生と死のはざまを、おぼつかない足取りで歩いている。正気を保って真人間らしく暮らすのは、じつはとても、難しい。(2020年8月の鬱日記)
※2024.10 補足
旅漫画を出版したのでnoteを書こうと思ったら、4年前に鬱だったときの日記が下書きに残されていました。これを投稿するのは若干勇気が要りますが、心身を病んでもがいていた自分がいた(今もいる)ことをきちんと残しておきたいと思ったので、4年経ってるけど公開することにしました。
鬱の時の思考回路は、限りなく白黒志向の黒に近く、今見返すと思考も視野も狭まりすぎだろうと思うのですが、渦中にいると泥沼蟻地獄にいるようでなかなか抜け出せないんですよね。鬱期の記録としても非常に興味深いです。
結構思い詰めてるので、心身が疲れている方はもっと疲れてしまうと思いますので、そっと閉じてください。
初出版「女ひとり、インドのヒマラヤでバイクに乗る。」も冒頭にさらりと鬱シーンを描いてるけど、内情はこんな感じでした、ということで。
以下、2020年8月9日の鬱日記
※これは、自己否定的・自罰的思考を
なんとか克服したい
30代会社員の雑文です。
「自分なんかいなくなればいい」
どうしようもなく涙が出てきて
眠れなくなる。
そんな夜が
もう半年以上も続いている。
リモートワークや休日で
一日中家にいる日も
たびたびそうなる。
今日もそう。
目の前が暗転し
孤独感や焦燥感で胸がいっぱいになり
急に涙が止まらなくなるのだ。
まあ、躁鬱持ちなので、
毎年冬は鬱傾向なのだけど
近年はそれなりにコントロールできていて
そこまで問題ではなかった。
今年は、結婚を見据えた恋人との破局
健康上の問題の発見
そしてこのコロナ生活ときて
色々参ってしまったのかもしれない。
このあと人と会うので、
なんとか気持ちを落ち着かせて
腫れぼったい目を冷やさないと…
「自己肯定感」
もとは心理学の用語だが、
最近はこの概念が
だいぶ一般化したように思う。
(やや言葉が一人歩きして
自己肯定感がある・ないでまた悩む
そんな人も増えているように感じるけれど。)
ただ、
“自分を肯定する”
“自分を好きになる”
というよりは
“どんな自分も許す・認める”
“どんな自分をも受容する”
つまり「自己受容」できるかどうかを
考える方が
私にはしっくりくる。
「自己受容」
これが、なかなか難しい。
成果が出せているときは良い。
問題は、調子があがらないときだ。
今まで、何度も壁にぶつかった。
気分障害にもなった。
その度に深く自己内省し
アイデンティティを編み直してきた。
そうこうするうちに
30年以上がすぎた。
どうして、自己否定せずにはいられないのだろうか。
思い返してみると
幼い頃からずっと
価値がなければ、生きていてはいけないのではないか
という考えに囚われてきた。
(そもそも、価値という自分の外のものさしで
自分を測ろうとする時点で、詰んでいるのだけど)
急に(追記:私にはそう感じられた、あと自分も癇癪持ちだった)怒って手を挙げる親の下で
ビクビクして過ごした家庭。
気の合う友人がおらず(追記:何人かはいた)
グループ作りのたびに目線が宙を泳いだ
小中高時代。
うまくグループに馴染めず、何となく疎まれて
先輩や同期の顔色を伺って過ごした
中高の部活。
(追記:高校は楽しい時もあったし今は仲良いです)
一人暮らしと単位制で
自由を手にしたものの
孤独感と不安定な感情に振り回された
大学時代。
(追記:総じて大学生活は人にも恵まれ楽しかったです)
就職留年してまで入った会社で
入社早々心身の不調をきたし
罪悪感にさいなまれた休職時代。
(追記:休職時代はゆるりと自分に向き合えてすごくいい時間だった)
最も苦手な事務仕事を任され
当たり前が当たり前にできなかった
復職後。
そして、30代に入り
孤独感と無能感に
打ちひしがれている、いま。
もちろん、別につらいことばかりではない。
誰かと、深い感情を分かち合ったり
すてきな景色を全身で浴びたり
おいしいものを口いっぱいほおばったり。
楽しいことや
大好きな人との時間
ずっととっておきたい味わい深い瞬間も
たくさんあった。
自分の悩みを原動力に
たくさんの人が喜ぶものを
作ることができた時も、あった。
それらの尊い瞬間を
ちゃんと噛みしめることだって、できる。
けれど、今日のような日は
「皆と同じことがうまくできなかった記憶」や
「疎外感」「さみしさ」ばかりが
こみ上げてくるのだ。
自分ひとりのことだけ考えていては、
人生は辛すぎる。
最近よく考える。
まして、若さや健康など
歳を重ねるごとに
失う一方だ。
この先はきっともっと、
孤独で、惨めで、耐えられなくなる。
と、悲観せずにはいられない。
だから、
誰かの力になるとか
誰かのためという“自分のエゴ”を貫いて
仕事や生活をしたいのだ。
きっとその方が、
自分が生きやすくなる。
ただ、問題は
社会人になってから
思うようなキャリアがつめなかったことだ。
年相応のスキルや能力が足りないと
人の役には立てない。
少なくとも今の環境では。
と、思ってしまう。
さらに、このコロナ禍の
フルリモートワーク環境(半年経過)で
仕事上のコミュニケーションが希薄になった。
居場所感や自己効力感が
よりいっそう感じられなくなった。
加えていうと、
自分が単身者である点も大きいだろう。
同居人のいない、完全外出自粛生活で
仕事・私生活双方とも
孤独にのまれてしまった。
ソーシャルディスタンス時代。
社会との繋がりが
以前にも増して
心許なく感じられるようになった。
このまま必要とされない人間で居続けると
加齢もあいまって、近い将来
どこまでも転落してしまうのではないか
そういう強迫観念がある。
今はかろうじてまだ
友人がいて、家族がいて
最近は会うこともできるので
なんとか堪えている。
(本当にありがたい)
けれども、
私が今感じている、社会からの疎外感は
仕事という”社会的役割”
(家族の世話や育児など、会社以外の集団での役割も含む)
にまつわることでしか
解消できないと考えている。
だからいま、
自分の活用しどころを
どうにか見出そうと
必死にもがいているのだ。
お金の心配や、キャリアの不透明性。
親が自分より先に死ぬことや
健康の問題。
環境変化や、社会情勢の不安。
正気を保って真人間らしく暮らすのは
じつはとても、難しい。
気を抜くとすぐに
「あっち側」に行ってしまいそうになる。
その手前で必死に堪えて
今日も、生に執着する理由を探している。
友人や家族を、
ゆるく広くたぐり寄せて。
すてきな思い出や旅先での自由を、
じっくり思い出して。
美味しいご飯や次の約束を
支えにして。
状況がゆるせば、
少し出かけて。
未来への一縷の望みや
物語に酔って。
できるだけ、できるだけ
何か1つに
依存することのないように。
それでも消えてしまいたいと
ふいに湧き上がる情動。
それは、とめどない涙とか
自分を罵る暴力的なことばの数々として
からだの外側に噴出する。
それらは
そのまま誰かにぶつけるわけにはいかない。
強い感情は、刃になる。
受け止める側も、相当なエネルギーが必要だ。
(それは相手が自分であっても、なのだけど…)
だから、そっとここに置いておく。
さて、そろそろ出かけなくては…
※筆者は、
長年の医療機関への通院
日々の感情の言語化や漫画化
ここ最近は、カウンセリングの活用
心理学大学での学習を通じ
自罰的思考の克服に取り組んでいます。
毎日1000〜2000字数ほどの日記を書いて
自己客観視に努めていますが
ここnoteでも、自己受容に向かう過程を
書き残したいと、思い至りました。
自分の感情や、心理学大学で学んだことを
文章で
そのうち漫画でも、
形にしたいと思っています。
同じような生きづらさを感じる人が
自分を責めすぎず
健やかに暮らせますように。
この鬱から始まる、インドのヒマラヤをバイクで走って鬱が緩和されたりされなかったりする旅の漫画を出版しました。
「女ひとり、インドのヒマラヤでバイクに乗る。」
#ヒマバイ
もしよかったら、お手に取ってみてください。
旅漫画・バイク漫画の顔をした、自分と向き合う力技系のメンタルヘルス漫画です。