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【映画感想】トップガンシリーズ

はじめに


いまさら青春もへったくれもないもんだと思う私だが、いまさらながらにトップガンシリーズを視聴した感想録がこの記事だ。
世に数多ある青春物語の大半は、構成上の承転部分が青春時代の話だけで成立すると思う。きっとそういうものでないと、青春の輝きは鈍く摩耗してしまうはずだ。ただ、人生は青春だけでは成り立たない。だから青春物語における成長や恋愛というモチーフは、フィクションとして楽しめる。
トップガンもまた、表面的には青春物語であるように感じた。ただこの作品においては、青春の傍にぴたりと寄り添う死が肯定される。けれど喪失とは乗り越えがたい苦痛である。それならば、過去が肯定されていたのか?
私にとってのトップガンシリーズは、死の痛みをともなう青春物語であるとひとまずは言語化したい。

BGMと陽炎、による衝動


トップガンの導入は狂騒に入り込む時間だと思った。
失われつつある空中戦術の訓練に特化したパイロット養成学校《トップガン》の説明文から、静かにはじまるハロルド・フォルターメイヤー「トップガン アンセム」と排気音がじりじりと体を焼く。夕焼けと煙が溶け合う陽炎という夢幻的な空母のブリッジの空間で、着艦/発艦する戦闘機の隙間をあわただしくも献身的に動くクルー。そして灼熱を象徴するかのように大きなエンジン火を噴き、発進していく戦闘機の鋭利さ。突き抜けていく轟音が耳と頭を揺さぶり一瞬で遠ざかる。そこにケニー・ロギンス「デンジャーゾーン」が、リズミカルで奮い立つような低音と高音を織り交ぜて、戦闘機の力強い姿と危険に隣り合わせでありながらポップなクルーの姿を後押しする。
やがて映しだされた洋上の航空母艦における人々へと視点は移行する。OPはクルー・着艦・発艦・空母・戦闘機下腹部のカットをリズムよく多用している。また刺激的なBGMと陽炎がのぼる灼熱の甲板を背にした空間はかっこいいと思わせるものの、一瞬たりとも落ち着かない。とはいえ、甲板は仕事の秩序によって守られている。OPのBGMと陽炎によって掻き立てられた衝動は空へと向かう。
艦内へ視点を移した時、はっと目が覚めるかのように死との距離感の違いを感じた。空母の内外における職務の雰囲気はがらりと変わり、甲板と管制の立場が対比となって、外で動き回る危険さが克明だと思った。その後、こうした空間の違いを描きながらもまだ登場していなかったコックピットのパイロットへ、接近中の国籍不明戦闘機に接近しろと指令が伝わることで、物語の主人公たちが描かれていく。
主人公”マーヴェリック”は相棒”グース”とともに高い操縦技術を持ちながらも素行不良が目立つ、狂騒的なキャラクターだ。前述の国籍不明機MiG-28を追い返すことに成功するも、戦闘を煽るような空中戦に付き合わされた僚機の飛行士”クーガー”を恐慌状態へ追いつめてしまっていた。捨て身の飛行を繰り返すマーヴェリックは追われるようにして、空中戦闘機動を学ぶためにトップガンへと派遣される。
標準的な規律を目指す軍隊にあってマーヴェリックの行動は、その立場にそぐわない破綻を周囲にふりまくのだ。そうでなくとも、戦闘機コックピットという命をかけざるをえない不安定な場所で職務を遂行しているのだから、通常は死を連想させる言動が慎まれてしかるべきだと想像する。マーヴェリックは恐れ知らずとはいえ、MiGのパイロットに対してFサインを出したりグースにポロライドカメラで撮影させたりと、常軌を逸した幼稚さがある。
死の危険が間近にありながら、そうした行動に躊躇がないのは恐れ知らずではなく死を忘れているか、わざと近づこうとしているかであろう。恐慌状態のクーガーを必死で先導して帰艦させたことを考えると、死を忘れているわけではなく、搭乗によって死へ近づこうとしているのだと思う。
すなわち彼は、一般的なパイロットとは反転した感性によって狂騒的な言動を抑制できないのだ。してみると、トップガンは狂騒に陥っているマーヴェリックの心を描く映画だということになる。
だからマーヴェリックの狂騒にトップガンのOPはぴったりだ。彼が彼自身の狂騒とどのように向き合うのか?という物語を描く上で、きれいに合致していると思った。

語られるトラウマ


マーヴェリックの心は物語中盤、ひも解かれはじめる。彼が恋をした相手でありながら《トップガン》の教官でもあったシャーロットとの食事会後、くだけた雰囲気の中で流れるオーティス・レディング「どっく・オブ・ザ・ベイ」を聞き、ワインに酔ったような口調で両親の話を皮切りに、彼自身の言葉によって過去を語る。この独特な雰囲気は、心理士と患者といった構図で、お酒で少し紅潮した頬がにこにことし続けているマーヴェリックの表情と対照的に、淡々と両親が故人であることを漏らすちぐはぐさが物悲しい。
64年11月5日F4で飛行中だったパイロットの父親について操縦ミスによる行方不明と説明されたが、父親は最高のパイロットであったと自信を持って答えるマーヴェリックはそれを受け容れていない。また実際には機密情報扱いである真相は、上層部にしか把握されていない。その説明では喪失の苦痛が癒えないのだ。真相が謎のまま死別を受け止めなければならない場合、その過去は親族にとってトラウマとなるであろう。同時に、現実として受け止められなければ待つのは自身の死でしかない。すなわち、言葉にしたくともできないアンビバレンスな物語を抱えたまま、宙づりにされて生きているのがマーヴェリックという人物だった。
したがって、彼がF-14に搭乗し、空を飛ぶのは、父親の喪失の真実を明らかにしようとする行為だった。それは搭乗による死とトラウマに近づく苦痛が生まれる。それではシャーロットの前で語り、彼は過去を乗り越えたか?それはできなかった。
その真相に近づくため無謀な飛行をするのかと尋ねたシャーロットに、マーヴェリックは肯定する。それは無計画に等しいアイデアだと思うが、マーヴェリックにとってはトラウマ=過去=死別の真相へ挑み続けることしかできないことを示す。現状乗り越えていないということであり、真相を言語化できないまま場面が移る。
そうはいっても、語られない過去は過去になっていない。彼が抱えているのは、未明状態の現在と言うべきだと思う。そのような現在は夢か幻である。時間軸から離脱して拡散する、想像だけの世界観である。そういう世界観に囚われている彼は、自らの人生を考えて選択できない。シャーロットとの関係が進展しても、昇進によってワシントンへ異動となった彼女とはあらかじめ別れが用意されている。その出来事に対して、彼は無力だった。

死別の相対化


恋愛の一方で、教官バイパーとの実践訓練によって、マーヴェリックとグースは”アイスマン””スライダー”ペアと成績トップ争いを繰り広げていた。プライベートの輝きが強くなるほど決着のついていないトラウマへの執念が濃厚な陰影となって映しだされる。そんな中、アイスマン組僚機との訓練中に発生したジェット後流によって、操縦不能となったマーヴェリック組は緊急脱出を試みたが、脱出の勢いそのままキャノピーに激突したグースは命を落としてしまった。
気を落とすマーヴェリックに声をかけたバイパーは、軍人として避けて通れぬ道である以上グースの死を忘れろと告げる。その言葉で示したのはトラウマを相対化する、という道であろう。しかし父親の死を忘れられない彼が、ましてともに命を預けていたグースの死を忘れられるはずもない。彼にとってグースの死は、父親の喪失に並ぶ事件であったはずだ。だから彼は《トップガン》卒業式の前日、バイパーの自宅を訪ねて死別の真相を確かめる。そうでなければ現実自体を受け容れられなくなったはずである。
この時、ようやく死別の真相をマーヴェリックは理解する。父親もグースも、等しく他者の喪失という過去となり、喪失した自分自身との出会いが訪れる。未明状態の現在がようやく言語化されたおかげで、トラウマを過去にして、狂騒状態と和解した。
その上でマーヴェリックはバイパーから、翌日の卒業式に出席するか降りるかと選択を突き付けられる。それは海軍で飛ぶかやめるかという意味であろう。つまり彼は自ら現実の生き方を選ぶ必要があるということだ。その結果、マーヴェリックは卒業式に出席した。彼はもう、自分で選択することができる。
しかし飛ぶことには痛みや恐怖が伴う。狂騒による飛行ができなくなったマーヴェリックは、それをありのまま受け止めるしかない。そこに葛藤が生まれる。彼が卒業式に出席し、その場で任務を受け取ってしまった。そうである以上、飛ぶしかない。飛んだ彼は、葛藤を乗り越えることで生きる道が開けるはずだ。最後の飛行シーンとなる国籍不明機とのドッグファイトにおけるスピード感と緊迫感は、まさに決死であり、死ぬかもしれないが同時に生きたい/生かしたいという意志に満ち溢れた場面である。戦闘機のアクションであればこそ、その意味が鋭く明確だと思った。
私はトップガンについて、特別な出来事であった死を、言語化によって相対的な喪失とし、現実の生き方を選んでいく姿を描いた物語だと思った。語られなかったトラウマは未整理の現在であり、語るきっかけを得たトラウマは過去として整理されていくのだと思う。
だからこの作品は成長物語ではない。成長は敗北や勝利を必要とするが、マーヴェリックに必要だったのは心を言語化する過程である。成長の構図こそ訓練という形で表現されるが、その仮構は彼が自身の心を紐解くきっかけなのだ。だからトップガンは成長物語ではなく、宙づりから死へ、死から生へ戻る、帰還の物語というべきだと思った。このようにトラウマから現実へ向き合うマーヴェリックの物語は、人生上で接する選択の一つとして位置づけられるはずで、普遍性がある。そこが面白い。

アイスマンの情熱


トップガン公開から36年後に公開された映画マーヴェリックは、セルフパロディとして成立している面もある。それがトップガンにおける面白さを掘り起こすとともに、OPはきれいな導入として現代を生きるマーヴェリックの姿を描くのに役立っていると思った。かつて生きることへの帰還を果たしたマーヴェリックは、昇進を拒み続け最新鋭の超音速飛行機《ダークスター》のテストパイロットとして生きていた。しかし試験飛行で無茶をして《ダークスター》を空中分解させたせいで開発計画の凍結が決まり、極秘任務適正パイロットを養成するために《トップガン》での教官を務めるよう申し渡される。彼はそこで、再びトラウマに向き合うこととなる。
映画マーヴェリックでの彼は、グースの息子であり訓練生パイロット”ルースター”と険悪な関係にあった。後見人としてルースターの海軍志願書を勝手に破棄したことや父親の死はマーヴェリックに原因があったのではないかということから、ルースターは彼を恨んでさえいたのだ。マーヴェリックは再び、言語化できない過去と向き合う必要があった。しかしその意味は、青春物語であったトップガンからすると、大きく変容している。言語化できないというよりも、しないという選択の結果であり、その理由は新たな関係性における必要な物語だからである。それでもグースの死が、息子のルースターという形で責めたてると考えれば、この死別もまたトラウマなのかもしれない。
ライバル関係のハングマンから父親の死についてけなされたルースターは彼と喧嘩に発展しかける。ルースターのことで頭を悩ませるマーヴェリックは、それまで現場主義を貫く自身の背中を後押ししてきてくれたアイスマンと面会する。アイスマンの言葉は私の心を焦がした。
前作ではライバル関係にあった二人だが、《トップガン》での訓練、そして国籍不明機とのドッグファイトで共闘した仲間でもある。なにより敵対してこそいたものの、ビーチバレーに講じたりグースの死に対してもがくマーヴェリックへ慰めの言葉をかけたり、アイスマンはそのコールネームに反して情熱を秘めた青年だった。年を重ね、昇進を重ねながらも、アイスマンの情熱は衰えていなかった。全身にガンが転移してしまい余命いくばくもなく、力なくタイピングして自動読み上げ音声で語らう姿は痛ましいが、固く抱擁するマーヴェリックとアイスマンの姿には青春時代を超えて、友情を培った年月の長さを感じて胸が熱くなった。
彼はマーヴェリックの悩みに過去は水に流せと助言した。その言葉はかつてのバイパーに重なる、導きを与える役割だ。マーヴェリックは訓練生の関係を、かつての自分たちに重ね合わせて、ビーチバレーをさせてみる。アイスブレイクを通じて無邪気に友好を深める彼らを見つめ、マーヴェリックもにこやかだった。さわやかな筋肉博覧会とそれを眺める側になったマーヴェリックの対比が、前作から移り変わりを感じて懐かしくも儚い気持ちになる。
アイスマンは《トップガン》におけるマーヴェリックのライバルだった。お互いに勝気で首席争いをしていた間柄だからこそ、互いに主張を曲げなかった。ビーチバレーに講じる相棒を含めた四人の、ぎらぎら眩しい若者たちの筋肉博覧会――実際にいくつかのポージングを決めていた――には笑ってしまった。軍隊的な健康で引き締まった肉体の誇示が露骨なグラビアとなっており、肉体という共通言語の交流で互いの能力を認め合うという図式は、輝かしかった時代の賛美にしか感じない。それが露骨であればあるほど笑いを誘った。河川敷で殴り合った不良と不良が互いの実力を認めて厚い友情で結ばれるような雰囲気といえば、きっと笑いの理由は伝わるはずだ。
しかし肉体はどうしようもなく枯れるものだ。だから映画マーヴェリックにおいて、パイロットとして衰えを知らないマーヴェリックであったとしても、同じ時代を生きた人物までもがそうではない。アイスマンは死へ赴き、マーヴェリックは現世を生きる。そういえば、映画トップガンにおいても守りに堅い飛び方のアイスマンと攻撃的な飛び方のマーヴェリックは対称的だった。そうしてみるとアイスマンとの仲は、グースともバイパーとも違う、片割れのようだと思う。
面会のシーンで、抱擁を交わしたアイスマンはマーヴェリックにどちらがパイロットとして優秀だったかと尋ねていた。野暮なこと聞くなというマーヴェリックの言葉に二人は笑ってまた抱擁を交わした。返答の意味は特定できないが、これは比較ができない話だと思った。任務が撃墜数をノルマとするなら話は別だが、映画トップガンならびにマーヴェリックにおいては、国や社会、生活を守るということが目的とされる。だからパイロットの目的は守ることであり、青春時代のマーヴェリックもまた攻撃的な飛行から僚機を守るための飛行へ変わった。訓練生としてのアイスマンは首席卒業となり、直後の実践でもマーヴェリックに先立って出撃した。アイスマンは生きる方向を指し示して一歩先へ行こうとする、マーヴェリックの片割れだ。
認め合う二人の間で優秀さの問いが成立しないこともわかっていたはずで、そう尋ねたのは優秀なパイロットとは何か?という命題を授けるためだったと思う。マーヴェリックは授かった命題に対して、生きることで回答しなければならないはずだ。パイロットであり続けるマーヴェリックに適した任務であろう。そして生きる方向を指し示し続けてきたアイスマンという人物が語りかける言葉は、シリーズを貫いてマーヴェリックを励ますのだと思い返す。その言葉に秘められた衰えない情熱が、私の心を焦がしたのだ。

おわりに


ところで、極秘任務は険しい山岳に囲まれた自然の要塞ともいうべき核兵器開発プラントの完全破壊だった。目的地までの航路では監視センサーを潜り抜けるために急峻な壁に挟まれ入り組んだ谷底すれすれを高速で通過し、プラントに至っては山岳の高い山並みに沿って急上昇と急降下を続けたのち、ごく小さな目標に向かって爆撃しなければならない。
そして盆地を抜けるためにもう一度それを繰り返す。撃墜されないように失敗は許されず、必要相当爆撃のために複数機で連動しながら任務を遂行しなければならない。実現可能性はパイロットの腕にかかっている任務だが、代案は成立しなかった。
訓練が思うように進展しない中、訓練生の一人がGの負荷に耐えられず失神してしまう。そんな中、アイスマンもついには亡くなってしまった。後ろ盾のなくなったマーヴェリックは教官を解任させられ、任務計画も安全性を考慮したかわりに実現性を著しく犠牲にした計画へ変更されることとなる。
恋人ペニーの励ましもあり、マーヴェリックは上司を納得させるために従来の計画を訓練場で実演する。そして見事、計画案と教官職の継続を認めさせたのだった。

ミッションインポッシブルシリーズで活躍を見届けたトム・ハンクス主演、続編が36年ぶりに近年公開されたばかり、ネットフリックスのランキングでも上位に名を連ねている。名作として名高いらしいということもあって、一体何が人々を魅了したのか見てみようという気になった。
見てみると考えられるテーマがたくさんあった。青春物語は普通、青春時代の成長や恋愛にスポットを当てるものばかりだと思う。それは過ぎ去りし思い出としてきれいに保存されることもあれば、蘇るトラウマとして苦しみをもたらすこともあろう。
トップガンシリーズでは死が青春の傍に寄り添うことで、帰還の物語となっているところがとてもよかった。何より生を目指す存在としてアイスマンが希望を与えるところは感動させられた。自分なりにアイスマンへの熱量はなかなか調整するのが難しかったが、その分だけ楽しめたともいえる。アイスマンという「推し」が、最後に故人となった苦しみはあれど、それを受け容れられるだけのかけがえのない物語だったと思うが、ここまで読んでくれた方は、どうだろうか?

(2023年6月4日 更新)

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