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銀河鉄道に乗って①

おいでませ。玻璃です。

今回は四人姉妹の三番目の姉、舞姉さんの話。

海沿いのカーブの国道に建つ小さなアパートに越す前の話。

舞は小学5年生。
身体に合わない大人用の大きなママチャリに乗っていた時、小型トラックと衝突するという事故に遭ってしまった。
足の骨折と頭を強く打つ大けがで、運ばれた先の病院では、助かる見込みはないと言われた。

「喉が渇いたよぉ」

弱々しくうわ言をいう孫になんとか水を飲ませてやりたくて、

「先生、この子が水を欲しがっとる。飲ませてやってもええですか。」

とトメが医師に尋ねると絶対にだめだという。
そして待てど暮らせど、これと言った治療もない様子。

「先生、この子が苦しんどります。何かしてやってもらえんですか?」

「今のところ、これ以上の治療はないですねぇ。あとは生命力に任せましょう。」

にべもない医師の言葉に、あのトメが納得するはずはない。

病院を移る!!
いわゆる今でいうセカンドオピニオンだ。
昭和40年代にはセカンドオピニオンをする人などまずいない。
ましてや田舎町なら尚更だ。

だが、トメは孫を守るため、人になんと言われようと別の病院に移ることを選択し、転院の手配を済ませた。

結果、その選択は大正解だった。
舞は移った病院での治療でみるみる快方に向かった。

だが、後遺症が残った。
後遺症の発症は事故から3年後。
目の前が急に暗くなって歩けなくなったり、朝起きたら吐き気や激しい頭痛が起こる。
そのため中学では、大好きだった陸上部から室内競技の卓球部へ転部した。だが、この卓球部でも実力をのばし、高校ではかなり強い選手になった頑張り屋さんだ。
今は痛みこそないが何十年も経った今でも、事故前の記憶が途切れ途切れになくなっているそうだ。

この頭痛や吐き気などの激しい後遺症は高校生になるまで続いたという。

母、昭子はなんとかしてやりたいとあらゆる病院の門を叩いたし、頭痛によく効くと言われる少し遠い温泉にも何度か連れて行った。
私も暗くて薬草の匂いが立ち込めるひなびた湯治療法のお風呂に一緒に連れていかれた事があった。あまりにも強い薬草の匂いに小さな私は、

「くさーい!!」

と言って無邪気に鼻をつまんでいたのをうっすらと覚えている。

そして、大事故から後遺症が出るまでの間にあの「洋平浮気事件」が起こり、舞は両親と妹とともに小さなアパートに越すことになった。

旅館の仕事をしていた母はいない日が多く、トラックの仕事が非番の日は父が家事をし、そのほかの日は舞が家のことをやり、妹の面倒をみた。
こうして舞姉さんと私のお留守番生活がスタートした。この話は次回。

またお会いしましょう。

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