ベターでもベストでもなく“ナイス”。『松野家の荒物生活』
実体があるようで無い「ていねいな暮らし」というフレーズ。そもそも、暮らしというものは一人ひとり違う。ひとりぐらしの人もいれば、家族や親しい人と暮らしている人もいる。家事や料理に時間をかける人もいれば、そうでない人もいる。「丁寧」の定義は人それぞれなのだから、誰かのものさしを自分にあてがう必要はない。にもかかわらず、この言葉にはある一定のイメージが存在し、生活者(というよりもここではあえて消費者)の憧れの対象としても度々用いられたりすることがある。
このもやもやを払拭してくれたのが、東京・馬喰町で〈暮らしの道具 松野屋〉を営む、店主・松野弘さんの言葉。
「人を押しのけてベストを目指すのは恥ずかしいし、ベターは妥協しすぎている。自分の能力に見合ったナイスな生き方を選びたい」
(『松野家の荒物生活』より)。
ベターでもベストでもなく“ナイス”という価値観。多様性を尊重しようとする一方で、個性を見失いがちな現代社会を生きやすくしてくれるようでもある。“自分らしく生きる”ことを考えるよりも、“毎日を機嫌よく過ごす”ことを積み重ねていくほうが有意義だ。それによって、自分自身が理想とする暮らしの輪郭も掴むことができるような気がする。
さて、荒物である。「荒物」とは、毎日の家事や雑事をするのに必要な道具のこと。気取らず使えて丈夫で長持ち。求めやすい値段でいい仕事をしてくれる“ナイス”な道具。トタンのバケツやシュロのほうき、竹ざるやあけびのかごなど、町工場や農閑期に農家の人たちの手によって生み出されている。民藝やヘビーデューティーの影響を強く受けたという松野さん。「用の美」を体現する荒物の魅力とその背景を、自らが日々使いながら伝えている。
松野さんがinstagramに投稿している「今日のうちの花」シリーズが好きで、いつも楽しみにしている(@hiroshi_matsunoya)。備前鉢には椿をひと枝。片口には山茶花。片手桶にはヒヤシンス。竹かごやざるに水を入れた器を仕込めば花器に早変わり。書籍では自宅の屋上庭園も紹介されていて、いつもそこから季節の植物を選んで玄関に飾っているのだそう。花を飾ることも、機嫌よく過ごすためのひと工夫だ。
自宅から歩いて20分のところに行きつけの銭湯があるという。
すぐ近くにおいしいコーヒーが飲める喫茶店もあり、朝のウォーキング後に銭湯で汗を流したあと、コーヒーとチーズトーストにサラダにゆで卵のモーニングセットがお決まりとのこと。
松野さんのモーニングルーティンに触発され、さっそく休日の朝に銭湯へ向かったものの、早朝ウォーキングもしていなければ、モーニングならぬ昼酒という形で着地してしまった。次は喫茶店にも立ち寄りたい。
読み進めていけばいくほど、松野家の生活を覗いているような感覚になる。「季節のいとなみ」という章では、年越し準備やおせちづくりにはじまり、手前味噌づくり、お彼岸のおはぎ、梅仕事、迎え火またぎ……。昭和の最後に生まれ田舎で育った私にはどこか懐かしく馴染みがあるものもあった。同時に、東京にもこんな暮らしがあったのかと驚く。味噌仕込みや梅干しづくりは幼い頃も身近ではなく、むしろここ数年のあいだに興味がわき、自分でも作ってみたいと思うようになった。
手を動かすことは、心身ともに健康でいる秘訣であり、エコやサステイナブルといった考え方は、昔ながらの暮らしにこそ学ぶものがたくさんあるように思う。人と比べたり競い合ったりするのはしんどい。ベターでもベストでもなく、ナイス。身をわきまえたうえで、できることをやるという考え方を心に携えていたい。
追記:2022.4.11
「ていねいな暮らし」について。ここでの「ていねい」は、ある一定のイメージとしてそのように語られがちな料理や家事といったものを例に挙げました。もっと広い視点から根本的な意味でこの言葉を考えたときに「ていねい=自分の考えのもとに選択し行動すること」であれば、もやもやせずに納得できるかもと思いました。例えば、選挙に行ったりデモに参加して声を挙げたりすることも、たまには息抜きしようと自分を休ませることも、誰かと口論になって自分が悪いと思ったときに謝ることも、等しく「ていねい」に暮らすことなのだろうと思います。どちらかというと優雅なイメージとは真逆で、地味で泥くさいもののほうがしっくりくる感じ。
「ていねいな暮らし」論は、それこそもっと丁寧に、背景をふまえながら考察をまとめている方を見かけるので、もう少し私も探ってみようと思う。