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今泉力哉監督に人生ではじめてのサインをもらった

先日、古湯映画祭に、ふとしたきっかけ(父親がチケットを持っていた。)で行ってきた。
とてもいい経験になったので、書き残して置きたくて、映画の感想を書いた。

映画祭では、その当日、午後から上映されていた「街の上で」「からかい上手の高木さん」を続けて鑑賞し、その後の今泉力哉監督のトークショーにも参加した。
上記の映画の感想だけではなんだか物足りないくらいに心動かされたので、この記事は、参加したトークショーの感想をもとに、私が心動かされすぎた監督の今泉力哉さんのことについて綴っておこうと思う。

私が、今泉監督の映画をはじめて観たのは忘れもしない、2019年4月のこと。

youtubeでこの予告編を見るなり、公開されてすぐ、一人で夜の映画館に観に行った。忘れもしないのもそのはず。

私は人生ではじめて、映画を観ながら、過呼吸になった。

息が苦しくなって、手が震え、尋常じゃない冷や汗をかいた。なんとか必死でその場で深呼吸をして、次々と溢れてくるとめどない感情に全脳みそをフル回転させてブレーキを踏み、やっと落ち着いたと思ったら、今度は尋常じゃない涙が溢れ出てきて、恥ずかしくて、上映が終わるなりすぐに一目散にトイレに走って駆け込んだ想い出があるので、本当に忘れもずによく覚えている。

そうなってしまった原因は、山の澄んだ空気の透明度くらい明らかで、映画に出てくる「マモちゃん」によく似た、もはや同一人物なのではないかと錯覚してしまうくらいのクズ男に、当時どうしようもなく恋をして、どうしようもなく悩んでいたからである。

こんなにも映画に共感させられたことは、人生においていまだかつてない、はじめてのことだった。

それなりにいろんな映画を観てきて、たくさんの映画の登場人物に部分部分で共感したことはもちろん、何度も何度もあったけれど、まさか、こんなにほぼ全部と言っていいほど共感させられるとは、、。なんだか自分の恋愛が、めちゃくちゃ監督に見られてしまっているような、あたかもストーカー的な視線を感じて、映画を観た後、すぐに検索し、「今泉力哉」という名前を私はそのときにはじめて知って、以来ずっと覚えていた。

覚えてはいたけれど、それ以来、今泉監督の映画を私が観ることができなかったことは言うまでもない。監督が描く映画の登場人物にまた、尋常じゃないくらい共感して、心えぐられて、過呼吸になるのが怖かったからだ。

それにたぶん、直感的にだけれど、監督の映画を観るタイミングは、私が意図していないときにまた必ず、映画の方からやって来る。たぶん自分がどうしようもなくなったときに。そういうときに観るべき映画だ。

勝手にそんなことを思っていたら、本当に意図していなかったときに、約5年ぶりに急に監督の映画を観るときが今回訪れた。

「あれ?ちょっと思っていたのと違うな。」
そう思ったのは、別に今、自分はどうしようもなくなってない。そう感じたからだ。

けれど、実際に映画を観てみて気づいたのは、よくよく考えたら、普通に、最近無職になって仕事したくなくなって、何か変わるかもと思って行った海外から帰国してまた、さらに仕事したくなくなって、お金も減ってきているのにいまだかつて就活をする気配がない私は、どう考えても、どうしようもない状態なのだと気づいて納得したし、ちゃんと映画に感動して、共感して、ずっと泣いていた(ありがたいことに今回は過呼吸になるのは免れた)。たぶん、今まさに、観るべきタイミングだったのだと思う。

そして、映画の余韻に浸るもつかのま、私は監督のトークショーに参加することになった。

めちゃくちゃ面白かったし、素敵な時間だった。
それに何より、いかに自分自身が、監督が、映画の背後に仕掛けている罠に見るも無残に引っかかっていたかがよくわかった。

監督はどうやら、映画を作るときにいわゆる「万人ウケすること」を考えていないらしい。「万人ウケする必要はなくて、むしろ観ているだれかのどこかに引っかかるような仕掛けをたくさん入れている。」らしい。

だからだと思う。

「あれ、これってもしかして私のことかも?」

そういう仕掛けられたシーンがたくさんあって、けどそれは万人ウケしなくて、気づきにくいからこそ、観ている側が、共感したその瞬間に、それは誰の物語でもない、自分の物語だという、痛烈な特別感が生まれる。そしてその特別感は、さらに共感した本人の気持ちに寄り添い、共感の感情が助長されるのだ。


監督はどうやら「主人公が成長する必要はない。」そう考えて映画を作っているらしい。「映画を観たあとに、明日から主人公みたいに頑張ろう。」って思わなくていい。むしろ観た側が、映画を観た後に成長することを意図して映画を作っていない。そんなニュアンスを強調していた。

だからだと思う。映画の登場人物たちを、自分とは切って切り離せない気持ちになってさらに共感してしまうのは。

映画の中には、その物語の中で、その登場人物たちの成長を描いているものが多い。もちろんそれはそれで多くの人やその人の人生に大きなきっかけを与えることも多いのだろうけれど、たぶん、そんな簡単に人は変わらないし、成長しない。むしろそうやって映画の登場人物たちとは違って、「自分は簡単に成長できないのだ。」そう観た側が気づいて、そう感じてしまった瞬間にその映画はどこか遠くの、自分とは異なるほかの誰かの物語になってしまう。
だからこそ、そうならない「成長しない姿」は、いつまでも、自分のそばにある物語として、観た側の心の中にそのときの抱いた共感の感情が消えないままに残り続けるのだ。

「成長する人は、勝手に成長するからほっといていい。」

という監督の言葉がとても印象的だった。

監督はどうやらそういう観る側が、ただでさえ気づきにくい日常における小さな共感をできる限り感じやすくするために、長いことカットを切らなかったり、「あの」とか「ううん」とかそういうつなぎ言葉まで事細かに台本に入れて、限りなく日常に近い演出にこだわっているらしい。

圧巻だった。ただでさえ、共感する仕掛けがたくさんある中でさらに、その一つ一つをよりさらなる共感に近づけるための工夫がほどこされているとは、、、。

そりゃあ、はじめて観た監督の映画「愛がなんだ」で、私は過呼吸になってしまうほどに共感するワケである。


けど普通に振り返って、監督が描く「成長しない登場人物」たちの、いたるところ、あちらこちらの仕掛けにまんまとすべて引っかかって、共感してしまう自分は、一体どこまで成長の見込みがないのだろうと、なんだかどうしようもない気持ちになってしまったけれど、それはそれでいいのだ、自分は自分のままでいい。そんな気持ちにさせてくれるから、さらにそれも監督の描く作品の魅力なのだと思う。

とにかくいろんなことに感動して、心動かされた一日。
その一日で、めちゃくちゃファンになってしまって(というかたぶん、「愛がなんだ」を観たときからずっとファンだったのだろうけれど)、映画祭の帰り際、並んで、私は人生ではじめて、サインをもらった。

並んでいるときに、前のお客さんたちが、自分の意見や考えを監督に熱心に伝えている姿を見て、「あぁ、私も何か言わなきゃ。」そんなことをぐるぐると考えていたけれど、全然思いつかなくて、そしたらすぐに順番は来て、もっと言いたいことはたくさんあったはずなのに、緊張してしどろもどろに「ありがとうございました。とてもいい時間でした。」と言って急に、たぶん絶対に説明した方がよかった、よくわからない世界線のノートを差し出して、サインをもらった私は不審者極まりなかったのだろうけれど、親切に対応してくださって、とてもうれしかった。

このノートの彼のように、私は心の中で思いっきり「うれしい!」と叫んだ。

もちろん、この私のお気に入りノートに、その日のメモも書き入れた。

めちゃくちゃ浅はかだけど、このサインをもらったノートで、さらによい創作ができるような気がして、ルンルン気分になった私であった。

また今泉監督の映画を見るタイミングが、少し(共感しすぎる気配がして)怖くはあるけれど、楽しみである。

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