音の匂い~自分語り
音に対して「匂う」ということばを使うのは変かもしれない。
でも気が付いたらよく使っている。
実際の肉体の鼻で感じる匂いではない。
エネルギー的なものを感じるとき「~の匂いがする」っていう風に言う。
他にも手触りや重さ、どこのチャクラに響くかとか色んな感覚が起きる。
だからわたしは音楽が楽しいし、同時に溢れる音が苦痛だ。
大抵は漠然と感じるだけだけれど「これはなんだろう?」って疑問に思うとそれが発している元の情報へと変換されることもある。
童謡の「♪母さん お肩をたたきましょう」の歌を聴いていたら目隠しされたように目がない女性の肩を叩くシーンが視えたり、「シャボン玉」の歌がどう歌っても泣けてしょうがなかったけれど亡くなったこどもを思う歌だったり・・・あるゴスペルを聞いたときも「あぁ、亡くなったんだ」と急に浮かんだと思ったら、911の出来事をベースに作られた歌だと知ったり。
ちなみに肩たたきの歌は盲目の母の肩をたたく歌だと聞いた覚えがある。
歌はいい。
大抵の人は歌っているとき歌そのものになっている感じだから。
時々そうじゃない人もいる。
そうすると見ていられなくて気を逸らせるか立ち去るようにしている。
話しているときはあんまりまっすぐでフラットな人はいない。
だから「そうなんだー」と思って聞いている。
そんな中とっても強い匂いを放つのが「葛藤」だ。
単にわたしが葛藤の匂いに特に敏感なだけなのかもしれない。
あと自己顕示欲。多分その裏に葛藤があるからだと思う。
葛藤があるからどうこういうつもりはない。
わたしも葛藤まみれだ。
もっとシンプルになりたいと常々思っている。
そもそも自分にあるから視えるのだ。
ただ葛藤の匂いは気持ち良くない。
葛藤があるのが気持ち良くないのとおんなじだ。
だから体臭じゃないけれど「気を付けたいな」って思う。
つまらないことで自分を複雑にしない。
大したことないことを大げさに扱わない。
いちいち拾い上げない・・・物事を個人的に捉えないっていうけれど、道端のごみは拾ったらさっと捨てればいいだけで自分の問題として持ち帰ることはないのだ。
そんなことで自分の価値は上がりはしない。
自己価値が低い人ほど人の問題に首を突っ込むものなのかもしれない・・・そんなことも匂いを感じたり自分を振り返ったりしながら思う。
音を耳だけで感じているわけじゃないってことは、豊かさでもあると、そう思えるようになった。
でもそれはわたしを構成する要素の一つであって、わたしそのものじゃない。
ここで色々書けば書くほど、わたしは「No Name」だと思う。LGBTERの人たちに「Mr.」「Ms.」などの代わりに用いるものがなにかを知らなかったから、僅かに抵抗をこめて「Ms No Name」。
少しだけ自分の感覚について書いてみようと思えたのは、昨日自己受容できたからかもしれない。
今日もありがとうございました。