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没後50年 福田平八郎

2024年5月の連休最終日、大阪中之島美術館「没後50年福田平八郎(1892-1974)」へ滑り込みました!

平八郎の10代手探り期から超絶技巧とも言える徹底した写実技術(さすが京都画壇!)、そこから今回のメインビジュアルとなった「漣」作品は水面そのものを単純化し(だからモネと抱き合わせの展覧会だったのか?笑)、鮮烈な色彩と大胆な画面構成で日本画の域を既に超えていたように思います。その線そのものは書にも近い、とも感じました。

入口
10代手探り期の作品
《安石榴(ざくろ)》
大正9年(1920)
大分県立美術館
京都画壇真骨頂の作品
《朝顔》
大正15年(1926)
大分県立美術館
本展メインビジュアル作品
《漣》重要文化財
昭和7年(1932)
大阪中之島美術館

そして、その独自性はやがて竹や雨瓦などモチーフを変えてトリミングされていくのですが(個人的には雨瓦作品に度肝を抜かれましたが、撮影禁止でした)、特に竹シリーズでは完成に至るまでの執着とも言うべき多くの写生帖が展示されており、京都画壇では当たり前とされた緑青を避け続け、独自の色彩感覚で鮮やかに転換してみせたことをうかがい知ることができました(残念ながらこれらも撮影禁止)。これはある意味伝統的日本画の西洋化を試みていたのだろうと推測します。

そして、晩年になればなるほどその単純化は究極となり、もはやクスッと笑ってしまう可愛らしさと、良い意味で何もかもどうでも良くなり解放されていく様相がよく伝わってきました。

つまり、京都画壇時代の鯉は鮎へ、鶴は鸚哥へ昇華したのです!(残念ながら、鸚哥作品も撮影禁止)。

超絶技巧とも言える鯉と鶴が、82年の生涯でここまで進化したのか!と考えると、もう激動の時代を乗り越え謳歌したと言うよりは、誰も何も言えない境地へ辿り着いたのだと思えました。

《游鮎》
昭和40年(1965)
大分県立美術館

そして最期の作品は、なんと「紙テープ」!(こちらも撮影禁止)これには心底(良い意味で)笑ってしまいました。平八郎は現代アートにも触発されたのか、マーク・ロスコらしき模写も残っていたのも、とても印象的でした。

作家として年齢を重ねていくということは、身体は退化しても精神性と作品は進化していくことなのだと改めて感じ入ることができました。
日本画から70年代の現代アートへ、その軌跡を充分過ぎるほどに楽しませてもらいました。

残念ながら会期は終わってしまったので当分平八郎作品にお目にかかることはないと思いますが、大分に観に行きたくなりました!また会いたい!

※撮影OKの作品のみUPしています

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