自分ひとりではけっして書くことのなかったもの
先月、「古沼と共同作業」という文章の中で花田清輝の話をしていて、連歌の話から、「どうして現代の文学は、制作をひとりでやろうとするのか?」という花田の問題提起(?)をメモしておいた。
この数年、毎月愛読している岩波の『図書』(書店に行くと無料で置いてあるやつ)の3月号に岡野弘彦さん、三浦雅士さん、長谷川櫂さんによる"歌仙"と座談会が載っていて、ほかの文章を読んだついでに読んでみたけれど、何やら可笑しい。
これを見ていると、歌仙のルールは、そんなに難しくない。ただし奥は深そう。まさに共同作業の面白さ(と言いつつぼくは全然詳しくない)。
まずは誰か(客人である場合が多いらしい)が「初表」の発句を詠み、それを受けて代わり番こに詠んでゆく。対談を読んでいると、いろんなことを思い描いて、感じて、考えて詠んでいる。お互いに通じている部分もあるし、想定していなかった展開があったりもする。その微妙なズレからくる展開が面白い。
昨年の「『アフリカ』をよむ会」では「直観讀みブックマーカー」という遊びをやった。どう考えても偶然に合わさっただけのことばが、不思議と意味を成していたり、思いもよらない発想を展開したりする。
あぁ、あれは本たちによる連歌だったか…(なんちゃって)。
いまつくっている本のひとつは、今年の1月まで1年間やっていた「オトナのための文章教室」から生まれた本で、ある物語(あるいは小説)に呼応して書く、またそれに呼応して書く、というふうだ。自分ひとりではけっして書くことのなかったものが、生まれる歓びを感じる。
作者とは何だろう──ことばの通り路であり、文が進んでゆくための原動力であり、生きた心臓だ。
(つづく)
「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、3月 9日。今日は、ヒヤシンス! ※毎日だいたい朝に更新しています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?