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【読書】色街と文化について考える『さいごの色街 飛田/井上理津子著』

以前、関西に住んでいるとある友人宅へ遊びに行ったとき、社会科見学として、彼女が松島新地という場所を案内してくれた。
私自身も、彼女も女性だったため、メインの飛田新地を歩くことは冷やかしとして非難を浴びる可能性が高い。
なので、そこから少し離れた、住宅街で人が住んでいるエリアも近く、住人としての人通りもある松島新地という場所を、まだお店自体の営業が完全にはじまりきっていない昼過ぎ頃の時間帯を狙って訪れた。

一歩足を踏み入れると、まるで現代とは思えない、昭和の時代にタイムスリップしたかのような味わい深い世界が広がっていることに驚く。
昼過ぎの時間帯だったので、人通りこそほとんどなかったが、ところどころで営業をしているお店もあり、ちらりと目線をやった料亭には素敵なお姉さんがちょこんと座り、その手前には曳き子と呼ばれるおばちゃんも堂々たるオーラを放って座っていた。

私はその街の雰囲気と彼女たちが到底この世のものとは思えなくて、思わず言葉を失ってしまった。

あっけにとられたまま、あっという間にその街を通りすぎて、社会科見学は終了となった。
通り過ぎたあと、友人は私に、この街の背景について簡単に説明してくれて、とある一冊の本を私にプレゼントしてくれた。

著者が、色街として有名な飛田新地という場所を、約12年という長い年月に渡って取材したルポタージュである。

この本を読み、とても衝撃を受けたので、その衝撃とそれについて考えた考察を忘れないように綴っておこうと思う。

関西に住んだこともあったので、この「飛田新地」という地の名前は知ってはいたものの、あまり良い印象はなかった。「風俗、近づいたらいけない場所」みたいなニュアンスのイメージが強かったので、自分とは関係のない、どこか他人事みたいな話だと思っていた。あくまで、自分が住んでいる世界とは違うところにある、どこか遠い国で起こっている話。

けれど、現実にその場所は行こうと思えば行ける距離にあって、他でもない私自身が住んでいる日本という国にある身近な場所だということに気づいて、自分事として、この街を歩き、この本を読んで、この街を理解しようと試みたとき、私は結局メインの飛田新地の地自体を訪れたわけでもないけれど、この街のすべてを理解したわけではないけれど、今まで抱いていたマイナスな印象とは裏腹に、とても素敵な街だと、そう思ってしまった。

そこには人が生きた歴史がある

きっと「飛田新地」という地の名前を聞いたときに、私と同じようにマイナスなイメージを抱く人は多いのではないかと思う。
風俗とかそういった印象だけではなくって、そこにある治安とか貧困とかそういう、根深い社会問題があるところまで含めたマイナスのイメージ。
もちろん、本の中でもこの飛田という街ができた背景に、貧困という問題があったことは実際に書かれているし、今もそれは変わらない事実だと思う。
「そういった問題を放置せず、政治の世界でもっと大きな問題として取り上げるべき!」みたいな意見はいくつかネットでも見た。そういう大枠で、根本的なところから考え直していくことは大切だと思う。

けど、そうやって「社会問題的」観点でしか飛田新地という地を見ないことってどうなんだろう。と、本書を読みながら勝手に思ってしまった。

ここからはあくまで、私の個人的な考えとして記述してみる。
本書では、その「社会問題的」な観点での飛田新地についてももちろん記述されているのだけれど、それよりも、というか本書の8割か9割の大部分が、そこで暮らす人々に焦点が当てられているように感じた。
しかもそれが大勢の大多数みたいな客観的観点じゃなくって、あくまでそこで生きる人々の、個々人の生活や人生みたいな、ものすごく主観的な話。
飛田の人々を取材したときの内容が、著者との会話形式で多く記されていて、だからからか、まるで小説を読んでいるような気分で、私はそこに出てくる飛田の人々をとても身近に感じてしまった。

そして、これを著者が意図してこの本を書いているのかどうかは別として
私は本の中に出てくる登場人物すべてが、この飛田の地を単なる生活の糧としてだけではなく、一文化として守ろうとしているように感じてしまった。

登場人物として出てくるのは、実際にこの地でサービスを受けているお客さんと、サービスを提供するお姉さんたちだけではない。客引きをしてお姉さんたちを守っている曳き子さんたちや、その料亭の経営者、組合の人、その地にある飲食店の人、背後にいる裏社会の人、そこを管理する警察の人、、、etc。社会問題という大枠で理解されているこの地の背景には、そういった個々人の生活があって人生がある。その中には、生きる術としてだけではない、伝統というか文化としてこの地に一種の愛着をもっているという一面が垣間見える。

実際、そういう一種の愛着のようなものを通り過ぎただけなのに私も感じてしまった。
私自身、この地をちらりとただ通り過ぎただけで感じたことは、治安悪そうとか、貧困とかそういう類の印象じゃなくて、街並みとしてきれい、情緒がある、昔の言葉を使うと「いとをかし」といったところだろうか、そこで働いているお姉さんや曳き子さんにもただならぬオーラというか、人間らしいみたいな、人が力強く生きている気配を感じて、とにかくすごく素敵だと強烈に感じて、本当に言葉を失ってしまった。

そう感じているのは私だけでもないらしい。
本を読んだあともいろいろ気になってネットで検索しているとyoutubeでこんな動画を見つけた。

ここに出てくる飛田で働いている彼女は「お金に困っているから。」という理由だけで仕方なしにこの地で働いているわけではない。
社会の先生に聞いたこの地をはじめて訪れたことをきっかけに、この地の雰囲気に惹かれて、そこで働く女性たちの美しさに惹かれて、本当にこの地に愛着を感じながら仕事を極める一人として生きている彼女の力強さに私自身も感銘を受けた。

「文化」としての飛田新地

私は容易にいわゆる世間で使われている「文化」という言葉を極めて勉学に励んでいる学者さんみたいな立場ではないので、おこがましいとは思うが、もはやこの地は「文化」としてもう少し世間にポジティブな理解が進んでもよいのではないかと思う。もちろん、背景に貧困といった社会問題が常にあることは軽視してはいけない事実だとは思うけれど、それでも、その社会問題的な要素も含めて現代に「文化」として継承されているものは多い。ヒップホップのカルチャーとかはその一例なのではないかと思う。

ただ、この飛田の地に関することがいわゆる「性」の問題を含んでいるという点は、いささか、その「性」の問題を公にしたがらない日本という国において、継承されていく道はかなり困難を伴ってしまうのではないかと思う。

実際、著者がタイトルに記述しているように、「さいごの」と記されているからには、この飛田新地という地がいつなくなるかは本当に時間の問題だ。実際近隣にあった「かんなみ新地」という場所はすでに幕を閉じている。

あくまで「飲食店」
あくまで「店員とお客さんとの自由恋愛」

もしこれからその地がなくなってしまったとしても、その「あくまで」という言葉にこめられたそこで生きる人たちのさまざまな想いが、これからも本書を通じて、一歴史として語り継がれることを強く願うばかり。と一個人として思う。学びの多い一冊だった。

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