浮いたり、沈んだり
昨日のつづきになるのだが(というか、ここは元旦から毎日「つづき」を書いているつもりなのだが)、自分が過去に書いたもの(主に発表したもの)を読み返す作業をしていて、協働作業をしてくれているKさんによると、『アフリカ』の編集後記は、まとめて読むと、その時々とは違った印象も受けるという。
彼が「よい」という中には、書いている人(ぼく)の中に生まれた感情というか情(情念?)が、どう出ているか? ということがあるらしい。
ぼくは書く上で、自分の中に生まれた感情、情、情念といったものをどう書くかなどと考えることは、あまりない。まったくないと言ってもいいかもしれない。でも、現れるものは現れるんだ。人が書いているんだから。
『アフリカ』の編集後記は、エッセイにもなっているし、その時々のドキュメントにもなっているから、噴出する「情」のようなものが、感じられやすいのかもしれない。
力んでいるような、脱力しているような。重いような、軽いような。そのどちらでもあり、どちらでもない感じが、そこにはあるのだという。
思い返せば、ぼくは、感情の起伏が激しい人だった、と自分では思う。とくに若い頃は。いまでも、ある程度は(いや、かなり)それが残っているようだ。
浮いたり、沈んだり、感情が飛び跳ねてるというのは日常のことで。時折、それに自分で耐えられなくなるのだが…
ただ、いつまでも落ちてゆくような感覚に襲われることはあまりない。落ちてゆけば、底へ当たり、跳ね返ってくる。
若い頃には、誰だって、そういうところがあるのかもしれない(他人のことをわからないから、何とも言いようがないが)。ぼくもいまは、昔ほど、感情の起伏が激しくはなくなっていると感じるが、自分なりの対処法を試しつづけて、身につけてきているからかもしれない(ある程度は無意識のうちに)。
毎日書くということも、自分を助ける手法のひとつなのではないか? と、始めた時には考えていなかったことを思ったりもする。
書くことは祈りだ。
書くことは誰かへの手紙だ。
書くことは自由自在だ。
書くことは無茶苦茶だ。
書くことは実験場だ。
書くことは記録の一種だ。
ことばの力に身を委ねて、ふわふわと漂っていよう。
(つづく)
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