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クドカンワールドに魅せられて

ちょっと前に、毎週のように楽しみにしていた、「新宿野戦病院」シリーズが終わった。

最終回、私はいつものように、気がついたら、笑いながら涙しているというよくわからない状況になってしまっていて、それをもってまた、私がクドカンワールドの中にどっぷりと浸ってしまっていることに気がついた。

なんだろう。
本当に自分でも不思議だと思う。
今までにたくさんのドラマを観てきて
笑えるコメディでたくさん笑ってきたし
泣けるストーリーで何度も感動の涙を流してきたけれど

コメディ要素全開の部分に笑いながら
けれど気が付いたら感動して泣いてしまっているのは、宮藤さんの作品だけだ。

しかも、だいたいドラマって最終回に泣くことが多かったりするけれど
宮藤さんの作品の場合、「えっ、何でここで自分泣いてるの?」みたいに自分の意思と反して、全然ストーリーの中盤とかで泣いてしまっていたりするのでよく驚くことがある。
(今回の新宿野戦病院シリーズで言えば、第7話の堀井さんとお母さんの話とかはボロボロ泣いてしまった。)

なんだろう。
そしていつも最終回が終わるといつだって
私もその輪の中に入りたい。
一登場人物として混ざりたい。
みんなと友だちになりたい。

そんなことを思ってしまうのだ。
できることなら、あのまごころの屋上で、ヨウコ先生たちと一緒に一服したいし
恋に悩んだら堀井さんに恋バナを聞いてもらいたかったりもする。

最近amazonprimeで観た「木更津キャッツアイ」のときもそう。
できることなら、あのみんなが集っているマスターの店でぷかぷかタバコを吸いながら、水のようにビールを飲みまくりたいし、一緒に計画を立ててみんなで泥棒してみたい。

けれどそれができない現実に急に引き戻されてしまって、どうしようもなくて何度も繰り返し好きなシーンを再生したりしてしまったりする自分がいる。

なんだろう。
不思議だけれど、宮藤さんが描く登場人物たちを観て、そばにいると、限りなく自分の心が落ち着いてしまうことがよくあるのだ。

この不思議な感覚のままにいろんな作品を観てきた。

「新宿野戦病院」
「池袋ウエストゲートパーク」
「木更津キャッツアイ」
「俺の家の話」
「ゆとりですがなにか」
「不適切にもほどがある!」

どれも観て大好きになった作品で
まだまだ観たい作品もたくさんあるのだけれど
とりあえず、どの作品を観たときにも例にも漏れずに上記のような不思議な感覚に陥ってしまうのが、なんだかここまでくると違和感になってきてしまっていて、どうしようと悩んでいたら、この間、たまたま読んでいた星野源さんのエッセイ集に、まさにこの不思議な感覚を言い当ててくれている部分を発見して、首がもげるほどうなづいてしまったので、下記に忘れないように引用しておく。

これは、星野源「蘇える変態」より、星野さんが、宮藤さん脚本のテレビドラマ「11人もいる!」に出演した際の出来事について記したエッセイの一部である。

一般的なドラマ脚本と宮藤さんの脚本との違いで特筆すべきなのは、宮藤さんのホンでは説明台詞をあまり使わず、一見ムダな台詞ばかりを使って物語をぐんぐん進めてしまうところだ。くだらないギャグに気を抜いてケラケラ笑って見ていると、いつの間にか物語は進み、感動し、泣かされていたりする。言葉巧みに冗談を織り交ぜながら最後には服を脱がせてしまうAVのナンパ師男優みたいな男だ。
傾向として、コメディならコメディ、シリアスならシリアスとシンプルな物語の方が作品として増えてきている気がするけれど、俺はシリアスも笑いも恐怖もリアリティも、全部ない交ぜになっているものが好きだ。
現実の生活は、何も起こらないように見えて常に様々な要素が混在している。普通の人だって怒りながら涙が出て、そんな自分にちょっと笑ってしまったり、いろいろと矛盾して混沌とした感情をいつも抱えながら真顔で過ごしている。
そこには余計なものがいっぱいだ。何も起こらないのがリアルではなく、一見だらだら続いているように見える裏側でめまぐるしく事件が起こっているのがリアルなのだと思う。そんな様々な要素を笑いながら楽しめる作品に、しかも一番大事な「余計な部分」として出演させてもらえるのは、とても幸せである。

「蘇える変態」より引用

まさにここに書いてある通りだなと思った。
星野さんがここに記しているように、現実社会の中で人は、「いろいろと矛盾して混沌とした感情をいつも抱えながら真顔で過ごしている。」

けれど、そういう矛盾したもの、混沌としたものを、誰かの前で見せたり、あふれ出てくる感情をむき出しにすることは現実社会においてよしとされていない。

何事においても、できる限り冷静に、感情がブレないように、自分自身をコントロールして生きることを求められ、何事においても、合理的に、効率的に、無駄を省いていくことが強要されいるのが現実だ。

そこをここぞとばかりに風刺して
宮藤さんは、感情があふれ出て、どうしようもないくらいに、その自分から湧き出る感情のまま、その通りに生きている人間を描き出す。

視聴者側は、彼らが自分の感情をコントロールできないことに違和感を持ったり、ツッコミを入れている暇もなく、次々と登場人物たちのさまざまな感情がいたるところで勝手に歩き出し、カオス化していくことになんとかついていくしかない。

そのカオスな状況をもってして、「そもそも本来、人間ってカオスなもんだよねって。どうしようもないよね。」ってそんなメッセージを送ってくれているように感じてしまうのだ。

どの作品を通してみても、例えばみんなが集って話しているシーンだって、みんなでタバコ吸って一服しているシーンだって、喧嘩で殴り合っているシーンだって、セックスしているシーンだって、そこに合理性も、生産性も何もない。言うなれば「無駄」だ。

けれどことごとくその無駄なシーンを見せられることでいつのまにか「あれ、無駄な時間の方が楽しくない?てか、大切じゃない?」みたいなことを考えさせられてしまうのでいつも驚いてしまう。

宮藤さんの描く登場人物たちは
言って見れば
人によってその言葉の解釈は多種多様あれど、めちゃくちゃ「人間らしい」

とそう思う。

「人間らしい」彼らにいつだって私は会いに行きたくなってしまうし
いつだって、友だちになりたいと心からそう思ってしまう。

そうやって、「人間らしい」人たちを、宮藤さんの作品の中に求めてしまう時点で、自分自身も、自分の周りも、いかに「人間らしい」生活を送っていないのかをまざまざと突きつけられる。

別に隠さなくてもいい
きれいに見せようとしなくてもいい
一貫性がなくてもいい
無駄だと言われてもいい

そうやって、「人間らしく」生きることを、作品を通じて私はリハビリしているのかもしれない。

そう考えると私の願望は一つで、いつか、宮藤さんの作品を現実社会で必要としなくなるときが訪れたらいいなと思っている。
登場人物たちの輪の中に入りたいとか、そういう羨ましさがなくなるような「人間らしい」生き方を、いつか自分もできるようになりたいとそう思う。

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