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失われた能力の話

今まであまり他人に話した事がないのだが、noteだからこそ、このテーマについて書いてみようと思う。

映像記憶。
私がこの言葉を知ったのは、割と最近になってからだ。
映像記憶という言葉を知らない私は『頭で写真を撮る』と呼んだり、他の人に説明していた。
本や映像などの目に入った情報を、カメラで写真を撮るように、映像として記憶していたのだ。
そして、これは誰もができる事だと思っていた。

この能力が特別なものだと最初に気付いたのは、幼稚園で発表会の練習をしていた時。
私達のクラスは、花咲か爺さんの紙芝居をすることになってた。
園児がそれぞれのシーンの絵を手描きし、更にそのシーンのセリフを覚え、一人一人順番にリレー方式でお話をするというものだ。
覚える量はそれほど多くないとはいえ、文章を記憶する必要があった。
私は先生から与えられた一枚の紙を両手に持ち、さっそく頭で写真を撮った。
だから、文書を覚えようと努力することは全くしなかった。
発表会の練習の時には、ただその紙を頭の中から引っ張り出して、目の前の大きなスクリーンに映像として貼り付けて、それを見ながら大きな声で話せばよかったのだ。

この練習の時、多くの園児はセリフを間違えたり、言葉に詰まってしまう。
私は、目の前にある(と私が思い込んでいる映像)を見てセリフを言うだけなのに、なぜ言葉に詰まったり、間違えてしまうのだろうかと不思議でならなかった。
だから私は、仲の良い友達のところへ行き、頭の中の写真を読むだけなのに間違えちゃうのは、緊張しているからなの?と聞き、緊張しなくていいんだよ!と励ました。
しかし、私の言葉は友達を混乱させてしまった。
そんな写真なんてどこにもないと言われ、私は驚いた。
私は必死になって、頭で写真を撮る方法を友達に教えてあげようとしたのだ。
でもそれは、誰もできないことだった。
家に帰って父に聞いてみたのだが、それはできないと言われた。
しかし父は、そんな事ができるなんてすごいねと褒めてくれたのだった。

他には、どこか遠くへ出かける時、その道の情報を、ビデオ動画を撮るように記憶する事ができた。
覚えようとしなくても、それは映像として私の脳に残ってしまうのだ。
だから、何度か同じ場所を訪れると、車の助手席に座り、この交差点を右だね、と話したりして、父を驚かせてしまう事がよくあった。
上手く説明できないのだが、これは単にその場所をたまたま覚えていたというのではなく、今でいうならドライブレコーダーのように脳に記憶されていた。

父は褒めてくれた能力だったけれども、他の人ができないのに、私一人だけこれを使うことはズルい事のように思えてきて、この能力を使う事をやんわりと避けるようになった。
そして気付いたら、もうその能力は無くなってしまっていた。
しかし、小学校の低学年くらいまでは、この能力を使う事ができたと思う。

あの頃は、あまり意識しなくても教科書や本を映像として記憶していたので、必要な時が来るとその映像を引っ張り出して使っていた。
今思うと、この能力を失ってしまったのが残念でならない。

同じような能力が、もう一つ。
これにどんな名前がついているのか、私はまだ知らない。

今ちょうど楽しいところだったのに、どうして目が覚めちゃったのかな。
夢の続きが見たいなぁ。

誰もがこんな経験をした事が、一度はあるのではないだろうか。
私はかつて、夢の続きを見る事ができた。
正確に言うならば、見たいと思う夢を見る事ができた。
映像記憶よりも長く、少なくとも小学校の高学年辺りまではこの能力があった。

寝る前に、本棚に向かう。
旅行ガイドブックの棚から、今夜の旅の行き先を決める。
ページをめくりながら、私はその街や国の風景、地図を見る。
ベッドに入ると、それらの情報を思い浮かべながら目を閉じる。
こうして夢の世界に入った私は、ガイドブックの世界を飛び出し、実際には見た事もない、まだ知らぬ街を自由に旅するのだ。

または、昨日見た夢を正確に思い出して、その続きを見ようと思いながらベッドに入ると、ドラマの続きのように、昨日見た夢の続きが始まる。

映像記憶と同じように、誰もが夢をコントロールできるものだと思っていた。
だから、友達と話をしている時にふと、今日は昨日の夢の続きを見るんだ!と話したところ、そんな事はできないと反論された事が、真実を知る最初の出来事だった。
私はその友達だけが夢の続きを見ることができないのだと思い、色々な人に聞いてみた。
しかし、きょとんとした顔で見返されたり、Ditoちゃんは嘘つきだと笑われたりした。
その事が、当時はとても恥ずかしかったのだ。

そんな事があって、私はこれらの能力について誰かに話すのをやめた。
だから、この事を話したのはほんの僅かな人にだけだが、同じ能力を持った人、もしくは持っていた人には、今まで出会った事がない。
このnoteを読んでくださっている方の中で、同じ境遇の方はいらっしゃるだろうか。

インターネットで膨大な情報を得られるようになったので、このような能力を持つ人もいるのだと、今なら分かる。
しかし当時は、他の人にはない能力がある事をズルい事だと思ったり、またはその力が怖くなったり、嘘つきだと言われてしまう自分を恥ずかしいと思ってしまったのだ。
今の私なら、他人と違ってても良い、私は私なのだと思えるけれど、あの当時は自分が目立つ事や人と違うことは、何だか怖かった。
そのような負の気持ちが芽生えてから、私はそれぞれの能力を失った。

人間の身体とは、本当に面白いものだ。
自分が否と認識し排除したい能力は、次第に喪失する。
しかし今になって、この能力をまた欲しいなんて、全く私は我がままな人間である。

否と認めたものが次第に排除されたように、逆に欲しいと強く願えば、これらの能力は復活するのだろうか?

私は自分自身を実験台として、これから毎日、この能力の復活を願うことにしよう。
映像記憶が復活したら、何百、何千もの情報を、努力なしで脳に蓄えられる。
なんと素敵なことだろう!
そして、もしまた夢をコントロールできたら、私は一年中どこかの街を旅するだろう。
まさにそれは、夢の世界だ。

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