発達障害と生活モデル
みなさんこんにちは。りょーさんです。
先週の金曜日、更新ができなかった、、、仕事のことで、どうしても文章を書くことに向き合えなかった、、、のですが、少しずつ気持ちを整理しながら、前に進むために自分を整え直している最中です。
やる気がないわけではないんですよー。
さて、前回は「社会モデル」の考え方をお伝えしました。
個人の側に障害があるのではなく、社会の側に障害があるって考えです。この言い方嫌ですね、個人の側に障害を押し付けるのではなく、社会がそこにしっかりと配慮しましょうっていう言い方のほうがいいのかな。
そして、トマトがトマトらしく育つような環境を用意するのが私たちが生きる社会の責務だよね。決してトマトをスイカにすることではないよね、そこにこの社会(つまり私たち)は向き合っている?ってことを投げかけをしました。
今回は、視点をもうちょっと深めるために、「視力とメガネ」を例えとして、社会モデルからの生活モデルについて、書いていきたいと思います。
僕はメガネがないと生きにくい
僕は視力が悪く、メガネをかけています。
メガネがないと、運転は危ないです。
学校にいたら一番前に座っても見えないかもしれないです。
日常生活でもだいぶ支障をきたすでしょう。仕事もPC作業くらいならできるけど、正直やりにくいです。
そうなると「生きにくさ」を抱えることになる。
個人モデルの考え方であれば、僕が、医療的な治療を受ける、あるいはリハビリ的な視力回復の訓練をするっていう考えになります。
メガネがない社会を想定してみます。
社会モデルの考え方でいれば、メガネがない社会の側に課題がある。
あるいは目が多少悪いくらいで日常生活や社会生活に支障をきたしてしまうような社会が残念。
そうならないように社会が何かしら配慮したり、メガネ(のようなもの)を開発したりしましょーってことになります。例えとしてメガネを出しましたが、メガネは合理的配慮の例えです。メガネ=合理的配慮ってことになります。
さて、そこで変な質問ですが、個人モデルと社会モデル、どっちが正しいと思いますか?
ちょっと考えてみてください、、、。
問い方のマジック
どっちが正しいってわけではないですよね、どっちも正しくなり得る。
物事を二つに切り離して「どっちが正しい?」っていうような問い方をする人がいます。
有名なYOU TUBERもやっています。多分意図的に、再生数稼ぐために。
論理としてはわかりやすいし、思考の負荷も低く、スッキリする。
スッキリを作るために「Aが正しい!Bは間違っている!」っていう論点の立て方をするのです。
でも哲学者の苫野一徳さんは、これを「問い方のマジック」と呼んで「警戒せよ」って言っています。
「どっちか?」ではないんです。どっちも状況によって必要な場合もあるかもしれない。どんな状況で何を目的とするか?によって変わる。
個人モデルの立場に立ちすぎることのデメリットがあります。
それは、いわゆる自己責任論に陥りやすいってことです。社会が人を排除する。「努力しないお前が悪い!」ってなってしまう。
社会モデルの立場に立ちすぎることのデメリットもあります。
僕は、これも行きすぎると自己責任論に陥り、その人を排除することになると考えています。
「社会が悪い!」って言い出すと、一人ひとりに対して、どのように関わっていくかが看過され、社会が個人に手を差し伸べる理由がなくなっていくのではないか、って僕は思っています。
どっちの立場にたっても限界はある。その限界を考えることなしに「こちらが正しい!」とは言えない。「どちらが正しい?」っていう「問い方のマジック」は本当に気をつけなければならない。
生活モデルという視点
さて、すこし理屈っぽい話になってしまいましたがもうちょっとお付き合いを。
上記の二つの考え方を受けて「生活モデル」って考え方があります。
個人と社会(環境)を切り離すのではなく、「個人と環境はお互い影響し合っているよね!」って考えて、「個人」にも働きかけるし、「環境」にも働きかけるんだけど、「影響し合っている何か」にも働きかけたらどうでしょう?って考え方です。
これについて発達障害に引き寄せて考えてみます。
発達障害のお子さんたち、彼らは特性に凸凹があります。
凸(強み)は有効活用すればいいし、凹(弱み)は何か別のもので補完したり、できる範囲で訓練もする必要があるかもしれません。
たとえば、LD傾向のお子さん、どうしても漢字を覚えられない。書くのもしんどい。でも漢字を読むことはそれなりにできるとします。
「読むことはできるならそれは活かそう!(強みの有効活用)」
「書くのがしんどいのであれば書かないで覚える方法を考えよう(補完)」
「10回書くのではなく2回書いて覚える方法を考えよう(できる範囲で訓練)」っていうイメージです。これは完全に個人へのアプローチですね。
一方で、漢字が書けないことで自信を失っている、やる気を失っているってことであれば、学校やご家庭に働きかけて合理的配慮を検討する。
たとえば、漢字の宿題の調整とか、板書を書く範囲を決めるとか、家での漢字学習のやり方の工夫とか、、、これは環境への働きかけです。
もうちょっと広い視点で見てみます。
漢字が書けないことで自信を失っていて、勉強しないお子さんがいたとします。
お母さんが「勉強しなさい!」ってガミガミ、学校でも「なんでできないの?」と笑われ、そのことによって、さらに自信を失って、お母さんに癇癪を起こしたり反抗的な態度をとったりしたらどうでしょう?個人と環境がお互いに影響を及ぼし合っているって言えそうです。
お母さんも子育てに自信を失っていたり、学校の先生への不信を持つかもしれない。それが学校の先生の指導にマイナスに働くかもしれないし、父と母が不仲になるかもしれない。そしてそれらがまた本人を苦しめる。
個人の問題から派生して環境(本人が生きる世界)に影響を及ぼしているし、環境の問題が本人にも影響してしまっている。
その影響を及ぼし合っている何か?を見出してそこに関与することも必要そうです。
その場合、個人へのサポートをどうするか? 環境へのアプローチをどうするか? 個人と環境が生み出す何かに対してどうアプローチするか?この三つの視点がありそうですね。
社会福祉士の資格の勉強をしていたときに、ソーシャルワークについて学び、子供たちと関わっていく上で大きな示唆を得ました。子供たちと関わるときに常に思考の片隅に入れている考えです。
これは、障害のあるなしに関わらず、先生や親も持っているととても「楽になる」視点だとも思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
追記
僕が運営する個別学習塾はるで働いていたバイソンが、僕たちの活動を紹介してくれています。一人ひとりを大切にし、そのための「対話」することを大事にしてきた取り組みを紹介してくれています。
サンキュー、バイソン。