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【鰹節コーディネーター 大塚麻衣子】 食が文化を繋いでいく希望を胸に、鰹節を届ける

撮影:松野貴則 「かつお節のタイコウ」で働く鰹節コーディネーター大塚麻衣子さん

あらすじ 

私たちの根底にある幸せ。
それを支えてくれるのはいつだって”食”である。

「食いしん坊の底力をナメちゃいけませんよ」

悪戯っぽく、そう話してくれた女性は
鰹節コーディネータ―・大塚麻衣子さん。

冗談めかして話す、その瞳の奥には熱い想いが確かに映っていた。

大塚さんは「かつお節のタイコウ」で鰹節の卸しや出汁取り教室を開催しながら、SNSなどでも発信を続けている。その本質的で、忌憚ない意見に多くの人々から支持を集め、フォロワー数は1万人を超える。

遠回りこそが、めんどくさいことこそが、”王道”

大塚さんの人生を紐解いていくと、こんな言葉が浮かんでくる。

大塚さんは、現代の大きな流れと戦っている。
均一化されていく日本の食文化、そしてその陰で失われていく郷土料理。

一度失われたら、もう取り戻せないかもしれない文化を守る現在の活動に至るまで、大塚さんは7年もの沈黙の期間を要した。

だからこそ、言葉に説得力が生まれる。

紆余曲折、七転八倒しても、
ひたすら前に進もうと足を出し続けた人生が
読者の皆さんへの応援になることを祈って。


鰹節を通して築き上げる信頼関係

撮影:松野貴則 鰹節コーディネーター 大塚麻衣子さん

”鰹節コーディネーター”って面白い名前ですよね。これはどういった経緯で名乗るようになったんですか?

明確に名乗り始めたのは3年前。食道具竹上さんの包丁コーディネーター・広瀬さんのお考えに出会った時からです。

広瀬さんは「庖丁は食と文化を繋ぐものであり、この庖丁という"料理を美味しくするのに欠かせない道具"を通じて人と繋がり、文化を伝えていくことや人の役に立つことを目指している」という信念を持っていらっしゃいます。私もそこに共感を覚えたんです。

日本の鰹節文化にも、背景・食文化・成り立ちがあるんです。その1つ1つにきちんと意味があって、それが全部繋がっている。

私たちは、あくまでも、その一旦を担ってるにすぎないっていうことを伝えたいと私も考えているんですね。

だから、確かに鰹節を売ってはいるけれども、そればかりをやっているのでは意味がないんです。

撮影:松野貴則 箱詰めされた鰹節が倉庫からビルの外まで香ってくる

それは”コーディネーター”という言葉に集約されているのでしょうか。

私はコーディネーターという言葉に”調整役”という意味も含んでいます。
料理人さんにはそれぞれ理想とする鰹節がある。でも、どんな鰹節が欲しいのか、明確に言語化出来ているお客様は、そう多くありません。

「うま味の強い鰹節が欲しい」と一言で言っても、料理人さんご自身の基準でしかないので、もっと香りが強いのがいいのか、もっと旨味が強いのがいいのか。

それは昆布出汁を主体にしてる大阪の料理人さんなのか。
水を大事にしてる京都の料理人さんなのか。
鰹出汁をベースに全体の調和を図る東京の料理人さんなのか。

同じ言葉を使っていても、求めている鰹節は大きく違ってきてしまうんですね。

だから、そこのお客様が欲しいものと目利きの選ぶ良いものを調整する役割を担うという意味を込めて、コーディネーターという言葉を使っています。

この調整をするために、お客様から詳しく聞いたり、使われてる鰹節を実際に味見させてもらったり、匂いを嗅いだりして、アタリを自分の中で作っていく。

そして、タイコウの鰹節の中で、
コレなら喜んでもらえるんじゃないかという鰹節をお渡しするんです。

「調整人であり、案内人である」というのが理想の在り方なのです。

「美味しい」を決めるのは、土地に根付いた食文化と味覚

撮影:松野貴則 タイコウの社長さんが一つ一つ袋詰めしていく

大塚さんの中で味の情報の範囲を広く持つことが大事なのでしょうか。一つの「美味しい」という枠にはめるのはなく。

美味しい美味しくないというのは、あくまでも主観でしかありません。

それを深く分からせてくれた出来事がありました。

とある鰹節の産地にお伺いしたときのことです。そこでは昔から地元の鰹節屋さんの商品を使ってらして、料理店さんも当然、地元の味を大事にされてらっしゃるんですね。

そこにうちの鰹節を持って行ったんです。

この時も私の中でアタリをつけて、この鰹節だったらある程度フィットするんじゃないかなと思って、お渡ししました。

しかし、それが最初、料理人の方のお口に合わなかったんです。

その当時、ウチの美味しいと感じる基準は、えぐみがなく、酸っぱくもない、そして苦みも臭みもない。つまり、一言で言えば、雑味が出ないことだったんです。

ところが、その地域では、昔からウチで言う酸味がある鰹節をメインにしていたんですね。 その地域ではそれが当たり前のものとして受け入れられていた。地元の人たちは、そこも含めて”味”として楽しまれてた。

そうなった時、うちの鰹節だと「物足りない!」って言われてしまったんです。

その地域で昔から暮らしている人たちにとっては、雑味も「美味しい」の基準の一つに入っていて、 それも含めての味の厚みだと感じているのだと、その時初めて気づかせていただきました。

「美味しさ」はその地元の人たちの経験であったり、 食文化であったり、そういったものに大きく左右されてしまう。だから「美味しい」っていう考え方で伝えちゃいけないんだ。

そんな風に、自分の中の考え方がガラリと変わった瞬間でした。

撮影:松野貴則 タイコウさんが信頼を寄せる生産者ヤマサン・宮下さん

地方によって、「美味しい」の感覚が違って当たり前であるという気づきですね。

これは突き詰めていくと、今の食文化が均一化されている問題にもつながると思います。

今、全国で鰹節と昆布の出汁ばかりが主流になっていますけれども、本来、各地にそれぞれの味が根付いてるはずなんです。四国の香川や熊本では”いりこ出汁”が食文化として根付いていて、これまではそれがベースでした。

しかし、今、そのいりこ出汁を使う人ってすごく減っていて、いわゆる顆粒出汁とか液体出汁、白出汁を使う人が主流になってしまっている。そして、いりこ出汁の味わいを嫌だっていう人たちすら増えてしまっている。

おそらく、同じような出来事が全国各地で起きているのではないでしょうか。

確かに鰹と昆布のお出汁は癖がなくて、懐も広いんです。どんな料理にでも使いやすいと思います。ただ一方で、私はその郷土の味に根付いた料理が作られていくべきだとも考えているんです。

そこに私の活動への葛藤があります。

私の仕事は鰹節の良さを広めること。しかし、私が鰹を広めることが、本来残していくべき日本の食文化の根底を無くしていく一助にもなっているのではないか……。

私のやっている仕事は本来残さなきゃいけない文化を潰してしまう可能性も秘めているんです。

だから、 全国で出汁取り教室に行く時よく話すのは、あくまでも各地それぞれに郷土料理や出汁があるはずだから、まずはそちらを大事にしてほしいということです。

その上で、たまに鰹節を使いたい時があったら、出汁をひいて頂けたら嬉しいなと。

ルーツはおばあちゃん家のトマト

撮影:松野貴則 松野家の水出汁

そこまで食文化に魅せられた、大塚さんの食事への興味のルーツはどこにあるのでしょう。

どうなんでしょう。ルーツといえるか分かりませんが、私の家庭は食事にとても気を使っていました。

私は父方の祖母と同居してたんですけれど、その祖母が胃を切除したんですね。そうすると、消化がすごい弱くなってしまい、食べられるものも減ってしまう。

しかし、お医者さんからは免疫力を上げるために、お肉をとにかく食べさせてって言われてたんです。ただ、祖母はお肉が嫌いな人だったんですね。

魚なら食べられるけれども、どちらかといえば、お豆腐などを好む人でした。そこで、母が鶏のひき肉とお豆腐を団子にした春雨スープをよく出していたんです。そのお料理は今でも記憶に残っています。

あと、これは一緒に住んでなかった母方の祖母との思い出です。

自分の庭で田んぼと畑をやっていて、そこでサツマイモがたくさん取れたんですね。昔のサツマイモなので、すごく甘いわけじゃなくて、どちらかといえば素朴な味わい。

それを夏から秋の時期に収穫してきて、もち米と混ぜたぼた餅をよく食べていました。

撮影:松野貴則 桜

では、今で言うオーガニック食材が当たり前のように身近にあったんですね。

私、元々ひどいアトピー持ちだったんです。だから、市販のお菓子も一般の ご家庭ほどたくさん食べさせてもらえなかった。親に黙って駄菓子を買って帰ることもありましたが、食べるとすぐ 痒くなるんで、親にはすぐバレてしまうんです(笑)

それで、 うちの母や祖母が、比較的食べやすいおやつを色々作ってくれていました。それは、野菜などが元々持っている自然の甘さを活かしたものでした。

庭で採れるのは完全な無農薬で、お野菜は比較的良いものを食べさせてもらっていたのだと、今になって思います。だから、よく虫がついていたりしましたけどね(笑)

あと、私の記憶にはないのですが、よく母が教えてくれるエピソードがあります。

お爺ちゃん家で育てたトマトと市販のトマトが両方置いてあったら、あんたはいっつも、お爺ちゃんのトマトを丸かじりしてたねって(笑)

レタスでもなんでもそうなんですが、包丁で切られた野菜は金っ気が付いて食べられなかったんです。だからなんでも丸かじりで食べていたので、変な子供だったと思います。

親からも、あんたはこれしか食べないんだからってよく怒られてました。

食の力を気づかせてくれた動物医療現場での経験

撮影:松野貴則 まっすぐみつめる拾われ猫

味覚が鋭い大塚さんがタイコウに出会えたのは、まさに運命のように感じますね。

実は、全然そんなことないんです...…。

東京に出てきたのは専門学校に進学する18の時ですね。その当時は、動物病院の看護師を目指していました。

そこで寮生活をしながら、動物のトリミングや動物看護について学んでいたんです。その後、5年間、動物病院で働きました。トリマー兼動物看護師として。

そもそも獣医になりたいと考えていたんですけど、色々調べていく内に、獣医は安楽死を選ぶ必要があったり、あとは治験や学習のために犬の骨を折ったりすることがあると分かったんです。

それが私にはどうしても耐えられなくて……。

もちろん、手術の練習をしたり、実地で学ばなければ、獣医にはなれないという事情も分かってはいたんですが、心情的に受け入れられなかったんですね。それで、動物看護の道を志すようになったんです。

今と違って資格にはならないので、親とは散々喧嘩しましたけど……(笑)

撮影:松野貴則 仕事に勤しむ大塚さん

動物看護の道からどういう流れで、食の道に進まれるのでしょうか?

それは、あるワンちゃんと飼い主さんとの出会いがきっかけでした。

ちっちゃいダックスを飼われている飼い主さんがいたんですね。最初は、ワンちゃんも飼い主さんも元気で、定期健診のためにいらしてたんです。

ただ、その飼い主さんがある時、心の病になってしまいました。

外に出られない飼い主さんを、ワンちゃんはずっと寄り添っていたそうなんです。心配だったんでしょうね...…。そのうち、ワンちゃんも元気がなくなってしまいました。

数日間、病院で預かるとすぐに元気になるんですが、お家にお返しすると、また具合が悪くなってしまう。

当時の動物病院で行っていた治療は西洋医学に基づく治療。つまり、お薬で病を治すということなんですね。ただ、動物たちの中には、免疫疾患や精神的な病で体調を崩す子たちも沢山いました。

そのことが私の中でずっと引っかかっていったんです。

そして、自分の人生を振り返った時に、食の持つ力を改めて再認することになりました。

先ほどもお話ししたように、私は重度のアトピー持ちでした。それが改善されていったのは、親が私の口にする食べ物や水を良いものにしていくれていたから。

野菜なら無農薬だし、水は整水器に通してアルカリ性のものを飲ませてくれていました。三兄妹、皆ひどかったアトピーも、大人になると自然と治っていったんです。

もちろん食や水によって、身体によい影響を及ぼすのには時間がかかるけれど、確実に良くなったという実体験があったんです。そこから動物医療とは違った角度で、食への知識と経験を増やしていきたいと自然に考えるようになりました。

そうして動物病院を退職して、25、6歳の時、和食の料理屋さんに勤めるようになりました。

料理人としての修行を7年経験し、タイコウへ

撮影:松野貴則 タイコウさんの看板

全く異業種への転職。しかもそれが本格的な日本料理のお店となると、
年齢的な壁もあったのではないでしょうか?

女性が少し年齢を重ねて、料理人の世界に入ることは決して珍しいことではないですが、本格的な和食をやりたいっていうのでは……そうですね。少し事情が違います。やはり難易度は高かったと思います。

そして、最初に入ったお店が、いわゆるブラックな職場で、本当に大変な思いをしました(笑)

何より私を驚かせたのは、客単価8000円以上のお店だったにもかかわらず、お出汁に市販の顆粒出汁を使っていたんですね。

もちろん、お客様が満足するのであれば、一概に否定はしません。ただ、私としては、それじゃ困るわけです。料理の技術は色々教わりましたけど、肝心のお出汁に関しては何も聞けなかったので、どうしようかな……と。

そこから、独学での勉強が始まりました。図書館から本を借りたり、本屋で買ったり、ネットで色々調べたりして、そこから築地のお店に足を運んで、一通り全部お店を回って、実際に鰹節を試してみるんです。

最初はどれだけ鰹を引いても、思ったような旨味が出せませんでした。

それで、その当時タイコウの社長がやっていた出汁取り教室に行ってみることにしたんです。そこで、やっと自分の疑問が解けました。

その時の出会いが衝撃的で……。そういった出来事や、色々苦しい職場環境も後押しして、最初の日本料理のお店は辞めることにしました。

撮影:松野貴則 タイコウにて丁寧に干されている荒節

色々な苦い経験や偶然の出会いから、タイコウで働きたいという想いが湧いてくるんですね。

そうですね。日本料理のお店を辞めたタイミングで、タイコウが求人を出していたんです。そこにさっそく申し込んで、会いに行きました。そしたら社長が急用で不在だったんですね。

日を改めて伺ってみると、この仕事は体力仕事だから、女性では続けづらいと考えていたみたいで、「ちょうど別のお店で、料理人を募集しているよ」って、別の飲食店を紹介してもらいました。

体よく断られたんだなとその時は思いました(笑)

そして、そのお店に行ったら、採用して頂けることになったんです。そのお店で、料理人として働きながら、出汁の料理教室を担当することになりました。

そこで2年経験を積んで、また別の和食のお店で料理人として働いたのですが、料理人の仕事は朝から深夜まで働くので結構ハードでした。それで、身体がしんどくなり始めて、ドクターストップがかかってしまったんですね。

それでもう続けられないなと。

タイコウで働きたいという想いはあったんですが、その時も募集はなくて、いつかタイコウで営業や事務員をやらせていただける日の為に、そのスキルを身に付けようと、また別の会社に営業アシスタントとして入りました。

そこで見積もりの作り方や取り次ぎの方法を学んだんです。

タイコウに務めたいと思った動機

撮影:松野貴則 力仕事に勤しむ大塚さん

そこまで粘り強く、タイコウで働きたいと思えたのは、どんな魅力からなのでしょうか。

今、自分でもここでの仕事をやってみてよく分かりますが、本当に力仕事なんですよ。鰹節20キロの箱を運んで、暑い日も寒い日も干さなければいけない。男尊女卑ではなく、女性が続けるには大変な仕事なんですね。

私も女性がやりたいって来てくれたとしても、素直に喜べないと思います。大変な仕事だよって伝えてしまうでしょう。

ただ、タイコウの魅力を挙げるとしたら、近海での一本釣りという漁法、鰹節の作り方、目利きの熟成など、そのプロセスに社長が、とことんこだわっていたところです。

私、初めての出汁取り教室が終わった時に、社長のもとへ挨拶をしに行ったんです。「私、料理人です!」って。そしたら「料理人は鰹のことなんか、何もわかってねぇんだよ」って言われてしまって。

若いながらにカチンと来てしまったんですね(笑)
もちろん口には出してないんですが、
「このクソおやじを見返してやる……」と燃えたわけです。

タイコウの鰹節は、品質が本当に良いので、沸騰させても雑味や臭みが出ません。そういう鰹節が他所のお店でも売られているだろうと、そこから色々と試してみる日々が始まりました。

いくつもお店を回って、ある時ようやく見つけたんです。本当に美味しい鰹節を!散々探し回った挙句に見つけられたので、「ほら!やっぱり他にもあるじゃん!」って、本当に喜びました。

でも詳しく聞いてみたら、実はそれ。
タイコウで作られた鰹節だったんです。

「あぁ。やられた……」と(笑)

料理の仕事を経験していたことで、私自身、料理の最後の決め手になるのは、食材、魚の鮮度であるということが身に染みて分かりました。

近海の一本釣りにこだわるのは、科学的にも理に適っていて、それは社長と生産者の宮下さんが手探りの中、試行錯誤をして辿り着いた答えだったんですね。

そういった社長の姿勢や取り組みに改めて感動したんです。

ある時、社長に飲みに連れて行って頂いて、色々話を聞かせてもらったことがありました。そしたら、後継者がいないという話になったんです。

この業界自体かなり閉鎖的で、そもそも仕事自体が特殊なので、知名度もありません。また当時は売り上げもカツカツの状態で、良いものを作っている自信はあったのに、どう売ればいいのかが分からなかったそうなんですね。

私が3店舗目の料理店に務めている時、「やっぱり鰹節って凄いんだよなぁ」っていうのを再認識して、このままタイコウが潰れたら嫌だなって想いがふつふつと湧いてきました。

真剣にこの仕事を残してきたいって思うようになったんです。

そして、営業の会社を退職して、再度タイコウのところへ行き、社長を口説き落としました。散々、断られましたが、何度も何度も話して、ようやく雇っていただけることになったんです。

その時すでに、タイコウと出会って、7年くらいが経過していました。

撮影:松野貴則 タイコウの仕事場は整然と片付けが行き届いています

念願のタイコウで実際に働けるようになって、どうでしたか?

社長から3か月間、試用期間としてチャンスを頂きました。そこで契約を取って、食いぶちを稼ぐから、それが出来たら正式に雇ってくださいってお願いしたんです。

社長も最初は全然信じてなくて、「できたらな」って言われたんですね。そうしたら、10件契約を取っちゃったんです。私があまりにも契約を何件も取ってくるから、「え?」ってなって(笑)

「なんでそんなに契約取れるの?」って。

従来の営業の仕方は一つの鰹節を各料理店さんに売っていたんです。
でも私がやったのは、料理店さんの求める味に合わせて鰹節を選ぶことでした。最初にお話ししたコーディネータ―としての鰹節の売り方です。

実は一番最初にその営業がうまくいったのが、大阪の老舗割烹の料理屋さんだったんですね。普通だったら絶対に相手にしてもらえないんですけど、本当に運の良い出来事が重なりました。

そこで私は、どんな味や香りの節を希望されているのか、そして、良い鰹節がどういう香りで味なのかを細かく聞いたんです。そういう風に聞いてくる人はあまりいなかったようで、興味を持ってくださり、3本候補を出させていただくことになりました。

私の中でそのうちの一本にアタリをつけていたんですが、まさにそれがビンゴで、無事にお取引させていただくことになったんです。

そういうことの連続が今に繋がっています。

鰹節を売るのではなく、価値と情報を届ける

撮影:松野貴則 脂が染み出てくる荒節

料理人の方たちが鰹節を選ぶ際に大切にしているのは”生産者さん”です。
そこでランク付けがされている。そのランクの差は生産技術によって出てくるという考え方が一つあるんです。

それは間違っていないと思います。

ただ、同じ技術のところで、何に差が出るかといったら、やはり原料となる魚の鮮度や品質になるわけです。

だから私は、なぜこの鰹節を選んだのかを論理だてて、鰹節と一緒に情報をお渡ししようと思いました。そこにウチとお取引ができるかどうかは関係ありません。

自分の好きな鰹節を正しく把握すれば、その料理屋さんも判断材料が増えますよね。料理人の好みから、鰹節を選ばせて頂いて、しかも情報も伝える。

ただ単に鰹節を売るのではなくて、コミュニケーションを重ねることで、自分の好みや出汁のポジションが分かるようになる。これが大切なポイントなんです。

だから必然的に、もう一度話を聞きたいとか、単なる購入先ではなくて、「良い刺激を貰える会社」という関係性になってくるんですね。

そして、その鰹節が生まれるまでのプロセスもお話ししています。

大量生産の鰹節と、一つ一つ丁寧に作る鰹節の何が違うのか。そして、それが最終的な味にどう影響を及ぼすのか。そういうことが肚落ちして分かっていただけるんですね。

そうすると、単価の高い鰹節が、なぜそれくらいの価値があるのかが分かっていただける。だから皆さん、”値切る”ということをしなくなります。それは生産者さんの努力や苦労を料理人の方たちも知って、よりリスペクトが生まれるからなんです。

ウチは鰹節を売ることしかできません。

鰹節を作る・味を決める大部分は生産者さんに委ねられている。だから、その価値を最大化させるのが、私の役割なんです。

もちろん大量生産をする生産者さんが悪いって言っているのではありません。安く買えて店頭に並ぶ沢山のかつお節があるから、今も鰹節が世の中に広まっていると思うんですね。これは本当にありがたいことです。

一方で、高いから買わないって一概に切り捨ててしまうと、その土地の食の伝統や文化が失われていってしまうと考えているんです。そこを残していくことも考えていかなければならない。

この仕事は、そういった責任も担っていると考えるんです。

撮影:松野貴則 

鰹節を使う人たちが減っていっている中で、大塚さんがやられている活動は本当に大事な部分を担っていますね。

本当に必要とされているのであれば、鰹節が一回無くなったとしても、もう一度、10年後、あるいは数十年後に復活すると思います。

でも、一度消えてしまったら、蘇らせるのに相当の苦労が必要になりますよね。それは、酒蔵さんやお醤油の蔵でも同じこと。

種火さえ残っていれば、何とか出来る。どんなに細々とした商売になったとしても、誰にも食べられなくなったとしても、私が残せる限りは残し続けたいんです。

だって、美味しいものを食べたら、みんな笑うじゃないですか。

それこそが”幸せ”だと思うんです。美味しいものを食べながら怒れる人はいませんよね。やっぱり人は笑っている方がいい。幸せな方がいい。

どんなに仕事で苦しくて辛い思いをしても、一杯のビールで人は幸せになれる。本当に美味しい食事は人々を幸せにできるんです。

皆さん一人一人が感じる「美味しい」は今日の幸せに直結していく。

そのカギを握るのは、先ほども話しましたけれど、やはり地域に根差した食文化や郷土料理だと思うんです。

だってそこには、人の想いや精神性が流れているはずだから。

幸せを求める食いしん坊の底力をナメちゃいけませんね(笑)

プロフィール

撮影:松野貴則 

かつお節コーディネーター 大塚麻衣子さん

和食料理人として6年間働いたのちに、営業技術を学ぶため、1年間会社員として営業アシスタント事務を担当。その後「かつお節のタイコウ」で働き始める。

料理人としての経験や「かつお節のタイコウ」の理念を大切にしながら、
鰹節コーディネーターとして活躍している。

料理店に合った鰹節を選定し、一つ一つ丁寧に届けながら、
食の在り方や食文化についてもXで発信をしている。

全国で開催される出汁取り教室は人気を博し、
多くの人々に鰹節や郷土料理の魅力を伝える活動を続けている。

あとがき

鰹節コーディネーターである大塚麻衣子さんの言葉を聞いていて、
心底感じるものがある。

それは「泥臭く生きる姿がいかに美しいか」ということ。

おばあちゃんのトマト、動物病院での経験、料理人としての苦労、そして、7年というタイコウに辿り着くまでの努力が
その存在と言葉を輝かせている。

7年をかけて、一つの会社に務めたいと奮闘できる人はそう多くない。
働くことを夢見ながら、紆余曲折の末にたどり着いた「かつお節のタイコウ」という商店。

その場所にお邪魔させてもらうと、社長と大塚さんの息の合ったやり取りは、血縁を超えた繋がりを感じる。

それは実の娘のようでもあり、
信頼できるビジネスパートナ―でもあり、
何とも不思議な関係性だ。

そこに、私は前世から繋がる絆のようなものを感じざるを得ない。

大塚さんの話を聞いた帰り道、私はつい自問してしまった。

何気なく僕たちは食べ物を口にしていて、
大量生産された安い商品をなんの抵抗もなく買っている。
今日食べた料理の向こうに、
生産者さんの顔を思い浮かべることが僕はできるのだろうか……。

美味しい食を届けたくて、生産してくれている人たち、
苦難の末により良いものを産み出し続けている人たちがいる。

当たり前のことだが、
多くの生産者さんの苦労や継続があるから、
私たちは美味しいものを食べられる。

この恵まれた日本という国に生まれて、
食に苦労しないで美味しく、楽しく
当たり前に生きられることがいかに幸せか。

食に対する感謝が一つ一つ増えていくことで、
その土地の郷土料理や食文化の未来が繋がっていくのかもしれない。


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