「死にたい」に隠した本音
本屋さんをぶらぶらしていると、目に入る本がある。
「死にたいって誰かに話したかった」というタイトルを見て、いつも足が止まるのだ。
手に取ってページをめくったこともないし、もちろん買ってもいない。
ただ、表紙をぼんやり眺めるだけなのだけれど、何か気になる。
そして、自然に記憶を遡ってしまうのだ。
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私は人に「死にたい」と話したことが、人生で2回ある。
1回目は高校3年生。高校2年生の三学期に「うつ病」と診断されて、休学していたときだ。
生きているけれど死んでいるような感じがしていて、ベッドのなかで、ただ時間が過ぎるのを待つだけの毎日。
そんな状況だったが、いつも力になってくれる歳上の男の人がいた。(お察しのとおり、彼が好きでした)
当時、私の体調はすこぶる悪く、外で会う機会はほとんどなかったのだけれど、毎日メールでやりとりしていた。
ある日、体と心がとんでもなくしんどいのとか、この先私はどうなるんだろうっていう不安から、「もういやだ。死にたい」って言葉を送信してしまった。
送ってから返事が来るまで、1時間はかかっただろうか。
一瞬、読むのをためらうような、長文が届いた。
ざっくりまとめると、以下のような内容だった。
心底がっかりした。そんなのわかったうえで、嫌われるの覚悟で、SOSを出したのに。
私の心は荒れ狂い、次の日だったか、気付いたらキッチンで睡眠導入剤を大量に飲んでいた。(そんなに強い薬じゃなかったので、大事には至らなかったけど、絶対に真似しちゃだめだよ)
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2回目は、noteにも何度か書いているやつだ。なるべく思い出したくないから、ざっくり書かせてもらう。
▼詳細はこちら。
元夫に対して「死にたくなるくらい悲しい気持ちになった」と伝えたら
という、破壊力ハンパない言葉が返ってきたのだ。(語彙力なくなるほど、はらわた煮えくり返ったわ)
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こうして過去を振り返ると、なかなか闇深かったなあ。
言いたいのはさ、私が「死にたい」と口にするときは、本当に死にたいわけじゃないってこと。
ただ、それくらい悲しい、寂しい、痛い、つらい……そんな気持ちを否定しないで受け止めてほしいだけ。
「一緒にいるよ」「生きていてほしい」って言ってくれれば、ものすごく安心できる。
なんなら、言葉がなくてもいい。ただしばらくのあいだ、黙って抱きしめてくれたらそれでいい。
私を必要としてくれてるって、証明してほしい。それだけなんだ。
「死にたい」なんて、できるなら誰にも話したくない。それでも言ってしまうのは、どうにかして生きていたいからなんだよ。
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さてと、過去の私の「死にたい」に隠れた本音もわかったことだし、いい加減、冒頭の本を手にとってみようかしらね。
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