鯉よ来い
おいでませ。玻璃です。
大きなおうちから小さなおうちへ引っ越して、一年が過ぎた頃。
舞姉さんが、高校を卒業して大阪の某大手化粧品会社に就職が決まり、家を出ることになった。
そのタイミングで父母と私も市内の別の借家へ引っ越すことになった。
一年しか住まなかったとはいえ、家を移るというのは寂しいものだし、何よりも舞姉さんと離れるのは本当に寂しかった。
引っ越した先は市内を流れる「藍場川」にほど近い平屋の一軒家だった。
萩の街は三角州の地形にあり、昔は大雨になると川の氾濫を起こすことがあった。その氾濫を防ぐため、そして田畑への農業用水・防火用水・荷物の運搬(薪・米・花・炭ほか)のために用水路として享保2年(1717)、人工的に開削された小さな川、それが「藍場川」だ。
今では観光地として、色とりどりの鯉が泳ぎ、川ぎりぎりまで下りることができるハトバ(石で作ってある階段のようなもの)や民家に渡るための橋が各箇所にかかり、情緒ある景色を織りなしている。
この美しい景観の藍場川沿いが通学路だった。
この家に引っ越して、学校からの帰り道は同じクラスのコタキさんと一緒だった。コタキさんもご両親共働きだったので、一度学校から帰ったらお小遣いを持って待ち合わせ、近くのスーパーに行く。
いつもポテトチップスかカールを買い、藍場川にかかる石橋に腰かけて、おやつの時間を楽しんだ。
お菓子のクズが川に落ちると鯉が寄ってくる。
丸々と肥えた鯉たちは人間を恐れることもなく、橋からぶらぶらと下がった私たちの足に寄ってきては様子をうかがっている。
時には鯉たちに話しかけたりしたが、昨夜のテレビの話になると鯉の存在は忘れて夢中で話した。
そんなある日、コタキさんはお休みだったので一人でぶらぶらと帰宅していた。あっちを眺め、こっちを眺め、持っているケース入りのそろばんを回したり揺らしたりしながら藍場川沿いを歩いていると
「あっ!!」
ボッチャン!
色鮮やかな鯉たちの群れに紛れて私の赤いギンガムチェックのそろばんケースが川の底に沈み佇んでいる。
ここで役に立ったのがハトバだ。
採れたての野菜の土を落とすために川ぎりぎりまで下りる事ができるハトバのおかげで、子供の私でも落ちたそろばんまで手が届きそうだった。
鯉と同じような長さの赤いケース入りそろばん。
ゆらゆらと水に揺れる様子はまるで本当に鯉と一緒に泳いでいるようだった。
手を伸ばす私。
あと少し…もう少し…。
「う~ん…。うわぁ!」
ポチャッ
バランスを崩して片足を川へ突っ込んだものの、無事そろばんを救出。
人に慣れている鯉もこの騒動にはさすがに近寄れず、私とそろばんを遠巻きに見ていた。そして何事もなかったように、川の中を三角形に整列し滑るように去っていった。
帰郷すると立ち寄る藍場川。
今でも私の目には、美しい鯉に紛れて赤いギンガムチェックのそろばんが悠々と泳いでいるように見える。
ではまた、お会いしましょう。