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フラ・フィリッポ・リッピ 破天荒な人生①

今回は私の好きな画家の1人、フィレンツェ出身の修道士フラフィリッポ・リッピ(1406頃~1469)についてです。
全て取り上げると長くなってしまいそうなので、小出しというか①から始めます。
③くらい迄にする予定ですが、状況次第ですかね。
上の写真はウフィツィ美術館にある「聖母子と二天使」(1465年頃)、フィリッポ・リッピ作で私が一番好きな作品でもありますが、一番有名でもありますね。
ここではフィリッポの初期から中期の作品を中心に、壁画以外のものを取り上げます。
有名な壁画はドラマチックな話も含め②以降にいたしますね。
写真は昨年(2024年7月)訪問した時のものの他、昔のもありますので、中には鮮度が良くないのもありますし、撮り忘れ含め訪問先も限られてましたので、載せられない作品があること、お許しください。

こちらを向いているのがフィリッポ・リッピ(自画像)

ではまず、作品からご覧ください。

これはパンフです。↓

偶然にもローマのカピトリーノ美術館を訪れた時、何とリッピ親子の特別展をやっていました!
一生お目にかかれないと思っていた地方の美術館蔵の作品も目に出来、ホントラッキーでした😆


「謙遜の聖母」 ミラノ  スフォルツァ城美術館 1420年代後半
「聖母と天使たち 及び聖人たちと寄進者」 ベネチア  チーニ・コレクション 1420年代後半
(ローマ カピトリーニ美術館 より)


昔の写真なので写りが悪くて済みませんが、子供たちの表情が、ありのままリアルに描かれていて、この絵大好きです!


赤ちゃんのキリストがとても可愛い💛当時の子どもの様子ありのままって連想しちゃいます。
またヴァイオリン(ヴィオラ?)のような楽器も当時からあったのですね(知識がなくて💦)
「コルネート・タルクィニア の聖母」 ローマ バルベリーニ国立美術館  1437年
「受胎告知」 ローマ バルベリーニ国立美術館 1440年代前半
向かって右側に依頼主たちが描かれている。
「聖母の戴冠」 ローマ バチカン美術館 1440年代中頃



次にフィリッポ・リッピについての概要です。

フラ・フィリッポ・リッピ(1406頃~1469)はフラ・アンジェリコ(本名グイード・ディ・ピエトロ(1400頃~1455)より6歳あまり若く、フィレンツェの下町、サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂にすぐ近い肉屋の子として生まれた。G.ヴァザーリによれば、早く両親を失っておばさんの元で育てられ、8歳の時カルメル会の修道院に入ったということだが、父トマソ・ディ・リッポは1411年つまりフィリッポの4,5歳までは生存していたらしく、母アントニアに至っては1427年の税務申告書によって少なくとも42歳の年まで在世していたことが明らかにされている。(中略)
またフィリッポは1421年つまり14,5歳の頃にはカルメル会修道院に入っていたこと、兄ジョバンニもその2年前の15歳の時から同じ道を歩んでいたことも分かった。(中略)
 さて修道院に入った彼は、ヴァザーリが言うように「読み書きの勉強が嫌いな彼の悪童ぶりに手を焼いた修道院長が、絵の道に進むよう便宜を計った」せいかどうかはともかく、その才能を見込まれ、画僧として身を立てることとなる。ただ当時のカルメル会は経済的に豊かで英才教育に努め、リッピといえども神学的教養をかなり仕込まれたであろう。農村の出身で絵画制作の経験を積んでのち規律厳しい厳格派修道会(ドミニコ修道会)に入ったアンジェリコとはこの点で大いに相違する。信仰としそれも下町育ちの記載・人間関係・行動様式が彼の芸術と切り離せぬことを後に我々は見るであろう。

「天使たちのルネサンス」佐々木英也著 NHK出版(2000年)より


フィリッポ・リッピ生家にて (フィレンツェ)

上の写真は20年以上前のものですが、フィレンツェに存在していたフィリッポ・リッピの生家に赴いた時のものです。
普通の民家でしたが、テレビでも撮影されたことがあります。
おそらく書籍に所在地が載っていて、見つかるかな?と思ったけど、辿り着きました!
実は当時フィリッポの伝記創作もしてまして、幼少時からのストーリーってわけではないのですが……どうしても気になってしまい、きっと目にするのも一度だけだと思い、行ってしまいました。
今ではこの生家が何処だったか全く覚えていないのですが、探したら写真がありました。
上のプレート、グーグル翻訳させてみました。
無料だから?一部誤りもあるようで…。
恥ずかしながらイタリア語わからない中、辞書も引いて下記のように訳しました。

この家にはすでにカルミネ会のPPがあります。
  1406年生まれ
フィリッポ・ディ・トマソ・リッピ

PPとは(pagina ページ)の略で良いのでしょうかね?正しかったとしても、いろいろな訳がありそうですね。

下の写真は前回も載せましたが、そのカルミネ会の教会。
フィリッポが入所した修道院というのは、教会の隣の建物で現在は「ブランカッチ礼拝堂」の入口になっている建物なのでしょうかね?
教会は後世火災で焼失したため再建され、ブランカッチ礼拝堂は奇蹟的に免れたというのは存じてますが、修道院とは何処?
恐縮ですが私は明確にはわかっていません。

サンタ・マリア・ デル・ カルミネ教会 
右側の建物が礼拝堂の入口になっている

ブランカッチ礼拝堂の入口を入ると、上の回廊になっています。
フィリッポの初期の作品で、修道院の回廊に描いたフレスコ画の断片があるとのことです。おそらくここのことかなと…。
そのことをすっかり忘れ、作品を探し損ねてしまったし、回廊の写真もこれのみです。ここにフレスコ画は写っているけど、彼の作品ではありませんね…。

ここで当時のフィレンツェの画家の師弟関係の一部をもう一度抜粋しますと

ロレンツォ・モナコ(師)——フラ・アンジェリコ(弟)

マザッチオ←(影響)フィリッポ・リッピ

簡単ですが上記のようになります。
ウフィツィ美術館に彼らの作品があったので、年代別に並べてみました。

「聖母の戴冠」 ロレンツォ・モナコ作 フィレンツェ ウフィツィ美術館 1414年


「聖母子像」 マザッチオ作 ウフィツィ美術館 1426年
「聖母の戴冠」フラ・アンジェリコ作 ウフィツィ美術館 1432年頃
「聖母の戴冠」フィリッポ・リッピ作 ウフィツィ美術館 1439-47年

比べると、同年代のアンジェリコや、フィリッポは、師匠や先輩のタッチに近いものがあるように見えます。
フラ・アンジェリコもかなりマザッチオの影響を受けていると言われていますが、上の絵はどうでしょうか。
私的には師匠のモナコに近く、その中で少しマザッチオの影響があるかなっていうところですかね。
フィレンツェのサン・マルコ美術館(当時の修道院)にフラ・アンジェリコの見事な壁画(フレスコ画)がたくさんあるのですが、今回は残念ながら訪れませんでしたし、過去の写真もありませんでした。

この後に続く盛期ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)やラファエロ(1483~1520)などに、受け継がれたのはどちらだと言えば当然マザッチオやフィリッポの方なのでしょうが、フラ・アンジェリコとフィリッポの絵を比べると、高貴な感じだったり、教会などお祈りの場に、より相応しいのはフラ・アンジェリコだなと思ってしまいます。
写実的、解剖学的に描かれた人体像が全て優れているとは言い切れないですね(カルチャーセンターの先生のお言葉です)。


それにしても上記の絵、バックの子どもたちの表情が、いかにも庶民の子をそのまま写し出しているように見えます。
教会に飾ったり、高貴な注文主のために取り繕ったりするところがまるでないというか。
フラ・アンジェリコはもちろん、レオナルドやラファエロの作品でも、こういうのは見たことありませんね、現代的というか。
イタリアのルネサンス時代でこういう絵は珍しいと思いませんか?
これはすごい!というのが私の感想です😊

同世代ということで、どうしても比較されるフラ・アンジェリコとフィリッポ・リッピですが、どちらかと言うと評価が高いのはフラ・アンジェリコでしょうか。ウィキペディアにもありますが、1982年に教皇様から福者に認定されたとか。
人格者だったってことも、評価に含まれるのかもしれませんね。

それに比べて…と言っていいのか、比べるのも失礼というか、フィリッポ・リッピはダメというか、なっちょらんですね。
アンジェリコのように自ら聖職者の道に進んだわけでもない、父親も亡くなり、貧しさゆえやむなくだったから仕方ないと言えばそうなのでしょうが…要するに責任感がないってことですか。

フィレンツェ近郊プラートの大聖堂と街並み

今回のタイトルでもありますが、この人が何をしでかしたか、になります。
もともとこの人、女性にどうしようもなかったようです。↓

ルクレツィア・ ブーティ は1456年に初めて プラート にあるサンタマリア・マルゲリータ 尼僧修道院の【聖母子】像のモデルとなったが、美しい彼女にフィリッポが抱いた 許されざる恋心は、女性を見れば たまらなく 引きつけられてしまう彼の性質から芽生えたものであろう。しかもルクレ ツィア( 1433年頃の生まれ)は修道女 であったため、 2人の関係は絶望的で、 当時の 道徳的規範から外れた道ならぬ恋であった。そこで フィリッポは少なくとも1454年以降、妹のスピネッタと共に ルクレツイアをプラートの修道院から「さらった」と思われる。分かっている限りでは 1455年にプラートのサン・ジョバンニ門のそばの造営局から購入した家に、あろうことか姉妹の修道女 二人と一緒に住み始めたのである。フィリッポはルクレツィアとの間に子供を2人もうけた。のちに画家となる息子のフィリッピーノは1457年頃生まれ、娘のアレッサンドラはおそらく1465年に生まれた。
1459年2人の姉妹は再び 修道女となる誓いを立て 修道院に戻ったようである。ところが 1461年 フラ・フィ リッポが空気を乱したとして フィレンツェのノッテ・エ・モナステーリ当局から通告( いわゆる 「警告」)を受けているところを見ると、 ルクレツィアとスピネッタはフィリッポの家にその頃再び 住み着くようになったのだろう。

「イタリア・ルネサンスの巨匠たち13 フィリッポ・リッピ」グロリア・フォッシ著/塚本博訳 東京書籍

上にある「ノッテ・エ・モナステーリ当局から通告」の内容の文書が下記になります。

フィレンツェ国立公文書館より

これもフィリッポのストーリーを創作中の20年ほど前に、フィレンツェ国立文書館に連絡し、現地に赴きもらったものですね。
場所や(地図にあるでしょうが)やり方は全く覚えていません。
当時グーグル翻訳もなかったからそのまま仕舞い込んでいました💦

今更ながら不安定な翻訳機能ですし、全てを訳す必要もないと思いますので、概要だけ上げます。

フィレンツェ国立公文書館



件名:フィリッポ・リッピに関する文書

フィリッポ・リッピに関するご要望の文書は……に保管されています。それは(略)(1461年4月30日)プラートのノッテ・エ・モナステーリの公証人で、サンタマリア・マルゲリータ 修道院の代理人でもあるピエロ・ディ・アントニオ・ヴァンノッツォに対して送られた秘密告発に関するもので(フィリッポは)修道女と関係を持ち、子どもを設け、夜間に秘かに修道院から連れ出され洗礼を受けたと告発された。この告発にはフィリッポ・リッピとスピネッタとの関係、そして彼女との間に生まれた息子(フィリッピーノ)についても言及されている。

この告発、ルクレツィアと妹のスピネッタの名前を間違えてます!


「チェッポの聖母」 プラート市立美術館 1452-53年

プラートは複合簿記を開発したというフランチェスコ・ディ・ダティーニ(1335頃-1410)の出身地としても有名です。 
上の絵の向かって左下赤い帽子と衣服の人物はダティーニです。
この頃とっくに他界しているので、何かを見て描いたのか、想像か分かりませんが。
この絵は聖人たちの肌の色合いが、フラ・アンジェリコに近いものを感じます。彫像的ですかね。

「幼子キリストへの礼拝と聖人たち」 プラート市立美術館 (1460年代後半)

では次回はこのスキャンダル含めプラートのお祭りについてや、私の創作の一部などを投稿する予定です。



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