【心】壊れてしまった私の環境

毒親。
いつから生まれた言葉なんだろう。

私は正直この言葉があまり好きじゃない。
完璧な人間なんてこの世に存在しない。

存在しないものになれないから、
みんな自分の中で、最善を選択して生きているんだと思う。
虐待は勿論絶対よくないけれど、
衣食住を与えておそらく愛をもって子供を育てたそのやり方が
少しばかり「正しくなかった」「間違っていた」
としてもそれをひとくくりに毒親と呼ぶのは
あまりにもひどいのではないかと思ってしまうのだ。

親と折り合いが悪い人もいると思うし、
許せない気持ちがある人もいると思う。けれども。

一生懸命やったからいいわけじゃないそれでも、
必死に良かれと思ってやったことを「毒」の一言で
片づけることがどうしても納得いかないのだ。

私自身、何不自由なく与えられた。と思う。
ご飯に困ったことはない。欲しいものは比較的買ってもらえた。
やりたいことはやらせてもらえた。

世間から見たら、裕福ではないけれど貧しくもない。
ごく普通の「幸せな」一般家庭。
女の一人っ子だったので、甘やかされて育ってるんだろうと
思う人も多くいただろう。実際そういう部分もあったと思う。

でも。嫌いでどうしても使いたくない言葉が頭をよぎる。
「毒親」

ここまで打っただけでもうすでに涙が止まらない。

家庭は私にとってずっと安寧の場所ではなかった。

幼い頃の記憶は喧嘩の声。
子供部屋から、寝室から聞こえるのは叫び声。
両親は。寝てるから聞こえてないと思ってなかったのだろうか。
父は出張がちであまり帰ってくることはなかった。
けれど帰ってくると必ず聞こえてくる罵声。それに対抗する母の声。
その声におびえていた。
私が出ていけば止まるんだろうか。でも怖くて出られなかった。

起きたら廊下が血だらけになっていることもあった。
何が起きたのかはわからない。けれどもそこには血があって。
絨毯を歯ブラシで磨いたことを今でも覚えてる。

小学校にあがってから、母は、
「あなたが帰ってくるころにはもう家にはいない」と
学校へ行く前にいうようになった。
「出ていく」というのだ。
結局本当に出ていくことはなかったのだけれど、
いつもいつでも、今日こそは母は帰ってこないかもしれない。と
思う日が多くあった。

父は単身赴任で家にはおらず、母も私が小学2年生の頃には働き始めた。
いわゆる鍵っ子である。
一人っ子なので、誰かに話を聞いてもらうこともなかった。
母が帰ってくれば、母の仕事の話や父親の愚痴を聞く。
私が今日何があったか話すことはあまりなかったように思う。

今も多いと思う不審者は当時もいた。小学校から家までが遠いので、
小学生の頃に痴漢にも露出狂にも写真を撮ってあげるからみたいな
変質者にもあった。片手で数える程度ではすまないくらいにはあった。
でも帰っても親はいないのだ。泣きながら逃げ帰って
一人でその恐怖を処理することも多くあった。

ほめてもらった記憶がない。いや、ないはずはないと思うのに
思い出せない。責められることもないけれど、どんなに高得点でも
凄いねと言われた記憶がないのだ。四教科も体育も音楽も当時の通知表で
最高の成績を出したのに、覚えているのは最高点じゃなかった
家庭科と図工を見て不器用だと言われた言葉。

母は美人だった。誰の目から見ても美人だった。
だからお世辞にも美人といえない顔の私が
たぶん相当かわいくなかったんだろう。
容姿は親戚にもクラスメイトにも馬鹿にされていた。
母親と似てないねと言われたのはあまりにも多く慣れてしまった話。

中学生になると父が不倫を始めた。
もしかしたらもっと前からあったのかもしれなかったけれど
ずっと単身赴任や出張をしていて気づかなかった。

14歳になるころに、新しく買った一軒家に、
父がその相手と私たちと一緒に住みたいと母に相談したらしい。
要は離婚はしないで家族はそのままでその彼女を連れてきたいと。


ありえない。けれど今思うとだいぶとち狂った話ではあるけれども
私にとってはもはやそれがおかしなこととすら思えなくて、
泣きながら私に相談する母に、別にいいんじゃない?と答えた。
母は私を非難した。そんなことしたら私の居場所がなくなると。
そうか、そうなのね。ごめんね、お母さん、
私はそこまで考えてあげられなくて


これが私のスタンダードだった。
でも衣食住は与えられてる。父も母も別に私を
虐待したりはしていない。

今思えばたぶん私は壮絶に愛情に飢えていたんだと思うけれど、
決して二人は私を愛してなかったわけじゃない。
今でも二人は一緒に住んでいるし(不倫はそのあとも延々相手を変えて続いていたし今も終わってるかわからないけど)
私は大切にされていたのだと思う。

だから毒親なんて言葉は使いたくない。
でも親に感謝しなさいという言葉はずっと受け入れられなかった。
責めることも、感謝することもできないまま
年齢だけは大人になってあの頃の親の年齢を超えてしまった。

今ではだいぶ整理出来てきた。
ずいぶん長い時間がかかってしまったけれど、本当に苦しい時からは
脱することが出来たと思う。

それでも時々思い起こしてしまう。
壊れてしまった私に、この環境は作用していたのだろうか。

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yulia
日々を生きていく力にします。本当に、ありがとうございます。