主義心情を保つことへのエール
読書感想文 『今昔百鬼拾遺 天狗』京極夏彦
大学生時分、関西に住んでいて、東京に進学した友人が遊びにきたことがあった。かつて共に愛読していた小説によく出てきたのが貴船神社と鞍馬山で、運動靴ですらないのに無計画に向かった。すでに何人か観光客らしき人がいたわけだが、みんなハイキング向けのそれなりの格好をしていた。まぁ、駄目なら引き返そうということで登り始めたのだが、難なく登れてしまった。運動系の部活なんて滅相もない運動音痴二人が登れた理由は一つしかなく、生まれ育った場所が山だらけで、山登りに慣れていたというだけのことなのだけれど、コンバースに肩掛けカバンで軽々登っていく私たちを、追い抜いたばかりのハイキング客がポカンとした表情で見ていたのは覚えている。とても馬鹿らしい話をしながら登っていた記憶があるので、ぜひ鞍馬天狗と勘違いしてもらいたい。
講談社から出ている<百鬼夜行シリーズ>の番外編に相当する文庫本が、講談社から『鬼』、角川から『河童』、新潮社から『天狗』とそれぞれ発行されたのは大変話題になった。<百鬼夜行シリーズ>の次作である『鵺の碑』はかれこれ10年発行されておらず、京極先生と講談社が仲違いをしたのでは、という噂も出回っていた。結局、この3冊をまとめた『今昔百鬼拾遺 月』が講談社ノベルズで発行されたのだから、まぁ、仲違いは解決したのだろう。<百鬼夜行シリーズ>のファンである母も、これで『鵺の碑』が出るぞ!と喜びながら『今昔百鬼拾遺 月』を手にしていた。
番外編3作の主人公は<百鬼夜行シリーズ>『絡新婦の理』に出ていた女学生、呉美由紀と、京極堂の妹である中禅寺敦子である。呉美由紀は『絡新婦の理』で友人や知人をたくさん亡くしており、ここにきてまた血なまぐさい事件に巻き込まれるのだから、不幸極まりない。ただ、本人は本人であっけらかんとしていて、なんだったら好奇心の赴くまま首を突っ込んでいるような様子であるから、それで良いのだろう。
『天狗』は美由紀が偶然仲良くなったお嬢様のなかのお嬢様 美弥子から、友人が高尾山に入ったまま行方不明になったことを相談されたことから始まる。見つからない友人と、見つかる別人の遺体。最終的には4人の行方不明者と2つの遺体が出てくるのだけれど、そこに絡んでくるのが旧態然としたお家騒動と、「天狗」である。
「天狗」は伝承によって善にも悪にもなる。誘拐をする天狗もいれば、ただいたずらをする天狗もいるが、その一方で山神として奉られているものもいる。今作の天狗は4人の女性を誘拐し、2人を殺している。さて、天狗はどうやって、なぜ、そんなことをしたのか、というのが大筋である。
ただ、今回の作品でそれ以上に描かれたのが、男尊女卑への強い否定である。本作のメインキャラクターはほとんどが女性で、しかも戦後間もない時代設定にして、かなり強い我をもった女性たちなのだ。特に美弥子は、その堂に入ったお嬢様言葉ではっきりと、「男というだけで偉ぶっているのはおかしい」と断言するのである。その言葉や理論は、今の時代にあっても間違いのないもので、痛快ではあるのだがいささか説教臭い。それでも面白いのは、美弥子のお嬢様言葉と、地の文で綴られる美由紀のツッコミのテンポが良いからで、これは京極先生だからできる手法でもある。
時代に逆らう、といのはとても難しい。ただ、立ち向かうべきときに立ち向かわなくては、また別の悲劇を生む。これは小説に限らず、歴史を遡れば例はたくさんある。立ち向かえずに逃げた結果、より強烈な悲劇が生まれることも、ある。いま、世界では差別に立ち向かう運動が再燃しているが、それに便乗して略奪を起こす者もいる。彼らの生活は苦しい。だが、目先の成果を求めて立ち回ることで、さらに自分たちの首を絞めてしまっているのではないか、というのが私の考えだ。こんな説教をされなくても、彼らもわかっているに違いない。ただ、立ち向かうのは、とても大変なことなのだ。
『天狗』は若い女性2人が、時代や常識に立ち向かっていく作品だ。世間や常識を飲み込めないからこそできる向こう見ずが、世間や常識を変えていくのだろう。長く生きれば、長いものに巻かれた方が楽な時もあるが、この2人から立ち向かう勇気をもらった。