長い眠りから目覚めて演奏されたシューベルトのピアノ協奏曲(世界初演)を聴いた。
シューベルトはピアノ協奏曲を作らなかったはずだ。
しかし、演奏会の予告には「シューベルトのピアノ協奏曲」(世界初演)と書かれていた。しかし、新たにシューベルトのピアノ協奏曲が発見され、その世界初演がされる、ということではないようだ。
作曲家の吉松隆による編曲版である。正確には上記の表記になるようだ。
実はこの作品、作られてから長い時間が経過した後にようやく初演を迎えた。そこへ至るまでの経緯がなかなか興味深いものであったので、コンサート・プログラム記事と、コンサートの指揮者と編曲者によるプレトークの内容から紹介したい。
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編曲者である吉松隆は、ピアニストの田部京子が弾くシューベルト最後のピアノ・ソナタ「第21番 変ロ長調D.960」に深い感銘を受けたという(1994年)。それがきっかけで吉松の自作「プレイアデス舞曲集」のCDが田部の演奏により録音された。
同じころ、指揮者の藤岡幸夫は吉松のオーケストラ作品を指揮してCD録音をしていた。
そこで吉松は「シューベルトのピアノ・ソナタ第21番を協奏曲にしたらどうだろう。それを二人に演奏してもらったらどうだろう」と思いつく。
書き進められた、その思いつきの作品は2000年の春に完成する。その思いつきの作品は、誕生日を迎える田部へのサプライズプレゼントでもあったという。
プレゼントである楽譜を直接届けようと田部に連絡を取った吉松は、こう言われてしまう。
「今、風邪をひいているので、郵送にしてください」
楽譜は藤岡にも届けられた。しかし、ピアノ・ソナタを協奏曲にするという突拍子もない作品の楽譜を見てこう言われてしまう。
「これはちょっと...」「なんでグロッケンシュピール(鉄琴)が使われるの?原曲とイメージが合わない!」
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楽譜は表に出ることなく、そのまま藤岡の楽譜棚で深い眠りに付くことになるのだが、世界を混乱させているコロナ禍において楽譜棚を整理していた時に再発見される。その時、藤岡はこう思ったという。
「これ、やってみたい」
そして今年(2022年)、完成から二十数年の時を経てようやく初演を迎えた、というわけである。
コロナ禍という特殊な今の環境が、そして、原作に手を加える編曲という作業が受け入れられるようになった今の環境が、この作品を表に出すことになった。
実はシューベルトの作品、交響曲第7番「未完成」が40年近く、そして交響曲第8番「グレイト」も10数年間、作曲された後に演奏されることなく眠っていた。このようなエピソードも、このシューベルト作品をベースにした作品に何らかの運命を授けたのかもしれない。
せっかく吉松が作った作品。これを表に出すため、他の演奏者に依頼するという選択肢もあっただろう。しかし、それをしなかった理由はこれまで記載した内容から明らかだ。この作品は「田部のピアノと藤岡の指揮以外で初演されるわけにはいかなかった」のである。
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長い眠りから目覚めて、初めて生命が吹き込まれる作品を聴くために、わたしはワクワクしながら演奏会場へ向かった。
シューベルトの傑作として名高いピアノ・ソナタが、オーケストラを伴った協奏曲に転化されるのである。「こんな感じだろうか?」と想像しながら開演を待ったのだが、鳴り響いた作品は開演前とは全く違う(良い意味で違う)印象の作品になっていて、驚き、新たな発見をすることができた。
第1楽章のモノローグのようなゆったりした音楽、そして、作曲者の死を予感させるような重い第2楽章。原作のピアノ演奏はモノトーンの色調を強く感じるのだが、様々な楽器の音色により色彩がつけられて鮮やかに展開していった。厚みがある音楽は、何やら漂い、流れるような感じに聴こえた。
いちばん注目していたのは第3楽章。前の2つの楽章とは全く趣が変わる、ユーモラスで飛び跳ねるような、ふざけた様にも思える音楽がどのように変わるのか?これが少し優雅な雰囲気を漂わせる軽やかなワルツになって聞こえた。
最後の第4楽章はベートーヴェンのピアノ協奏曲を思わせる、とても力がみなぎるもの。「シューベルトがピアノ協奏曲を作っていたら、こんな雰囲気だったのかも?」という思いが頭をよぎる。しかし、その力強さと共に、それは何か浮遊しているような軽やかさも感じた。
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シューベルトの大作「ピアノ・ソナタ第21番」。体調が悪くなる中、悩み苦しんで作曲し終えた2か月のち、31歳のシューベルトは短い人生を閉じた。
実はわたしは、このピアノ・ソナタを、しばらくの間、とても苦手に思っていた。歌心が溢れ、そして死を予感させる重々しい最初の2つの楽章と、それと正反対の明るく戯けたような後の2つの楽章の存在。なにかアンバランスでまとまり悪く、腑に落ちないのである。
今回、この作品をピアノ協奏曲版を通して聴いて感じたのは、ピアノ演奏では感じなかった「色彩」と「浮遊感」であった。
これは、もしかしたら、シューベルトが作曲中に垣間見ていた、これから自分が訪れる「別の世界」をイメージしたのではないだろうか。この世界では、とても苦しい思いをしていたシューベルト。しかし「別の世界」では色鮮やかで、心が浮き立つような場所なのではないだろうか?
原曲のピアノ・ソナタの奥に隠れていた世界を、吉松の編曲版ピアノ協奏曲は炙り出してくれた、とわたしは思っている。編曲者の思いとは大きく異なるのかもしれないが、それはわたしの個人的な印象としてお許し願いたい。
原曲に手を入れる編曲に拒絶反応を感じる、という方のことも理解できる。わたし自身が昔、その考えを強く持っていたから。でも、今は、新しい発見ができる編曲の魅力に取りつかれてしまったひとりになった。
シューベルトは天国できっと喜んでいる、とわたしは思いたい。
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「吉松隆/ピアノ協奏曲「メモ・フローラ」が、田部のピアノと藤岡の指揮で録音されていることもご紹介しておきたい。
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