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夜の世界で見た人間の本性と、暗部に眠る宝物。


「半グレ ―六本木摩天楼のレクエイム―」より


あぁこの感覚、ちょっと分かるなぁ…と思った。

18歳から22歳まで、水商売の世界にいた。
2~3年はどっぷり夜だけだったのが、20歳くらいから徐々に昼職も始めて、最初は、朝起きて日の光を浴びながら出勤する自分に、「なんか、ちゃんとしてる感!!」って、少し誇らしさを感じたりもした。

だけど同時に、すごく思うことがあった。
なんだか、昼の世界は嘘っぽいなぁ…と。

夜の世界は、正直だった。
色恋とか、どれだけ騙して金をかすめ取るか とか、そういうのを目撃するのが日常茶飯事で、そういう面では嘘だらけなんだけど、人間の「欲」という面においては包み隠さないドストレートな世界で、色んな“下心”があからさまに渦巻いてて、そこが怖くも、なんだか清々しくもあった。

その反面、昼の世界は、一見潔癖そうでいて、みんな本性を抑圧して平然を取り繕っているような、表面だけが綺麗に整えられた“偽物”を見ているような、気持ち悪さがあった。

しばらくは、昼と夜を行ったり来たりしていたけれど、そんな「昼」に飽きて「夜」に戻ってくると、本質的なところに着地できたような、不思議な安心感を感じることがあった。



大手の会社に勤めてる人が、酔っぱらって、
「俺はこの会社に勤めてるんだぞ!」
って自慢しながら、名刺を女の子に配りまくってた。

夜の世界にしかいない時は、まるで絵に描いたような呆れる光景でありつつも、まぁいつも通りで、特になんとも思わなかったそれが、昼にも働くようになったら、その行為のとんでもなさを実感した。
社名の入った大事な名刺を、こんなとこで配るなよ。。。笑
女の子たち、そこらへんに捨ててるよ…?

だけど、そんなむき出しのエゴこそ扱いやすく、そういうのこそウェルカムな夜の世界。
昼の世界では眉をひそめられるようなそんな愚かさが、価値あるものとして受け入れられる。
確かに大手の会社にお勤めのようだったそのサラリーマンの、昼の顔とのギャップを思ったら、なんだか笑えて、やっぱり私の中での“本物”の軍配は、「夜」に上がった。

もっと遊び慣れてる人だと、「欲」に対してすごくストレートかつ、淡々としていた。
当たり前のように、色んな交渉を持ちかけてくる。笑
だけど、それを断っても、「あ、そう、ダメなんだ」って、めちゃくちゃさっぱりしてる。
よくもこんなに淡々と、恥ずかしげもなく本性を出せるな、、、って、逆に感心したりもした。笑
そしてそういう人たちは、決まってお金持ちだった。

いつも指名をくれてたおじさんは、小指のない人だったけれど、お店の女の子たちを大切にする、遊び方の綺麗な人だった。
だけど、時々ふとした時に見せる「目」が、「あぁこの人、絶対に人殺してるな…」ってことを感じさせた。
彼以外にも、時々そういう「目」の人が来ることがあった。
目の奥が、明らかに普通の人と違っていて、やっぱり人の本性って、「目」に表れるんだなってよく感じてた。
その目と共に時折ふと漂わせる深い絶望感のような雰囲気は、彼らを「今ここ」に強く着地させてた。
そしてそういう人たちは、人の『陰』の性質をよく理解してた。



「欲望」であったり、厚くなったエゴであったり、どろっとした「本性」みたいなもの。
それは何層にもなっていて、比較的浅い位置のそれは、「怖れ」を擁護している殻であり、もっと深い位置のそれは、生物としてのしたたかさ――より、本能に近いもの だったりする。

そういう、人が持つ「陰」の側面。
そこを取り扱う業界だからこその、「陰」を当たり前に受容する懐の深さ みたいなものがあった。

昨今色んなニュースにも上がっているように、その打算ありきの受容力はとても深く、溺れたら確かに危険な世界ではあるけれど、そこは明らかに、清廉潔白ごっこをやっている昼の世界が目を逸らしがちな人間の本質が、そのまんまよく見える場所だった。

例えばものごとの根本的解決には、その根っこを探ることが必要なように、本質を掘り下げたいと思った時には、“暗がり”に目を凝らす丹力みたいなものが必要になる。



私たちは、知らずに信仰している多くのものを見直す必要があるし、それには自分の本性にもっと気づいている必要がある。
そしてその答えは、誰の中にもある陰的な側面が握っている。
洗脳に侵されていない「陰」の領域は、たくさんの「本音」を有しているから。そしてそれらは、受容してくれる居場所をいつも探している。

自分自身の中でそれが叶わなかった場合、要はそれが自分の中で否定され受け入れられなかった場合、それを外側の何かや誰かに求めるようになる。
それにも失敗し蓄積されたそれは、何らかの形で暴発する。

弱くて愚かで非常識な自分にしか見出せない、宝物がある。
自分の弱さを認めなければ超えられないものがあり、愚かさを通過しなければ分からないことがある。
ものごとをありのままに見ることができるのは、「常識」という上澄みに絡め取られていないということ。

抱える「陰」、触れられたくない「暗部」は、それらから目を背け、否定するほどに、より主張を強め暴れ出す。
排除したはずの自分の一部を、他人を通して、外界の出来事を通して、目の前で見せられる。
“否定した自分”は、その存在を認められるまで、どこまでも追いかけてくる。

誰にも見せたくない、時には自分にも気づかせたくない、そんな汚い自分や、弱い自分に出逢ったなら、それを無理矢理変えようとしたり、排除しようとしたりせず、
「ここにいてもいいよ」
って、まずは言ってあげること。
夜の世界の如し、両手を広げて、その存在にOKを出す。
初めはグッと、肚の力が必要だけれど、存在を認められたそれは、いつしか大人しくなる。

そうしてそれは自分の血肉となり、「生きる」をサポートしてくれる、大切な一部となる。



「欲」って、私も確かに苦手だなぁ…って思う。
このあたり、もっとゆるめて解放してこう。笑
“清貧”とか本当に、クソくらえ なのだ。


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