡も復活してテレビラジオで流され、往年の歌手たちの復活もあります。こんなになるんだと感慨にふけっている時、思いついて本棚から引き出したのは『昭和の晩年』(みすず書房)です。
題名は丁度今を象徴しているよう。著者は井出孫六、中央公論社の編集者を経て作家として活躍しました。故郷の「信濃毎日新聞」に昭和59年(1979年)から10年にわたって連載したコラムをまとめたものです。氏とは多少の縁があって何度かご自宅に伺ったことがあります。茫洋とした容貌の中に知性の深さを感じさせます。いつの間にか『昭和の晩年』の隣には『終わりなき旅』『ルポルタージュ戦後史』(いずれも岩波書店)『新・千曲川のスケッチ』(郷土出版社)などが並ぶようになりました。『昭和の晩年』を再度読み始めると、自分の幼い日のことが浮かび始めました。昭和20年代を振り返ってみます。
《私の「昭和の晩年」》
私が生まれたのは昭和22年(1947年)。日本国憲法(昭和22年施行)とともに歩んできました。
昭和20年代は釧路川沿いの細長い町に、父母祖父母叔母叔父弟と住んでいました。母は東京出身、父は阿寒の山で硫黄採掘の請負をしていて、ほとんど家にはいませんでした。祖父は雑品屋(現在では古物商という)を営み、リヤカーを牽いていろいろ買い込み問屋に卸す仕事です。その中には古本もあって、読めそうな本を選んで読んでいました。母は東京下町の人で、貴重な絵本を読んでくれます。東京から本を取り寄せてくれたり、幼児雑誌、学年雑誌を購読してくれました。混乱した戦後の地方都市、本屋は機能せず雑誌類は大きな荷物を背負った小母さんが届けてくれていました。本屋さんの依頼なのか、個人請負なのかはわかりません。本好きの人生はそこが始まりです。
自宅は根室に向かう国道44号線に面していて、向かい側は高台でお風呂屋さんがありました。記憶をたどると、左隣は小さな板金屋さんと駄菓子屋があり、その向こうには商人宿や自転車屋さんが店を構えていました。右側には民家を挟んで米屋さん八百屋さん酒屋さん等が並んでいて、その先は幣舞橋につながりロータリーがあって日銀釧路支店のビルが威容を誇っていました。まだ砂利道だった国道を挟んで高台の下には漁師さんの家、小間物屋など数軒あって、その脇には共用水道の小屋がありました。蛇口をひねる鍵は各家庭にあり、水汲みは主婦の仕事でした。若き日の母が天秤棒の両端にバケツをさげて担ぎ、台所まで運んでいる姿をハッキリと思い出します。子ども心に手伝おうと担いでみたが、バランスが難しく3歩と歩けませんでした。水道小屋の脇に細い階段があり、風呂屋さんに行けました。そこから小道は急な登りになりNHK放送局の裏に出て、幼稚園への通い路でした。
昭和28年に小学校に入学、歩いて20分ほどの城山小学校でした。学校のすぐ手前にお供え山と呼ばれていた、鏡餅をいくつか重ねたような小山があり、よく遊んだものでした。数年後に突然柵で囲まれ立ち入り禁止になりました。そこはアイヌの史跡で砦跡だと説明され、それが小学校の名称の由来かと思ったのです(正しくはモシリヤチャシ、国指定史跡)。
ベビーブームの時期、学校は子どもであふれ一クラス55人名以上、教室はいっぱいになっています。社会全体が貧しく、上履きなしのはだしの子もいました。衛生状態栄養状態は悪く、蚤虱対策で校庭に一列に並ばされ頭からDDTを振りかけられて真っ白になりました。ダイオキシンなのです。今なら大問題。予防接種も同様に並んで同じ注射器で次々と打たれました。幸い感染症にはならず今日を迎えています。子どもたちは洟垂れ小僧、顔や頭にはガンベ、タムシは普通でした。手洗いうがいなどはせず、給食のパンを手づかみで食べていました。それでもみんな元気でした。貧しさ故の免疫力の強さでしょうか。学校では年に1、2回映画鑑賞があり、繁華街の映画館で「原爆の子」などを観ました。
その前年の昭和27年春、大地震に襲われました。1952年十勝沖地震と呼ばれています。突然の強烈な揺れに丁度トイレから出たばかりでパンツ一丁、慌てて外に走り出ました。家だけでなく地面が波打つ、恐怖でした。足の弱かった祖母が玄関の柱にすがっていて、横に積んであるストーブ用の薪がゆっさゆっさしていました。津波警報があり、川がすぐそばなので向かい側の高台に避難し暮れ行く空のもと、もし家が無くなったらどうしようと不安でした。警報解除後、自宅に戻っても恐怖感から枕元に長靴を置いて寝るほどでした。父の姿は思い浮かばないので、きっと阿寒の山に出かけていたのでしょう。父との思い出は薄く、たまに帰ってくる人でした。
この街は霧が深く、ガスと呼んでいました。灯台の霧笛がボォーボォーとなり始め、深い霧で視界が閉ざされる沖ゆく船に危険を呼びかけていました。寝ていると地底から響いてくるようです。街の中心街にも近く、比較的便利なところでした。幣舞橋を渡るとすぐに繁華街になり、デパート、マーケット、映画館が立ち並び賑やかでした。親は映画が好きで、たまに連れて行ってもらいました。洋画のオデオン座が多かったように思います。映画館はたくさんあって、昭和30~40年代には10数館を数えるほどでした。娯楽の中心は映画で、漁が休みの漁船員やバース待ちの貨物船の乗組員、勤務明けの炭鉱員などでにぎわい、立ち見が普通でした。映画の話はまたの機会にしましょう。
橋のたもとやデパートの前には、傷痍軍人がもの悲しい軍歌を奏でてカンパを求めていました。この街に小学4年まで住んでいました。当時の友達はどうしているのでしょうか。そんな戦後の昭和20年代でした。
さて、今回の書評は鯨の話です。当時はクジラ漁が盛んで、道東沿岸では捕鯨が行われていました。小学校の社会科見学で極洋捕鯨(日東捕鯨?)構内での鯨解体を見ました。まず陸の上での鯨の大きいことに驚きます。数人の係員が巨大な薙刀のような包丁で、あの巨体を捌いていきました。ただただ圧倒されました。メルヴィルの傑作「白鯨」に描かれているように、米国の捕鯨船は鯨油をとるだけのために鯨をとらえ、他は投げ捨ていました。日本では肉も皮もひげも活用していたのです。その捕鯨船の薪や水の補給のために、ペリー艦隊を派遣し日本に開国を求めたのが実態のようです。
山川徹「鯨鯢の鰓にかく―商業捕鯨 再起への航跡」小学館 2024年
子どもの頃、肉と言えば鯨だった。大学時代には新宿駅西口のバラックで、鯨カツで腹を満たした記憶も懐かしい。その鯨肉がいつしか姿を消した。南氷洋では調査捕鯨と称して細々と続けられていた。著者は何故かという疑問から捕鯨船に乗り込む。乗組員、経営陣、政府、研究者などに積極的に取材を重ねる。過激な妨害行動を重ねるグループにも取材を試みる。商業捕鯨再開を熱望する思いと、客観的な困難さにも目配りの効いた労作である。
<今週の本棚>
保阪正康「戦争という魔性―歴史が暗転するとき」日刊現代 2024年
昭和史、ことに戦前戦中戦後を結び日本の変転を見つめ、聞き取りを重ね著作にしてきたのが保阪である。日刊現代に連載した論考に加筆修正し、より詳細になっている。戦争は人間の貧しさ卑小さを際立たせ、本質をあぶりだす。この暗部を見過ごしてはいけないことを教えられる。
桜井義秀「宗教と政治の戦後史―統一教会・日本会議・創価学会の研究」朝日新書 2024年
アベに代表される右派政治屋と統一教会の醜悪なつながりが明らかになった。本書は宗教と政治の関係を、研究者らしい冷静にして実証的筆致で描き出す。この統一教会、日本会議、創価学会の戦後史は自民党政治との密接な関連と、権力にすり寄る思考、行動形態を明らかにしてくれる。選挙を媒介にしてのキリスト教、神道、仏教と権力、不即不離の微妙な関係は如何に。
東郷隆「異端考古学者向井幸介 1994年の事件簿」星海社 2024年
伝奇小説を手に取った。なかなか面白い。古事記所縁の太安万侶と稗田阿礼は生きながらえ、現代日本で活躍する。古墳発掘を専門とする研究者ながら、ある事件でキャリアを失い発掘請負に身を落とした向井は、親しい友人で同じ研究者の怪死に疑問を感じ探るうちに不思議な世界に足を踏み入れてしまう。今を生きる例の二人の逃避行に同行する羽目になる。戦後史の暗部GHQの謀略機関の一翼、G機関に追われ、古代から連綿とつながる縁を辿り、ついに山梨県に逃げ込む。彼らをかくまうのは武田氏の流れをくむ秘められた一族であった…。ネタバレになるのでここまで。古代史、中世史、戦後史も概観できる展開が面白かった。
髙橋秀実「ことばの番人」集英社インターナショナル 2024年
校正は文章だけではなく、絵やデザインにもある。一字一字原稿を追い、誤植、漢字の違い、助詞の使い方、ことわざの当否、引用の典拠などを文字通り虫眼鏡で探すがごとく読み切る。中には辞典辞書を数百冊所蔵している校正者もいる。「広辞苑」を百点以上所蔵し、同じ辞書の初版本でも違いがあると指摘するほどである。時とともに言葉の変化はありうるのだが、漢字一つとっても歴史的変遷があると思えば、言葉を雑には扱えない。日々漠然と本を読み、面白かった、分からなかったなと能天気な本読みには、チョッと耳の痛い本でもある。
八潮市の道路陥没事故について考える
――元土建屋ワカゾノ君の見方(1級土木施工管理技士ですぞ)
あくまでテレビ新聞等の報道の範囲の見解です。もし現地を見ていればもっと的確な話ができるはずです。
① 事故当日の初動は適切だったのか。
人命救助救援は第一義的に消防の担当である。陥没の規模はさほどではなく、トラック(ユニック付き4t車?)の全体が見えていた。運転者との会話も可能であった。何故この時点で、強力なクレーン(30~50t級)を手配し引き揚げなかったのか。何らかの困難があったのかもしれないが、経験のある作業員(玉掛け技能者)ならどこにワイヤーをかけるか、吊り上げるバランスはどうかを判断できる。現場での意思決定はどうなっていたのか。警察は勿論道路管理者、下水道管理者、ガス水道事業者、電気電話事業者等との調整はできていたのか。さらに、地下埋設物は複雑に入り組んでいるので、該当する工事関係者への聞き取りと立ち合いは求めたのか。工事業者と発注者の監督員から現場状況や土質、地下水位についての情報を聞き取りしたのか。工事完了後には必ず出来形図面を提出している、それを参照すれば地下の状況は一定程度分かる。
② 2日目以降の体制について
陥没の規模が拡大し、対応の困難さが増している。トラックはまだ見えているものの、運転者との連絡は途絶えた。やっと引き上げられたのは後部の荷台のみ。土砂の堆積と沈下が進行して荷重がかかり、運転席は埋没しているようだ。ここまで事態を悪化させたのは何故か。結局運転者の救出はかなわなかった。適切な時点での総合的な対策に切り替えるべきだった。つまり大規模な土木工事の様相を呈し始めていたのだ。地面の下の工事は土質、地下水位などによって工法、手法を対応させる。加えて都市部の道路には上下水道管、ガス電気の配管、情報関連の管など複雑な要素が絡んでいる。消防の経験、装備、知見を超えている。テレビで見ていて土木屋の目からはなぜ崩落防止の土留め支保工、既設管類の防護、排水対策をしないのか疑問だらけだった。地面を掘り下げる工事は 水との戦いなのだ。特に地下埋設物の埋め戻しには発生土または砂が使われていて緩みやすく、特に水のある現場では深刻な事態になる。砂地と水は処理に困難が伴う。
③ 技術的問題
破損したとされる下水道管の基本的事項が示されていない。口径が4mを超える大口径管の構造、材質、施工方法、基礎工などが明らかにされていない。シールド工法、現場打ち、オープンカットなのかは不明。これだけの大口径になると施工の困難さは相当であったろう。破損原因は硫化水素による経年劣化と予想されているが、継ぎ手部分の破損、地盤の不同沈下なども想定される。当時の発注者側監督員、施工業者などの見解を知りたい。
④ 対応の体制について
現場の状況と市民生活への影響を考慮して総合的な対策本部を設置し、県、市、消防、警察、関東整備局など関係機関を網羅して調整と迅速な対策を実行する体制構築が求められた。現場の位置から交通、給排水、住民生活上の要衝に当たると見える。総責任者と現場指揮者を決定して、権限を持って迅速に対処するべきであろう。おそらく埼玉県を中心に組織されていたのであろうが、よく見えていない。時折県知事が記者会見をしていたが、必ずしも要領を得てはいない。専任の広報係(可能なら技術的知見のある人物)を置いて、定期的に現状と今後の方向について記者説明をすべきだった。それにより住民の安心感も増したはずである。同時に、住民対応をする専門の窓口を設置して要望や危機感に対応すべきであった。運転者家族への適切な応対も必要であろう。
⑤ 今後の方向性
復旧には相当な期間と莫大な経費が想定される。直接工事費に加え損害を被った地元事業者、店舗などへの営業補償と家屋住居への修繕費用、精神的苦痛への補償も想定されかなりの額に上る。工法を見極め設計積算を可能な限り早くして、復旧に努めてほしい。かなり大掛かりで困難な工事になり、住民生活に少なからず影響を及ぼすであろう。真摯にして丁寧な対応を期待する。また、予算は巨費を必要とする、工事費だけでも少なく見ても数十億円に上るだろう。負担は県民負担になるのだろうか。県は補正予算に約40億円を計上したと聞く。厳密な積算は今後に持ち越すだろうが、県民としては見つめるのみ。
⑥
ここまでいくつかの疑問を整理してみたが、あくまで報道で知った範囲内であり、若いころの土木工事現場での体験からの見解です。発生当初から興味深く見ていた。疑問が多く、何故矢板等で土留めをしないのか、消防のあの動きでは水と砂に負けるぞ、ボックスカルバートは落ちるぞ、崩落は拡大するぞ、などとテレビ見ながらハラハラしていました。残念なことは悪い方向に事態が進み、予感が当たってしまったのです。おそらく現場体験のある土建屋は同じ思いでしょう。今後の復旧は困難が予想されます。現代の技術で早期に復旧することを願うばかりです。
【如月雑感】
▼ 城山三郎の小説に「粗にして野だが卑ではない」がある。副題にあるように第5代国鉄総裁の石田禮助を主人公にしている。トランプの発言とパフォーマンスを見ていて、この言葉が浮かんだ。品のなさ、拝金主義、差別的言動。まさに「粗にして野であり卑でもある」を体現している。関税を武器にしての他国への恫喝、グリーンランドを買い取るなどのむき出しの領土欲、他国他地域への(特にアジアアフリカ系)軽視と偏見。イスラエルへの強烈な思い入れの一方で、ウクライナ戦争ではプーチンへの好意を隠さず、頭越しに妥協を図る無節操さには知性のひとかけらも感じられない。ウクライナ支援の見返りに、埋蔵するレアアースの権利50%を要求するあたりは、暴力団が用心棒代(見ヶ〆料)を要求するのに共通する発想そのもの。居丈高な態度の陰の卑しさ卑小であろうか。
▼ 超大国アメリカが普通の大国になる一過程にみえてくる。こうした人物がどれほど自国の評価と敬意を毀損しているのか、米国民は考えなくてはならない。相手の意表を突いた居丈高な態度で要求をぶつけ、そこから交渉によって落としどころを探る。つまりハッタリを効かせておいて威嚇して有利な取引を図る。見え見えである。それに対して毅然と対応するかどうか、首脳たちの見識が問われている。では、わが総理大臣は見識を示しえたのだろうか。宗主国の王様に謁見願い、お目通りを許されて嬉々として帰って来ただけなのだろうか。ため息が出る。
▼ コメ価格の高騰が深刻になっている。スーパーの米売り場の棚はスカスカ、しかもこれまでの2倍近い値札が付いている。瑞穂の国日本の主食はどこに行ったのだろう。年金生活者としては、この値段では買うのにはためらいがある。農水省や一部のメディアは買占め売り惜しみが主因だという。米の生産量は昨年よりも多いと発表されているのだが、実際には店頭に出てこない。ここで疑問、本当にオカミが言うほどコメの生産量はあるのだろうか。実は不足しているのではないのか。米余りと言って数十年前から減反政策を強行してきて転作を奨励し、米農家の意欲を失わせてきた結果ではなないのか。農家の高齢化と相俟って生産量は激減しているのでは?と不信感が沸き上がる。農水省というお役所に、国民の食を確保する能力はあるのだろうか。利権と地位確保が潜んではいまいか。食の安定こそ、国の安全保障の最優先課題だと思うのだが。
▼ ホンダと日産の統合協議が頓挫した。昨年暮れにこの話を聞いた時、これは無理筋だと感じた。あまりにも企業風土と体質が違い過ぎる。ホンダは創業者の本田宗一郎に見られるように、進取の精神と冒険心に富んだ起業家的な社風である(今はやや薄れているが)。一方の日産は戦前からの歴史を持ち国策に従って満洲に進出した経緯があり、戦後も混乱期の中で労働運動を抑え込み、銀行から経営者を迎え入れ官僚的な体質を持っている。通産省の指導によるプリンス自動車との合併では闊達なプリンスの社風を嫌い、左派系労組を暴力的に解体させた。名車と称されたスカイラインは本来プリンスの車種である。経営感覚は保守的で意思決定が遅いといわれている。ブルーバード、スカイライン、フェアレディZなど看板車種を生かせぬ体質に問題がある。無骨ながら個性的で、操る楽しみのある車を作った会社なのに。
▼ 明日は2月26日。二・二六事件の日である。戦前史の忘れてはならない日である。すでに何度か書評と今月の本棚で取り上げている。機会あるたびに、意識的に取り上げていきたい。
☆徘徊老人日誌☆
2月某日 友人より電話あり。札幌のY崎氏逝去の知らせであった。学生寮時代の1期上で、例の不良老人会の仲間であった。長髪をかき上げ熱弁をふるう彼の姿が目に浮かぶ。数年前まで時折上京していて、その際は例のメンバーで飲み会が通例だった。コロナ禍前までは年に1回、札幌定山渓温泉での宴を彼が主宰してくれていた。かねて透析をしている健康状態から、無理はできないと知ってはいたが、いざ訃報に接すると堪えるものがあった。1960年代を共にしてきた仲間が旅立つ、昭和が遠ざかっていく思いが込み上げる。春の定例老人会で偲ぼう。合掌。
2月某日 北陸東北の日本海側に豪雪が続く。最強寒波と称される天候が容赦なく襲ってくる。除雪排雪が追い付かず、日常生活の不便が深刻化している。道路鉄道の交通網も寸断されがち。雪の重みによる家屋倒壊も心配だ。過疎と高齢化が進む地域では、その深刻さは命に係わるのだろう。雪の恐ろしさは体験したものでなければ分からない。太平洋側に位置し普段雪の少ない道東でも大雪となり、釧路の友人から雪かきをする写真が送られてきた。その写真の背景に鹿が映り込んでいる。家の敷地で悠然としているのだ。湿原が近いので凍った湿原を渡って来たのだろうか。
2月某日 散歩の道すがら、近くの本屋さんに寄った。書店の閉店廃業が相次ぎ、現在は盛時の半数だという。チェーン店の一つではあるのだが、貴重な店なので時々寄ってみる。残念なのは私の好みに合う在庫がなくて、たまに買おうとは思うのだが果たせないことが多い。そんな或る日、眼についたのがDVDブックの「西部警察」。石原裕次郎、渡哲也、舘ひろしなどが画面いっぱいに活躍する刑事ドラマだった。石原プロ最盛期のテレビドラマ、息子とよく見たものだった。懐かしくて、つい買ってしまった。再生すると今では考えられない銃撃戦、爆発、カ―アクシヨン、出てくる車はニッサン車ばかり。古き佳き時代だったのかもしれない。現代の日産の凋落を思う。
2月某日 民家の庭先で紅梅に並んで白梅が咲いていた。紅白揃い何とも春らしい風景に出会った。寒風烈烈の2月だが、春の足音が近づいてくる。茅屋の狭い庭の白梅の芽が膨らんできた。今年は福寿草に会えるだろうか。
2月某日 教育テレビ「こころの時代」を毎回録画でみている。『宮澤賢治 久遠の宇宙に生きる』の第5回。回を重ねるほど宮澤賢治という人物がわからなくなってくる。裕福な家庭に育ちながら家業を嫌い進学し、上京して童話をひたすら書き溜め。法華経を信心し国柱会の活動に没入する。結局帰郷するのだが、こうした行動は一種の高等遊民的な生活スタイルともいえる。また妹のトシを溺愛し、その死を自分の死に重ねる。一方で、農民本来の在り方を求めてストイックな農民になり切ろうとする。専門的な知識を生かして同志を募り農業指導にも努める。いくつかの顔を持っている。次回第6回が最終講義になるのだが、自分の中に納得のいく賢治像を描けるだろうか。
今週後半からは気温上昇の予報が出ています。積雪地では雪崩や家屋倒壊の危険が増します。春を切望する一方で、危うさも潜んでいます。花粉の恐怖が本格化します。危機への備えを固めましょう。
ご健勝でありますよう。