「結婚」についてもうちょっと考えてみた
弟の婚約を機に、「結婚」ていう言葉を子どもたちに説明しようと思って調べてみました。
そしたらなんと、日本での「結婚」の定義はまだまだとってもとっても狭かったことに驚いて、もうちょっと深く調べてみることに。
そもそも、「結婚」の言葉を辞書(岩波国語辞典 第八版)で調べてみると、
「夫婦」となることと書いてあった。
次に「夫婦」を調べてみると、
「夫と妻。結婚している一組の男女」。
そして、結婚という言葉に近い「婚姻」について調べてみると、「社会的承認を経た(法律上正式の)持続的な(男女)関係。結婚。」
とある。
更に更に一応「法律」という言葉の定義を調べてみると、「社会生活を保つために定めた、支配的(特に国家的)な規範」、
そして「社会」とは、辞書では「(人間が)集まって生活を営む、その集団」とのこと。
・・・これらをまとめたら今の「結婚」は
社会(という人々の集団)から認められて、法律(その集団の生活を保つために決められたルール)の上でも正式に認められた、持続的な男女関係。
ということになる。やっぱり、男女なんだよね。
そして結婚の「婚」という漢字一字を調べてみたら辞書に「縁組をする。結婚する。よめとり」と書いてあった。
よめとり!!
そっかー、この言葉を見ても、そもそも結婚は男女平等ではないし、性が違う、ということが前提。
男女が不平等なところとか、またここでも「なぜ?」「どうして?」「おかしくない?」って出てくるけど、ここではあくまでも、結婚が「男女」という異なる性にしか適応されないっていうことだけにフォーカスして考えてみよう。
私は「好きな者同士が家族になること」と子ども達に聞かれた時にとっさに思い浮かんだけど、そもそも結婚の定義の中には、お互い好意があるかないか、ということは何も書かれてていなかった。
これも、私にとっては結構びっくり。そうだよね、結婚は好きだからする、という流れ自体が長い結婚の歴史の中ではまだ新しいものなんだ。
今のように、言葉の定義は今はまだ置いてけぼりになっても、私たちの言葉の認識、使われ方が変化していけば、そこに法律や定義が後から追いついていく感じになるのかな。時間はかかるかもしれないけれど。
もしもそうだとしたら、言葉もまた、人々共に生きていて、辞書に新しい定義を盛り込めるかどうかは、私たちの認識を変えることがまずは最初の一歩なのかもしれない。
「社会」は、目に見えない不特定多数の何かではなく、私たち一人一人。だから、きっと私たち一人一人の言葉への意識が変わることが、言葉にも新たな意味を吹き込めるかもしれないし、それによって大きな枠組みが変われば、さらに生きやすい社会になっていくんじゃないのかな。
子どもたちが大きくなったころには、どんな性の人たちもありのままの自分で社会からも認められる社会になればいいなと思う。そういう社会を子どもたちに引き継ぎたい。
そのためには、やっぱり私たち一人が自分の頭で考えること。
おかしいよね?って思ったことをほったらかしにしないことは大事。
またちょっと寝かせてみて、
疑問に思ったこと、調べてみよう。
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あとがき
久しぶりに紙の辞書を書いました。やっぱり、ページをめくって、お目当ての言葉にたどり着くまでもすごくわくわくして、アナログにしかない豊かさと、出会いがあるなぁと思いました。