終わりと始まり

2022年。
新しい境目に立っている感覚を感じている。

そうだ。
わたしは自由だった。

囚われからの自由

それはあらゆる囚われを表す。
家族、友人、子供、旦那、場所、時、肩書き、過去、やってきたこと、やり終えられなかった後悔、あの時しなかった選択への未練、繋がりの全て、見られているという意識。

それら全てが偶像で、しかも、存在しないように感じられる時、わたしはなんて自由なんだと
両手を広げて、天を仰ぎ、その豊かさを噛み締めるだろう。

忘れていた。

無責任、自己責任、やらねばならぬもの、豊かでなくてはならないこと、華やかであるから目につくんだという妄想、こうでなくてはならないという自己顕示…
ありとあらゆる妄想と、委ねられない不安に、革命的なアイディアは浮かばず、押しつぶされることを許し、人々は日々、この世界で暮らすことを強いられている。

では、それを選択し、委ね、妄想を重ねているのは誰か?
わたしである。
誰が強いている?
わたしである。

人々は妄想が好きだ。

こうであれば良いのに
こうであることが正義だ
だからわたしはこうなりなたいのである。

の繰り返し。

それはそれでいいのだけど、

わたしは何だかつまらなくなってしまった。

私は私でなんにでもなれる。
なんでもやれる事がこの未来にある。

無限の可能性に気付いてしまった今。
わたしは飛び立つ以外の選択肢はないし、
これから、「飛び立っていくこと」「飛び立ち方」に興味はとめどなく溢れてくるだろう。

星々の声にこの身を委ね
龍の吐息で流れを見ていく。
温かな湯気のような吐息が向かう先
そして、その吐息が空気にまみれて、空へと帰るとき、そこに姿を表すものはなんなのか。

それを見る者が出来るのは、今はほんの一握り。

つぶさにその吐息を感じ取り、あらゆる委ねと共にこの身を捧げるように使っていく。
「思考は必要ない」
わからないことが、わかってくるようになると
不思議と化学反応が起きてくる。

子供達は自分で察して、己のやりたいことをやっていく。子供達の中にある常識は子供達自身で取っ払っていく。

何年も常識を押し付けてきたことを体感する。

それでいい。
始まったから、終わるんだ。

新しい創造が始まったから
古い価値観を捨てていく。
その感覚の養いは我が子に必要な受講科目で、これから必須になってくる項目だろう。

必要な価値観のアップデート。

古い価値観は1分で脱ぎ捨てていくくらいの
それくらいの需要力と斬新さ。固執しない柔らかさ。締め付けない緩さ。しなやかな考えとアイディアが溢れる泉のような純粋性と素直さ。そして、力強い実行力。立ち直り、前を向いていける凛とした一筋の強さ。

それを養うには。
それを子供らに伝えるには。

私がまずやらねば、ならないのだ。

とにかくやってみせる。

チャレンジして成功をみせる。
果敢に挑んだけども、ダメだったところも見せる。
成功が全てなのではなく
過程に学びがあり、過程にこそ、楽しく面白く、チャレンジして体験する意義があるのだと
そう伝えていくのは

前を生きる
先を生きるものの使命だと捉えている。

終わりと始まりの狭間に見出したもの

龍はいつも側にいる🐉

愛おしい「ハルワケ」という名の龍は
春分
ともいえるし、
その生まれを聞けば、「春別川」というこの町にある川だと言う。

ハルワケの文字の意味
ハ→純真な波動
ル→澄んだ流れ
ワ→調和
ケ→宇宙の計らい

当たり前のようにあった「龍」のお計らいは
羨ましいと羨望の眼差しでみられることの方が多い

しかし実際は、現実世界での葛藤の嵐である。

一悶着もふた悶着もあるからこそ、
折れない鋼の精神が養われてきたように思う。

どんなことがあっても、
どうにもならないように思えても

諦めない事をまずは問われ続ける。
なぜそれをしたいのかを問われ続ける。
その先に何があるのかを見定めさせられる。

これは「宇宙の法則」であり、
これが、「現実をつき動かす力」そのものである。

龍でもなんでもない、ただのこの世界の不変の事実であり、普遍のサイクルである。

ここに気付けば「終わりと始まりの狭間」
に、何を見出せるかは、自分自身で解答を導き出す事が出来る。

この力をある呼びかたでは「透視」と言う。

日本語は面白い。
ひとつの「おと」で意味の異なる漢字を当てはめて、ひとつの言葉として存在しているが、
「おと」が同じものは
同じエネルギーだという。

「透視」物事の本質を見る力のこと

「投資」将来を見込んで物事にお金を注ぎ込む事

「通し」物事の流れ。始めから終わりまで切れ目がないこと。

「投資」でお金を稼ぐ事が出来る人は
お金の本質自体を「透視」して、
投資先の流れ「通し」を読む力があるのだと思います。

自己「投資」にお金をかけることが出来る人は
自分の人生の本質を「透視」出来るから
死ぬまでに自分の本質で生きる選択を「通す」ことが出来るのだと思います。

「透視」が出来る人は
自分のことを「透視」出来るから
自分に必要な様々な「投資」をする事ができる。
流れ(通し)を見る事で、自分にワクワクして
生きる活力が常に湧き出ている。

言葉遊びですかね(^^)

でも、あながち…違うとも言えないのでは…

終わりと始まりは常にあるもの。

そこをしっかり感じ取る。
自分がそこへ向かっていく意義を見つけ出し、
その意味を捉え、生きる喜びを見出すことで

人生のレイヤーは光輝き、虹色のチャクラは活発に動きだし、「人」の人生は面白可笑しく進んでいくのかもしれませんね。

「お菓子」「可笑し」

きっと、わたしはこの「おかし」が好きでたまらない生き方をしたいのだと思います!


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