「誠の愛」って何だっけ? 〜夏目漱石『それから』読書日記〜
前書き&ちょっとした解説
所謂「前期三部作」、『三四郎』に続く第二作。第三作は『門』。「前期三部作」とは夏目漱石の作家活動前期の代表作であるかというとあまりそういうことではなく、男女の恋愛という物語上の共通の性質をもつことと、主人公やその他の登場人物は違えど物語のテーマに一貫性があることから、一つの物語と捉えられる、という意味合いからそう呼ばれることが多い。
例えば、『三四郎』では上京したての右も左も分からない学生の三四郎が自由奔放な女性に憧れ、あれこれと振り回されながら最後には彼女が別の男性を選んで失恋する、という結末が描かれているが、『それから』では大学を卒業して長く定職に就かずフラフラと生活している代助が大学時代に友人に譲ったかつての恋人に対する愛情の未練を再燃させるという所から物語が何となく繋がっており、その物語の最後に提起された「社会の掟に背き真実の愛を貫くことへの罰」が次の『門』の主人公の苦悩の物語に受け継がれる…といったように、一連の物語の連続性(失恋→略奪愛→それに対する罪の意識)を見出すことができる。
『それから』のあらすじ
...というちょっとした解説はさておき、物語の大枠を説明していくと、主人公は略奪愛以前に自分の生活ですら親に依存しないと維持できない癖に、世の中に対してはどこか達観した様子で自分のことを高尚な文化人と思い込んでいる、所謂高学歴ニートである。生きていくために働くことは人生の美学ではないといいつつ、「俺が働かないのは俺を受け入れない世の中が悪い(意訳)」と言い張る始末。この時点で既に自分のことを言われているようでヒヤリとさせられる。
一応念のために説明しておくと、「高等遊民」という言葉で知られているように、戦前の日本に於いて大学の高等教育を受けていた人たちはほんの一部の富裕層のみに限られていたから、大学を卒業して定職に就かずにいたとしても、親の援助で十分に暮らしていけたため、こういう人たちは昭和前期にかけて一定数存在しており、漱石の作品ではしばしば登場人物として現れる。こうした一定の教養や知識を持ちながら社会でその価値を発揮できずのけ者にされていく人たちはツルゲーネフに代表される19世紀ロシア文学の中で「余計者」という言葉に特徴づけられており、実は漱石以前にもロシア文学に強く影響を受けた二葉亭四迷『浮雲』の主人公内海文三にもその特徴が表れているため、日本近代文学にあらわれる特徴の一つとして、この「余計者」をモデルにした近代人特有の苦悩というものを挙げる風潮がある。
まぁ何も「余計者」=親のすねかじりの放蕩息子というのではなく、近代の日本を動かしてきた教養主義を信じて成長してきたインテリ的近代人が、自分の信じてきたモノと実社会や自分自身の本心との矛盾に苦悩したり対立したりする、という構図をみてとると、「余計者」とは近代社会から疎外された者たちであり、漱石が「余計者」を通じて何を描きたかったのかを何となく感じ取れる、ような気がしてくる。
しかし、そもそも現代ほど皆が豊かでなかった近代では、働かずに時代と己の矛盾についてゆったりと考えられる程の余裕のある人は、都会に住む一部の「高等遊民」しかあり得なかったのであり、それを書くことができる作家たちもまた、文章を書いて飯を食うことができるという点を除けば、皮肉にもそのほとんどが「高等遊民」と同じように高等教育を受けられる、又は親の金で一生飯を食っていくことができるような裕福な身分の生まれだった。だからこそ、没落士族の生まれで一市民として日々の貧困に耐える生活を送りながら、尚且つ社会に対してハンディキャップを持つ女性であり、吉原に暮らす娼婦の娘という(本当の意味で)社会から隔絶された土地に生きる子どもに着目した小説『たけくらべ』を描いた樋口一葉が次世代の作家として文壇に注目されたのではないか、とも思う。
閑話休題、かつて大学時代に友人だった菅沼(故人)に連れられて上京してきた三千代に対して、恋心を秘めながらも兄に先立たれて拠り所をなくした彼女を同じく大学の友人である平岡に譲り渡した主人公の代助。三千代は銀行に就職した平岡と共に上方(京阪地方)に移り住んだが、平岡が仕事のトラブルで借金を抱え職を失い、東京に戻って来たところから物語が始まる。
三千代は上方で平岡との子供を設けていたが、子どもが夭折したことがきっかけで体調を悪くしており、病気と夫の失職と借金で生活も困窮していた。そんな三千代の様子に代助はかつての恋心を燻ぶらせ、「親の金で」平岡夫婦の借金の返済にと三千代に小切手を渡し、ない袖から親の金を搾り出す始末。
しかし、代助が一方的に三千代に対して過去の恋心を再燃させていたというのではなく、平岡夫婦の間でも子供の夭折と平岡の失職を機に夫婦仲が冷めきっており、平岡自身も東京で新聞社に再就職したはいいものの、かつての誠実な銀行マンではなくなっており、夜遊びで遅くまで家に帰らない日々が続いていた。そんな中でかつて親しくしていた代助と再び逢瀬を重ねることで、三千代の気持ちも夫ではなく代助に向けて傾いていく。
ここまでは現代日本の昼ドラでよくありそうな不倫の物語だが、ここで一癖二癖加えるのが漱石流(?)。代助は元から三千代を略奪したところで妻を養えもしない親のすねかじりである上に、父親の縁故のある令嬢との結婚を強く勧められる。
代助は父親とその財産を継ぐ兄の援助に頼り切っており、表面上はのらりくらりと就業や結婚の勧めをかわしながらも、内心は彼らを旧時代の人間(父親は維新の活躍で出世した武士であった)や社会にうまく溶け込むことしか能のない凡人と軽蔑していた。しかし、実際には父と兄の実業は不景気の煽りを受けており、代助の結婚は他の実業家の令嬢と結婚させることで経済上家から独立させる意味合いを持たされていた。
余談ではあるが、漱石の作品中には意外とこうした時事ネタや身内ネタ(自分が過去に書いた評論や弟子の書いた作品が作品内で言及されたりする)が書かれたりすることが多いので、巻末の脚注と合わせて読むと面白い。特に日露戦争後の財政赤字と債務超過による不景気や財界と政治の癒着(日糖事件)など、実在の経済状況や事件が作中背景に現れることに、漱石が富国強兵を基に積極的な近代化と対外政策を推し進めて来た近代日本の発展の負の側面を見ていたことが伺える。
そんな訳で、親の都合による結婚よりも真の愛情を選んだ代助は、父親に令嬢との結婚の拒否を告げ、平岡にも三千代との不倫を告白し、彼女を渡すように通告する。平岡からは断交を言い渡され、親には勘当を仄めかされたものの、代助は三千代との愛を貫いたことに満足気な様子。しかし世の中はそれを許す程甘くはなく、当時の不倫は所謂「姦通罪」として立派な犯罪行為であり、平岡から告げ口された父親についに勘当を言い渡され、密かに頼みにしていた兄夫婦からも激昂されて見捨てられる。三千代も心臓に病が見つかって倒れ、平岡が当分の間面倒を見るということで二人は引き離されてしまう。こうして仕事を探すしかあてのなくなった代助は、狂気に陥りながら家を飛び出し、「自分の頭が焼けつきるまで電車に乗って行こうと決心」する…。
物語はざっとこのような感じ。
感想&ちょっとした考察
「なんだ、結局ニートが不倫に手を出して痛い目見ただけじゃねぇかよ…」と思われるかもしれないが、その一言でこの作品の評価をしてしまうには、余りにも惜しい。恋愛小説としての前期三部作の第二部として見れば、年上の美禰子に惑わされて自分の気持ちもよく分からないままにフラれた前作の三四郎と比べると、不倫とは言え本作の主人公の代助は立派な「恋愛」をしている。特に、代助が秘めていた想いを遂に三千代に告げる場面や、その想いに突き動かされた三千代が代助にどんなことがあっても付き添っていくと強く応える場面は心を突き動かされる。
『彼岸過迄』を読んでもそう思ったけれども、漱石の書く男女の恋愛の情緒の描写は、決してロマンチックでも官能的でもないが、どこかまっすぐで人間らしいという印象を感じる。同時代の小説と比較しても平易な文体で書かれているから、現代の我々が読んでもその素朴な感情表現がすんなりと入って来る。「月が綺麗ですね」のエピソード(これはほとんどガセネタに近いが)に現れているように、決して恋愛に器用でない男や女のぶっきらぼうな愛情の表現に、漱石は秀でているのではないかと感じる。逆に、『三四郎』の美禰子が三四郎に言い残す「迷羊(ストレイ・シープ)」なんて表現は、聖書の上に現れる言葉でその表現の真意が彼女の口から語られずに終わる上に、さも意味ありげに物語中に繰り返し頻出されるから、逆に三四郎にとっても読者にとってもその意味を掬いずらい言葉になっている。もしかしたら漱石自身も、美禰子のような「ファムファタル(魔性の女)」をどうやって表現するのかに苦心した結果が、「ストレイ・シープ」という言葉なのではなかったのだろうか(笑)と考えてしまうほどである。
このように、三千代を本気で愛することを決意した代助の気持ちと、それに必死で応えようとする三千代の気持ちが重いからこそ、終盤の代助の実家からの追放と三千代が本格的に病に倒れる描写が悲劇的に見え、家から飛び出した代助の狂気的な描写が悲痛に見えてくるのである。確かに代助は結婚以前に無収入で親の穀潰しのどうしようもないニートで、二人の関係はれっきとした不倫関係である。当時の時代背景を考えれば不倫は犯罪級の倫理に背く行為(姦通罪として知られる)であり、現代においてもなお不倫は許されざる行為として一般的に認知されている。が、代助から三千代を譲られた平岡が真摯に夫として三千代を愛していたかと言われると決してそうであるとも言えないし、もし二人が結ばれたところで幸せな結末に至るとは思えないが、漱石の言う「誠の愛」が何たるものであるかを、この二人の関係性に一応見出すことができるのではないかと思う。
そもそも、漱石がなぜ不倫を扱ってまでして「誠の愛」なるものを書きたかったのかと言うと、文庫版の作品解説に書かれているところによると、弟子の森田草平が書いた『煤煙』を読んだ後の疑問がその発端にあるらしい。森田草平と言えば平塚らいてうとの心中未遂が有名であり、『煤煙』もその時の出来事が基に書かれた森田の出世作であるが、森田の師匠にあたる漱石自身は、『煤煙』に対し「肉の匂い」があると作中で代助の口を借りて批評している他、男女の恋愛の情念が如何に社会の規範や道徳を逸脱させ得る力を持つのかを甚だ疑念に感じており、そのことが『それから』を書くきっかけになったと語る。確かに、『煤煙』は未だ読んだことがないけれども、主人公の男は心中未遂を図るヒロインに対して明らかに性的に欲情しており、ヒロインはそれに対して明確に拒絶するというすれ違いがある。二人の試みる心中には男の側からすれば叶わぬ恋に対する絶望から死ぬという希望が、女の側からすれば自分を貫き通すために死ぬという希望があり、そこに漱石の狙う「誠の愛」はない。
言わば、『それから』は漱石が思う「誠の愛」をきっかけに「不倫」という社会の道徳から逸脱する行為を描く、『煤煙』に対するアンチテーゼとまでは言わずとも、漱石なりの「回答」と言える作品なのではないかと思う。
が、代助と三千代の関係が本当に「誠の愛」と呼べるのかというと、僕の所感からすればそれはNOであると思う。というか、『それから』では現在の代助の三千代に対する恋慕ばかりが注目されて、代助が三千代と関係を持つに至った学生時代にあまり描写が割かれていないから、代助が三千代に対する想いを「再燃」させたというには、些か説得力が足りないのである。
三千代の亡くなった兄と平岡と代助は大学の友人同士で、平岡と代助は当時から三千代と関係を持っていたが、代助が三千代を積極的に気にかけるようになったきっかけは兄を喪って孤独の身になった三千代の身を案じてからであって、そのように語る代助自身の述懐にも、口数が少なく引っ込み思案な三千代を一方的に「悲劇のヒロイン」と見做しているような気がして、本当に三千代という人間そのものを愛しているのかという疑問を感じる。ともすれば、代助は社会に自分の価値を見出せないから、悲劇のヒロインを救う王子様のような恋愛関係上の立ち位置に、自分の価値を見出してるようにも見えてしまう。だからこそ、気持ちだけではどうしようもできない平岡家の金銭の援助にも親の金を使ってしまうのではないのだろうか。
三千代自身も、兄を亡くして自分を真に愛してくれない平岡に嫁がされたという自分の悲劇的な状況に酔って行先のない感情の矛先を代助に向けているような気がするし、家庭を持つ程の能力もなく人並の哀れみしか向けてこなかった代助に対して、「自分の身はどうなってもいいから貴方と何処までも寄り添っていきたい(超絶意訳)」と言う程の、強い感情の根拠がよく分からない。そもそも、代助が自分を慕っていることが事実だとしても、数年前に代助は自らの気持ちを売り渡して自分を平岡に譲り渡したということになり、今頃になって「実のことを言うと君のことが昔から好きだったから、やっぱり自分と結婚してくれ」と言い張る代助を信頼することが果たしてできるのだろうか。
以上を踏まえて僕が改めてこの小説を考察するのなら、代助が社会の掟に従うことを捨ててまでして得た「自然」の情念たる三千代への愛情とは、結局のところその時の気分次第で動かされた感情から生まれたものに過ぎず、そこに貫かれてきた愛というものは最初から存在していなかった、ということになる。代助は散々と社会の掟に従ってきた兄のことをけなしてきたが、自分が兄とは違うと信じていた気持ちも兄の気持ちも、両方とも自分が正しいと思う道と自分の気持ちに正直に向き合っただけに過ぎなかった。
だが、代助の信ずる道も兄の信ずる道も、どちらも又社会という概念に対して相対的なものであり、そこに近代人特有の苦悩を見てとることができる、とも考えることができる。社会という曖昧な存在である癖にそれに従って生きなければならないと命じられるかのように生きてきたからこそ、それに従って生きようとする意志と、ただ自然に身を任せて生きようとする意志が生まれてくるのである。
前期三部作の第三部である『門』では、この社会上の掟を破ったことによる「罪の意識」がテーマとなる。主人公は不倫の末に親友の妻を娶り、ひっそりと社会の影の中で生活しており、苛まれる罪の意識から逃れるために宗教に救いを求める。社会的動物であることを宿命づけられた近代人と恋愛や宗教との関わり合いなど、夏目漱石の書く小説の題材は本当に人間的だなぁと思う。人生に悩んだら漱石を読むべきである。
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