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ドラクエ=私。(全ては私の命)
2024年も残すところあと2日。
年末やお正月といえば、こたつに入り、ゲームをする。それが幼き頃の私の習慣でした。
その際欠かせないタイトルといえば「ドラクエ5」です。
大好きなゲームで、今もたまにやりたくなります。もちろんスーファミです。
ドラクエ5はドラクエシリーズの中でも大人気の作品で、PSやDSといった他の媒体でリメイクされたり、あるいは映画化されたり、さらに最近ではYouTubeなどでAIが世界観に沿って作り上げた映像が上がったりして、その特異な世界観が魅力で、作品に触れれば一気にその世界観に引き込まれ、羨望の思いに駆られます。
私はドラクエが大好きで、あの世界観に強い憧れを持っておりました。
フローラやビアンカのような美しい奥さんと一緒になり、世界中を旅して、勇者の務めを果たす。そして子供にも恵まれ、大自然とともに生活を送る。
憧れです。あんな生き方ができればどんなに良いか。今でも思っています。私はオタクで、たぶんこの考え方はオタクならではなんですね。
ある種の独占欲というか。自分のものにしたいという思いがあるのです。
大好きな作品に自分を投影する。またなんとかしてその世と関係を持っていたい。
しかし現実の私といえばしがない1人の僧侶。奥さんもいなければ、お金を稼ぐのがやっとです。旅に出るどころか、毎日小さいお堂に取り残されています。
実際にその世界いれば勇者のわけがなく、確実に僧侶となるわけです。私はどうしても勇者がいいのです。しかし現実の私はただの僧侶で、このドラクエとは無縁な生活、そう思っていました。
ただもしかしたらこんな髪のない坊主姿の私でもドラクエの世界を実際に生きているのではないかそう思ったりもするんです。
これまで私は自分という人生の中にドラクエというコンテンツがあって、それはプレーする側とされる側、そのような明確な線引きを両者の間でしておりました。
あちら側とこちら側。こんな風に。
あちらとこちらという場所にはそれぞれの世界があって、私はそのあっち側の世界と関係を気づくためにはこちら側から憧れて手を伸ばすしかなかったわけです。
つまり自分とは「別物」、自分とは「別世界」だったわけですね。
しかし本来世界にはそういった線引きはないのではないかと思うのです。
例えばドラクエが大好きでプレーをしていたあの時の思いや、憧れ、その想いが当時の自分を動かし、当時の人生に確実に作用していたと思うんです。
そしてそのまま年をとり、その延長が今で、今はその当時の思いもちゃんと生かされていると思うんですね。
つまりドラクエという単なるゲームが私を作り、その私が今こうしてお寺にいるということです。
また仮に私が一才ドラクエを知らない人間だったとします。
俗に言う、それは無関係の間柄なのでしょう。
しかし無関係であったとしてもその無関係という関係性で今の自分は生かされているわけです。生きていられるわけです。
つまりドラクエとは無関係という関係性によって生かされているわけですね。ドラクエと無関係であることによって生きていられるわけです。
仮に私が知らないドラクエだったとしても、鈴木くんはドラクエを知っているかもしれない。斎藤くんもドラクエを知っているかもしれない。
そんな鈴木くんと斎藤くんの作る缶コーヒーを私は今飲んでいて、あるいは彼らが作るご飯によって私は今こうして生きているのかもしれない。
仮にゲームだとしても、それはこのような経過をへて、仮想ではなくなり、現実のものとなるわけです、ドラクエというのは現実なのです。
あらゆるものは命を動かす成分なのです。仮にそれがバーチャルであったとしても無関係であったとしても。
全ての存在は全てと必ず関係性を持っています。無関係という関係性を持っているのです。そして全ての存在はその無関係の関係を含めて、こうして生かされているのです。
ドラクエによって全てが生かされている。今私が生きているのもドラクエのおかげなのです。
なのでゲームを侮ってはいけないんです。ゲームは場合によってはこれ以上ない我々の命となり得るのです。
そのほかにもパワーのあるコンテンツが世界を絡み合って、今自分の目の前にも現状している。またあるいは誰からもプレーされないようなゲームであっても、それが存在しているということは確実にこの世界を振動させている。そしてその振動は必ず今の自分に届いているわけです。
極論それが存在していようが、いまいが、無関係という関係性すら認められるわけですから、全ては今こうして現実となって私に関与しているわけですね。
この世の全ては私のわけですね。
言い方を変えればどんなことも関係していて、無関係なんてことはこの世にあり得ないということなんです。全てが1つとして溶け合っている。
これを達磨様の言葉で「諸法無我」といったりします。我などどこにもない。逆にこの世の全てが我だと。
私はドラクエが大好きです。しかし憧れという焦がれをしなくても、変に近づこうとしたり、手を伸ばしたり、関係性を築こうとしなくても、私はまさに今あの美しい世界に生きているのだと、形式はどうあれ、あの世界をまさに今生きているのだとそう思ったりするのでした。
結論:ビアンカ派