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峠にて

一生おなじ歌を 歌い続けるのは
だいじなことです むずかしいことです
あの季節がやってくるたびに
おなじ歌しかうたわない 鳥のように
(岸田衿子)

人生を考える、考えてしまうような時がある。亡くなった人のことを想う時。親しい人の病気を知らされる時。家族のこと、とくに親のことを想う時。自分の年齢をふり返る時。私は最近、よくふり返っているような気がする。後ろばかり向いている? それでもいいや、と思う。自分ももう若くはない(ようだ)。若くないのだから、若くないなりの感じ方を、素直に受け止めていよう。

そこで、楽しもう、とまでは私には言えないな、と思う。いろんな言い方ができるだろうが… 私は「受け止める」という言い方が好きなのかもしれない。──と、いま気づいた。16年前、「吃音をうけとめる」というエッセイを書いたのは、自分にとって大きな転機になった(『音を聴くひと』に収録)。「受け入れる」ではなく「受け止める」としたのは何となくだったと思うけれど、自分の内側へ「入れる」までゆかず、しかし自分のところで「止める」ことはできることがいろいろあるわけだ。

なんてことをつらつら思っていたら、ふと、ある本を思い出した。中学生の頃に夢中で読んだ本で、その中に「峠」という章がある。

押入れ(という名の自室の本棚)から、その本を出してきた。

詩を書く人たちも、峠にさしかかる頃に、すぐれた作品を残す場合が多いのは、眺望がよくきくからでしょうか、表現に身をけずってきた長い道のりが、やっと自分のものといえる伝達力と艶を得るためでしょうか。

茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)

茨木さんはそう書いている。

40代前半の自分にとって、いまは、何となくだけど、「峠」にさしかかっているところではないか、と思う。

いまは、がむしゃらに前に進もうとするような強いエネルギーに満ち溢れてはいないが、まだまだ自分の力はこれから発揮されるのだという予感もあり(というのは、若い頃よりも楽に力が出せる方法を身につけたとも言えるのかもしれない)、創造の力はこれまでのどの時期よりも満ち溢れているのかもしれないと感じる。

自分とのコミュニケーション(内省)が、深まってきているというか… 嵐が来て、雨風に洗われた空気の中で、失ったもの、破壊されたものを想いながら、しかし本当の創造は、その先にあるのだということを、すでに自分は知っている。

(つづき)

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