文字という音。
それが詩歌である。私見ですが、それを信じて30年。途中に空白地帯はありますが(書くこと自体止めていた)詠い綴り続けてきました。徒に年月だけを重ねながら。それでも、拙い時間を重ねて知ったことがあります。
それが詩歌における韻律、その美しさ心地良さ、そしてその大切さです。
例えば、5・7・5・7・7と綴れば歌になるのか。勿論そうではありません。詩の場合は散文詩、定型詩等々、色々な形がありますが、言葉により次の言葉が呼び覚まされていくような流れが存在する。拙い言葉たちを連ねつつ、そう感じてきました。
この定型を破るならば自由律であるべき理由がなくてはならない。そう思います。殊更に古き形に拘ることは愚かではありますが、日本人が守り育て味わってきた韻律は日本語を扱う者の奥底に雫となり、使う言葉たちに潤いを与えているのではないか。そんなことを思うのです。
以下、ある1人の文芸評論家が遺した言葉をリンクします。
以下、これらの記事で綴った戯言に繋がりますが、
私はこの方の短歌評論講座を受講した経験があります(朝日カルチャー)。かの方が旅立たれてから十数年が過ぎました。言葉は日々重く、新しい。まるで血潮のように。
今は東京の地を永久の棲まいと定めた御大の声は、生前よりも今この時の方が強く響きます(声は大きくない方でした、余談ながら)。
2023.5から再始動(実は2017に一度開設し、使い方が分からずに1ヶ月後退会💦)なnote。お世話になっている某団体のご紹介をできれば充分だ。そう思って再始動しました。交流は全く考えの外=Blogのように思っていたのです。けれど違いました。noteとX(Twitter)で結ばれていく静かな縁。それはまるで、中島みゆき「糸」の歌、その歌詞のようです。
僭越なお願いをひとつ記します。皆様に申し上げるには釈迦に説法ではありますが、何卒お赦し頂きたく存じます。
書く以上に、詠む以上に、秀作、秀歌に触れてほしいのです。
出来れば古典も、万葉集・古今新古今などを楽しんで頂きたい。
とっつきにくく思うかもですが、美しく心地よい千年の調べを。
参考:ほぼ日の学校「万葉集講座」 - ほぼ日刊イトイ新聞
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拙稿をお心のどこかに置いて頂ければ、これ以上の喜びはありません。ありがとうございます。