マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(脇圭平訳、岩波文庫、1980年)
■要約
1、政治とは何か(P.7~P.19)
〇政治とは何か(P.7~P.10)
国政がその目的として問題にしてきたものの中で、政治的な団体つまりは国家だけが関わるべき専売特許のようなものは存在しない。 (一般的に国政が対象とするものでも、経済なら会社、軍事なら軍人や兵器産業、税金なら税務士などが関わるといえる)
したがって、政治的な団体とそれ以外の団体とを分ける固有の差というのは目的よりむしろ手段にある。 つまり「正当な暴力行使による支配」である。そして国家以外の人間にとっては国家が許容した範囲でしか暴力の行使が認められないこと、したがって暴力の権利の源泉となっていることである。
一方の一般人にとっての政治は国家権力の分け前にあずかりその配分関係に影響を及ぼすことである。
〇正当性と支配の条件(P.10~P.19)
正当性というのは理念的に言えば三つの型に分けられる。
「① 伝統的支配。②カリスマ的支配。③合法的支配」
また支配を行う上で、二つの条件が必要である。
「① 人的な行政スタッフ。②物的な行政手段」
ここで②物的な行政手段(武器や資産のこと)に関して、それが行政スタッフから切り離されているかどうか、つまりスタッフが仕事を行う上での道具をスタッフ自身がもっているかどうかの違いがある。
切り離されていない(スタッフ自身が所有する)のを身分制的団体といえ、封建制の行政がそうである。(領主が自分の財産で政治を行う)。
一方、切り離されている(国が所有する)のを官僚制的国家秩序といえ近代国家がこれに当てはまる。 行政スタッフは、金銭・兵器・建物等の私的な所有が認められなくなる。
こうした近代国家における行政スタッフとして専門的に政治を行う「職業政治家」が登場する。 これは当初は貴族と対抗するために君主に奉仕する大臣のような役目だった。
2、職業政治家(P.19~P.48)
〇臨時と副業の職業政治家(P.19~P.21)
職業政治家は「①臨時②副業③本職」に分けられる。 ①の臨時は政治集会に参加するなど、結局はすべての人といえる。②副業は一時的に政治に関わるものたちといえる。
しかし国を治める上で以上のような政治家ではなく君主にだけ奉仕する本職政治家が必要となった。
〇本職となる職業政治家(P.21~P.29)
ここで本職政治家について付記すると、それにおいては「①政治”のために”生きるか。②政治“によって”生きるか」の二つの道がある。
これは精神的な側面では、政治”のために”尽くそうし、そしてそれ”によって”喜びを覚えるなど相対することはない。
一方この二つの道は、経済的な側面において、政治"によって”収入を得て生きる者と、そうでない政治"のために”生きる者という区別に関係している。
経済的に政治"のために”生きる人とは、要するにお金の力で政治を動かそうとする人だ。当然それは金権的な政治となり腐敗のもととなる。したがってそうでない職業政治家を確保するには政治"によって”収入が得られることが必要なのだ。
〇指導的な職業政治家(P.29~P.48)
本職政治家は等族としての貴族に対抗する形で発達し、そこから君主に絶対奉仕する官僚と、指導的なリーダーとしての政治家が絶対君主と革命国家、議会制の推移の中で生じた。
過去における指導的な職業的政治家は5つのタイプに分けられる。「①聖職者②文人③宮廷貴族④ジェントリ(イギリス)⑤法律家(弁護士)」。近代的な議会制民主主義における職業政治家はこの弁護士と結びつく。政党に有利なように処理することに長けているからである。
一方、現代の指導的な職業的政治家について、まず民衆扇動としての能力を持つジャーナリストがあげられる。そしてその次に近年になって現れたのが政党職員である。
3、政党(P.48~P.77)
〇名望家政党と近代政党(P.48~P.57)
政党職員の分析を始める前に、政党についての分析を行う。
初期の政党は名望家政党という形で現れた。貴族が有力であり、彼とそのもとに就く部下が各政党を行き来しており、政党の拘束力は弱かった。それと共に地方の名望家がその選挙区で大きく顔が利いており、政治家は彼らの力を借りることで当選していた。
ところが普通選挙権が開始して大衆獲得と大衆組織の必要が生じ、それと共に指導における最高度の統一性ときわめて厳しい党規範の発達によってできた近代的な政党組織の登場で話は変わる
近代政党は議院外で実際にそれを経営している人、内部で継続的に仕事しているものか、経営の根っこのところで金銭面や人事面を抑えている人間たちが運営する。彼らが政党という人間装置を操縦し、政党のリーダーとしての党首を送りだす。
そして政党の経営者たちはリーダーから報酬を得るのであって、彼らはリーダーに合理性よりもカリスマ性を求める
このような近代政党の登場をイギリス、アメリカから分析し、またドイツの現状を見る。
〇イギリスの近代政党(P.57~P.62)
初期は名望家政党制で、その上に党首がのっかっていた。
1868年以降、都市労働者に選挙権が与えられ、ジョセフ・チェンバレンによって生み出された「コーカス」システムが発達した。それは各都市の選挙団体を絶えず動かし、選挙で有利に動かすシステムのことである。
この結果、党のトップが権力を握るようになり、自由党のグラッドストンのような人物が現れた。
そしてこのシステムは他の議員を単なるイエスマンにさせ、マシーンの力を借りて大衆の支持を得た独裁者による政治となった。この独裁者が選ばれるにはデマゴーク的な雄弁の力が必要となる。
〇アメリカの近代政党(P.62~P.69)
このようなマシーン制度はアメリカでより一層発達する。
そもそもアメリカは厳密な三権分立制度が発達していて人民によって選ばれた大統領がリーダーシップを発揮していた。
そしてアンドルー・ジャクソン大統領によって官職任命権、猟官制が敷かれることでより一層リーダーの権力は高まった。猟官制は官職のポストに大統領のフォロワーを充てるという制度である。行政に関して、全くの素人でも選挙で貢献すれば官職になることができた。
また同じく「ボス」と呼ばれる存在がアメリカの選挙制度を支えており、多くの人脈を通じて組織票を固めた。それは必ずしも教養ある人ではなかった。
以上のような制度がアメリカで可能だったのはこの国が出来て間もない新しく民主的な国だったからである。
〇ドイツの現状(P.69~P.77)
一方のドイツでは職業政治家の発達が遅れた。議会が無力だったからである。それは以下の決定的な条件があった。
①指導者の資質を持つ人間が議会に入ってこなかった
②専門的に訓練された官僚層が世界でトップクラスだった。大臣職も官僚が就いたため、議員は口利きするくらいの仕事しかできなかった。
③ドイツの政党は狙いをもって少数勢力で居続けた。中央党は反議会主義であり、社会民主党はブロジョワジー政党で居続けたかったからである。
そしてその結果、ドイツの職業政治家は名望家ギルドの様相で派閥抗争に憑りつかれ、そしてその精神は議会にも反映され、形骸化していた。
だが、世界大戦が終結し、帝政もまた終わろうしている現在において事情は一変した。
ドイツは次のどちらかによる支配を選ばなければならない。マシーンを伴う指導者民主制(追従者から魂を奪い去り、盲目的に追従させようとする)か、それとも指導者の内的・カリスマ的資質を持たない職業政治家による支配か。
現状の情勢からドイツは後者を選ばざるを得ない。
理由の一つとして州権を重んじる連邦参議院が下院としての議会の力を抑制し、またもう一つの理由として選挙制度が比例代表制であり、各種の利益団体が候補者をバックアップし、指導者としての政治家の進出を妨げるからである。
こういう現状である以上、政治「によって」生きる人間は、ジャーナリズムか政党職員のポストか利益団体のポストか地方自治体の適当な地位からの出世のコースを選ばざるを得ない。そしてこれらの道ではあちらこちらから誹謗中傷の声が挙げられる、それに対して精神的な免疫ない人間、自分自身に正しい答えを導き出せない人間には向かない道だ。
4、政治家の資質(P.77~P.82)
職業としての政治家の内的喜びとは権力感情である。他人を動かしている、重大事件をこの手で握っているという感覚が日常生活を越えた高揚した気分になれる。
そしてこの場合、次の問題が出てくる
「一体どのような資質があれば、この権力にふさわしい人間に、また権力が自分に課する責任に耐えうる人間になれるか」
この問いは倫理の領域に足を踏み入れることになる。
〇政治家がもつべき資質(P.77~P.79)
政治家にとって資質とは、情熱・責任感・判断力が必要といえる。
ここでいう情熱とは、事柄(仕事、現実、対象、問題)に対する献身で合って、例えば革命に対する情熱というような無責任な理想主義の情熱とは異なる。
情熱が「事柄」への奉仕として「責任感」と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な基準となった時にはじめて政治家を作り出す。
そしてそのためには「判断力」が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受け止める能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。
つまり燃える情熱と冷静な判断力を持ち、これらを結びつけることが重要なのである。
〇政治家がもつべきでない資質(P.79~P.81)
一方、虚栄心は政治家にとって不倶戴天の敵である。政治家には権力が付きまとうからである。政治家にとって大罪とは仕事の本筋に即しない態度と無責任な態度の二つであるが、虚栄心はこの一方またはその両方を犯させるのだ。
〇情熱を捧げる事柄についての付記(P.81~P.82)
ただし政治家が権力をそのために行使する「事柄」は「信仰」の問題である。
ナショナル的であれば進歩的であり、社会倫理的でも文化的でも、そしてこうした「理念」的なものを掲げる場合もあれば、そのようなものを斥ける場合もある。
しかしどのようなものであれ、そこには信仰が無ければならないだろう。
5、政治と倫理(P.82~P.85)
最後の問題として、政治における倫理とは何か、について論じる。
〇政治と倫理の関係における歪曲性(P.82~P.57)
最初に政治と倫理との関係で生じる歪曲を取り除く。
例えば戦争において、戦勝者が勝利の理由について自分たちが倫理的に正しかっただの、戦敗者が責任者の追及をし始めるなどといった、実質的な利害の問題ではなく道義的な追及が行われる場合がある。だが戦争の終結によって道義的な埋葬は済んだはずである。政治にとって必要なのは将来に対する責任である。だが倫理はこの政治的に不毛な過去の責任の問題の追及に明け暮れる。
更には戦勝者が利益を最大限にするために、倫理を利用し歪曲化させることすらあり得る。
このように政治的目的のために倫理が利用される場合があるが、このような場合においては政治と倫理は本来的には関係がない。
〇政治と絶対倫理(P.85~P.89)
では政治と倫理は全く無関係なのだろうか。
それとも他のすべての行為(恋愛、商売、家族など)と同じ倫理が妥当となるのだろうか。政治が権力という特殊な手段を用いて運営されるという事実は、倫理との関係においてどうでもよいことなのだろうか。
山上の垂訓(自分を愛するように隣人を愛せよ)という絶対倫理を政治における倫理と仮定してみる。
しかし万人がこの倫理を守るとは言い切れず、政治においては強制と秩序が必要となる。
また戦争においてはこの垂訓は「抵抗すべきではない」と論じるが、その態度が戦勝側の利益を得ることにつながり、恨みとなって後の平和を乱しかねない。
そして国家機密情報ですら結果を顧みず公表し、安全保障を脅かす形となるだろう。
以上みたように絶対倫理はおよそ「結果」を考慮しないもので、政治における倫理にはなりえないのだ。
〇「心情倫理」と「責任倫理」—行為への責任と結果(P.89~P.90)
行為への責任や結果というものに対して決定的な問題がある倫理的なすべての行為は、対立した二種類の規則に方向づけられている。「心情倫理的」に方向づけられているか、「責任倫理的」に方向づけられているか、である。
心情倫理は、宗教的にいえば「キリスト者は正しきを行い、結果を神に委ねる」とする。その行為の結果が悪しければ、その責任を行為者でなく、世間や他人の愚かさ、あるいは神に求める。そして熱い心情の抗議にだけ責任を感じる。
一方の責任倫理は、人は予見しうる結果の責任を負うべきだとする。その倫理のもとでは人間の欠陥を計算に入れて結果を考慮して動く。結果を予測して動いている以上、他人に責任を転嫁することはできないと考える。
〇「心情倫理」と「責任倫理」—手段(P.90~P.102)
更に対立の問題は「行為への責任」という点だけに終わらない。
善い目的のためには、時には非道徳的な手段を用いる必要があるという事実の点である。政治にとって手段は「暴力」である。そのため目的と手段との関係には重大な問題が孕んでいる。
心情倫理家はその点において論理的に突き詰めれば破綻していると言わざるを得ない。道徳的に危険な手段を用いる一切の行為を拒否する道しか残されていないからだ。ただし心情倫理家の中には「善の目的の中からは善の手段しか生まれ得ない」という命題によって反論するものもいるだろう。しかし世界史の全過程においてこの反対のことが物語られてきている。
また宗教においても善の神がどうしてこの世の不条理を作られたかという問題はその発展の原動力であった。政治家(暴力という手段をもつもの)は悪魔の力をかりるということ、善からは善だけが生まれることはなく現実において反対のことが起きること、これらは古代宗教においてもよく知られていた。これを見抜けない人間は未熟ものといえる。
政治を職業として行おうというものはこの倫理のパラドックス、そしてそのもとで自分自身がどうなるかを忘れてはならない。政治家は暴力という悪魔の力を借りる。そうでなければ解決できない問題があるのだ。
6、責任倫理家の情熱(P.102~P.106)
政治は必ずしも頭脳だけでおこなわれるものではない。情熱もまた必要である。
だがそれは心情倫理家が自分の負っている責任を感ぜずロマンチックな情熱を語ることではない。
結果を重んじる責任倫理家があるところまで来て「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏みとどまる(自説を取り下げるよう要求してきた帝国議会に対し、ルターがいった言葉。『我ここに立つ。他になしあたわず』の方が有名)」というなら深い感動を覚える。つまり周りにどれだけ阻まれようと、結果や将来のための方法を最後まで諦めないという情熱が必要なのである。
ここにおいては心情倫理と責任倫理は両者相まって「政治への天職」をもちうる真の人間をつくりだす。
単なる心情倫理家は冷酷な現実を見て情熱から冷め、俗物になり下がるだろう。
だが現実の世の中が自分から見てどんなに愚かであり卑俗であっても断じて挫けない人。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への天職をもつ。
■感想
『職業としての政治』の主旨を述べるならば、政治固有の特徴である「手段が暴力である」という事実を認識し、それ故の特別な倫理となる責任倫理を政治家は持つべきである、という内容となる。そして「手段が暴力である」という面を見落としてしまう人が、他の団体と同じような様態で人々を指導すると恐ろしい結末を生んでしまう恐れがある。自分の思想に従わない人間は警察によって監禁され、時には軍事力すら行使されるであろう。
さてこの『職業としての政治』の公演が行われたのは第一次世界大戦の直後で、理想主義的な社会主義者たちが歴史の進歩であると信じ活発な活動を行った時代であった。そのような人にとって弾圧は正義だ。理想を追求することが善なのだから。そんな彼らの情熱的なさまに警鐘をならすためにも、「政治の本質は暴力にある」ということを彼らに伝える必要があった。そのための公演であった、といえる。
以上の彼の論は現代的に見れば、現実的で常識的とさえいえる。だが、指摘するとすればヴェーバーは権力というのを少々狭く解釈しすぎている面がある。
『職業としての政治』では権力の定義は記されていないが、p.9にて、政治とはおいて国家の暴力の独占を記した後、p.10には一般国民にとって政治とは権力の配分関係である、という話に変わる(訳の問題かもわからないが)。とするとヴェーバーにとって権力は暴力と結びついた概念といえる。また「政治家の資質」の箇所や「政治と倫理」の箇所で権力を恐ろしい手段として表していることから、言うならば暴力そのものこそが権力といえる。
ヴェーバーは権力を『社会学の根本概念』においては「社会関係の中で抵抗に逆らって自己の意志を強要する可能性」と定義したが、後の社会学者たちはこの定義を批判した。例えばヴェーバーは「抵抗」を抑え込むことと定義したが、ダールは抵抗する意思なくとも従わせることができうるものを権力と定義した。交通法などは面倒くさいとは思っても大抵の人は抵抗する気はない。それ故従う。他にもヴェーバーは権力を軍事力と同義とみているが、権力は人と人との関係性の中にも生まれうる。拳銃がなくとも警察官のいうことに多くの人々は従うものだ。
こうしてみると暴力の独占としての政治家に、固有の倫理が必要というのはあまりにも特別な扱いを受けすぎている。確かに暴力(軍事力、警察力)は国家が独占するが、それがなくとも一般人は権力を有することができる。「立場」が典型例であろう。社長の命令を末端の人間が無視できるはずがない。抵抗する意思なくとも、拳銃を突き付けられなくとも、やりたくない仕事をやらざるを得ないのだ。だからこそ社長は責任をもって部下に命令しなければならない。
したがって責任倫理は何も政治家のための倫理ではなく一般人の、何か人をまとめ上げる立場にあるリーダーとなる人もまた理解しなければならないものなのである。
そういう意味でいうと、『職業としての政治』は政治家のためだけの指針書ではなく、孫子の兵法や君主論といった経営学に応用される類のものと同様の価値をもつ文献といえる。
さて、当文献は上記の「暴力の独占」と「責任倫理」が注目されがちだが、ほかにも興味深い指摘が何か所かある。民主主義が、普通選挙が普及し、政党が有力になるとカリスマ的な独裁制へと変わっていったという指摘が20世紀初頭になされていたというのは面白い。現在の日本において小選挙区制で党の看板をもらって勝たせてもらっているような若手議員は、党首や執行部の意向に基本的に逆らえない。自分の信念を捨てて法案に党としての票を投げ入れるだけのマシーンのようなものだ。金太郎飴と揶揄されることも多い。そのような事態が既にヴェーバーの時代にも起きており、あるいはそれより一層悪化してさえいるといえる。現代民主主義の大きな課題といえるだろう。