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空虚を救うのは何だろうか

読書感想文 『低地』ジュンパ・ラヒリ

小学生の時、初めて物語を書いた。それから大学生まで書き続けた。書き続けていると、わかってくるものがある。それは深い自己分析であり、自分の中にあるものと、ないものに対する理解だ。ジュンパ・ラヒリの作品を読む時、いかに自分の中に様々なものがないかを見せつけられる。描写の鮮明さと深度、媚のない正直な感情と理性。見えているものの面積が違う。

主人子のスバシュはインドのトリーガンジに生まれ育った。彼には活発な弟ウダヤンがいて、一心同体のように育っていった。ある時から、二人の道は変わっていく。スバシュがアメリカの大学に留学している時、ウダヤンは反政府運動によって家近くの低地で殺されてしまう。身重の妻、ガウリを置いて。スバシュは実家で肩身の狭い思いをしているであろうガウリと結婚し、渡米する。いびつでありながら夫婦として、家族として過ごす日々。ところが、娘が10歳を過ぎたころ、ガウリは家を出てしまう。

家族の背景にあるのは、インドの家にある風習や考え方、生活、習慣。目の前で夫を殺された女の絶望と愛について。死んだ弟の子供を自分の子として育て、妻だった人間を愛することについて。そして、愛せなかったことについて。

お見合い結婚が主流の1970年代インドにおいて、スバシュとガウリはお見合いでもましてや恋愛でもない結婚をする。すでにあらゆるものからはみ出た結婚だった。この結婚について娘はガウリに聞く。「自分たちで決めたの?」それにガウリは答える。「そうだね。そうだった。」

この「そうだね。そうだった。」に打ちのめされた。たったこれだけの言葉に、ガウリの全てが詰まっている。流されてきたかのように振る舞うガウリが、自分の決断であることを噛み締めた。本当は聡明で賢く自立心のあるガウリが、その運命によって深く傷つき、過去に捕らわれ、閉じこもっていた日々を自分の決断であると認めた瞬間。自分で選ぶことを躊躇しなくなる、その静かな合図だった。

ガウリはよくしてくれたスバシュと娘を捨てて家を出る。そこに、ある種の後悔は未練はあれど、しかしそれで良かったのだと全てを受け入れる。酷く勝手で、特に娘からすれば許されない行為。それでも、なぜかガウリを非難しきることができない。ウダヤンを失った彼女を、誰も救えなかっただけなのだ。娘さえも。

最後、スバシュはやっと平穏を手に入れる。これまで欲らしい欲のなかった彼は、娘との関係の中で、そして友人たちとの関係の中で、ウダヤンを失った苦しみをゆっくりと溶いていく。一方のガウリは、受け入れたようなつもりでいた罪の大きさと重さを知る。彼女もまた、1人で過ごす中でウダヤンを失った空虚との向き合い方を学んだ。ただそれは、娘の空虚を作ったことには変わりない。

それでも、残りわずかな人生の中で、きっとガウリも幸せを手に入れることができるのではないか、と期待してしまう。家族だからこそ理解できない心の奥底にあるわだかまりを、ずっと追ってきた読者だからこそ、ガウリのために祈りたい。本当にガウリを愛し、大切に思いながら低地に沈んだウダヤンの代わりに。

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