母親に自分を分かってもらいたい気持ちと、 母親に喜んでほしい気持ちと、 この2つの葛藤の中で生きてきた。 共依存の関係にあることは前から薄々感じていたのだが、 昨日母親とレスバを繰り広げて、やっと彼女の本心みたいなものが聞けたとき、 ああ、母も一人の人間なんだという実感が湧いた。 過保護・過干渉だった母親が自分を見放した形になって、 動揺もしているのだが、一方では解放されたことに安堵を覚えている。 依存する関係からずっと抜け出したかったのだ。 彼女がこれ以上の接触を諦め
自分を生んだ偉大なる存在であるはずの、親。 その親が、自分より遥かにおつむが弱いのではないか、と気づいたとき、 すごくやるせない気持ちになった。 子どもというのは多かれ少なかれ親に愛されたいと願うものであり、 私は幼少期にその願いが満たされなかったがために、 大人になった今でも愛されたい願望を引きずっている。 ところが悲しいことに、どう試みても話が通じない。 有り余る私の感情をできる限り言語化してみても、 親の方にはそれを咀嚼する能力と、扱う視野の広さが欠けているのだ。
「どうして○○してくれなかったのか」 これは毒親育ちが共通して抱え続ける感情の一つであろう。 かくいう私もその感情を母親にぶつけ続けてきた。 父親は本当にどうしようもない筋金入りのモラハラ男だったから諦めていたけれど、 母親はデリカシーがないだけで、子どもに対して愛情があるのは確かそうだし、話せば分かりそうだったから。 ただ、私の求める答えを母親は持っていなかった。 「覆水盆に返らないので、そう言われてもどうしようもない」 の一点張りだった。 違うのだ。私はただ分かって