【小説】人を消す金庫/お仕事ミステリー
一
銀行員は不倫をする者が多い。不貞行為のほとんどは業務時間内、かつ銀行内で行われる。今回の男、間藤陸のように。
「なぁミミ、そろそろ良いだろ」
隣を歩く間藤から、耳元で囁かれた。時は昼前、居るのは八菱CBD銀行目黒支店。契約書を格納する部屋、通称『金庫』の中だ。六月だというのに、真冬のような寒気が私を襲う。彼は歩を止めず、私の肩を抱き寄せた。
「この部屋、空調が効きすぎだよな」
おめでたい脳みそだ。男はある程度の学歴と職歴を得ると、ハッピー野郎に進化する。「課長が冷房を下げまくる。女子トイレが避難場所になっている」と以前吐いた愚痴を覚えていたのかもしれないが。
私は彼の顔を見上げた。目鼻立ちがはっきりした西洋風の甘い顔、すらりと伸びた手足。くたびれたスーツとシワのあるシャツは、せっかくの素材を台無しにしていた。彼は結婚する相手を間違えたのかもしれない。夫のシャツにアイロンをかける『余裕がある生活』が送れる、フリーランスのライターの方が良かったのかもしれない。彼は行内結婚をしていた。銀行員の55%はそのような道を辿る。ここは八菱CBD銀行で、最近、副業をこそ解禁したことで話題になった。
「今、ここで?」
艶のある女性の声を出すことに成功した。偽りの微笑みを返すことも忘れなかった。昼間は銀行で働いているが、役者志望だ。先日も事務所で「二十五歳ねぇ、爆発的に売れるには難しい年齢だな。地下アイドルでもやらない? その客を舞台に引っ張ってこれるしさ」と言われたばかりだった。東京は街だ。何歳でも夢が叶う錯覚を抱かせる。サクセスストーリーなんて、おとぎ話でしかないのに。
「ここでだよ。ばかに広いだろ、うちの店の金庫」
「誰かが入ってくるかもないじゃない」
「大丈夫だよ。棚が無造作に並んでるから、一直線に歩けないだろ。入口から一番奥まで、ウサイン・ボルトでも三分はかかる」
彼はその冗談が気に入ったらしく、満足気に鼻を鳴らした。 ボルトでもヤギやキリンより足が遅いことを、彼は知っているのだろうか。
私は辺りを見渡した。二十畳ほどの書庫のような部屋に、灰色で無機質な棚が並んでいる。棚には契約書が入る段ボール、融資関連書類を束ねたクレジット・ファイル、取引先からの贈答品が乱雑に置かれていた。彼のような法人営業の担当者が「自分のデスクに置きたくないけど、捨てたら後々問題になりそう」と思うものたちだ。それは主が巣立ってしまった子供部屋を思わせた。まだ自分は何にでもなれると思っていた子供の、夢の国にいた頃を。片付けコンサルタントが見たら目を輝かせるだろう。しかし事情を知れば、こう言うに違いない。「まず捨てるべきは、この男ね」。迷いなく棚の合間を縫って進む彼に、私は言った。
「慣れてるのね」
「おいおい。女の嫉妬は醜いぞ」
「もっと良い場所、あったんじゃない」
「『#夜景のきれいなホテル』『#東京タワーが見える部屋』か? 無理だよ。ローンの返済もあるし、金は嫁に管理されてる」
奥さんは賢明だ。彼に一家の財務大臣をさせたら、すぐに女相手に溶かしてしまうだろう。
「娘さんもまだ小さいしね」
「そう、金がかかる。 娘は小五と二歳、 中学受験と保育料。 うちはかみさんも働いてるだろ? だから税金で持ってかれる割に、保育料が高いんだ。だから俺はたくさん働いて、稼がなきゃならない」
一定の職域、課長クラスまでの銀行員は、残業代で給料を稼いでいる。経営職階、つまり次長より上は、残業代が出ない。支店長代理、課長よりひとつ下の彼も、残業代の荒稼ぎをお家芸としていた。
「だから、ここを使うんだ」
部屋の再奥には白い壁が立ちはだかっている。下には黒い箱が置かれていた。ダイヤル式の錠前がついており、セーフティボックスなのだろう。高さは彼の膝下ほど、横幅は腰幅くらい。小さな冷蔵庫ほどのサイズだ。年季が入っていて、今は使われていないように見える。
「手品でもしてくれるのかしら」
「もっと良いものを出してやるよ」
彼はセーフティボックスを、愛おしそうにポンポンと叩いた。
「シルクハット、似合いそうよね」
「だから、マジックはやらないって」
「暗証番号、知ってるの?」
「あぁ。絶対に忘れない番号だよ。たまたま俺の誕生日だった」
彼は暗証番号を入力した。扉が開いたが、中には何も見当たらない。しかし本来あるべきはずのものがなかった。箱の背面はなく、代わりに穴が開いていた。暗く、大きな穴だ。コォォォォ、と不気味な音が響いている。不思議の国のアリスでも飛びこまないだろう。
「これはただの箱じゃない。この穴を隠すためにあったんだ。ほら、行こうぜ」
スマホのライトで穴を照らすと、階段が見えた。暗くて見えにくいが、どうやら下の階へと続いているらしい。隠し方は素人のマジシャン並にお粗末だが、この男にはうってうけだ。
「先に行ってくれない? 初めてだから」
「あぁ、そうだな。初めてだもんな」
私の「初めて」という言葉は、彼の何かをくすぐったようだ。満足げに頷き、彼はかがんで箱の中に入った。こんな男が支店長代理を務めるなんて、世も末だ。慶應を出れば、だいたいの短所は隠される。人生をイージーモードにするフリーパスのようなものだ。それは他の大学を出たものには、決して与えられない。私のようなFランでは。しかし私はもう、その社会で戦うことはやめたのだ。頭取以外は全て敗者となる、銀行のラットレースには。代わりに役者として、夢をつかむ。
「おーい、大丈夫か?」
少し先へ進んだらしい彼の声が、下から聞こえてきた。今すぐ退散しろ、と脳が警報を鳴らす。あの性的嫌がらせを受けた日と、天気も状況もそっくりだった。
「今、行くわね」
私は返事をして、箱の中に入った。警報は無視した。もしそんなものを気にしていたら、行内結婚をし、梶ヶ谷に2LDKマンションを購入し、PTA役員として小学校前に自転車を停めないようパトロールをする人生を送っていただろう。そんな一生はごめんだった。
扉を後ろ手に閉め、間にボールペンを挟む。もしもの時、すぐ開けられるようにと思ったからだ。しかしペンは扉に押しつぶされた。性急で乱暴な閉まり方だ。心にわだかまりを抱えた人間が、力の限り叩きつけたような感覚を覚えた。金庫には私たち以外、誰もいないはずなのだが。スマホのライトをつけると、足元に壊れたペンの部品が落ちていた。
「……空調の関係で、たまたま閉まっただけよね」
自分に言い聞かせ、未来を暗示するかのような不吉な予感を振り払う。手探りで階段を下りる。狼の巣へ向かうきっかけを、思い出しながら。
・・・
あれは一通の内線から始まった。
「え。人を消す金庫?」
丸の内の本部ビル、十三階のフロアで、受話器を取った青木がすっとんきょうな声を上げた。そしてメモに何かを書き、隣の席に座る私に見せた。『目黒支店 支店長』。なかなかの達筆だ。スマホより重いものを持たない若者にしては、しっかりとした字を書く。それは私に、ささやかな喜びをもたらしてくれた。彼の指導担当者として二か月を過ごしたが、「数字の暗記が得意」以外の長所を見つけることに苦心していたからだ。
「あの、まず稟議を上げてもらわないと。僕たちは承認後じゃないと動けな……え、黄瀬次長?」
会話の雲行きは怪しくなってきた。「上の者を出せ」と言う時は、まずい案件か、急ぎの案件だ。支店長が直々に連絡をしてきたということは、おそらく両者だろう。時刻は十二時。まさに昼休みを取ろうとしていたところだった。
「次長に話は通してあるって言われても、長期休暇中ですし……はい、黒川さんはいます。黒川三月さん。彼女に伝えます。ええ、失礼します」
彼は丁寧に受話器を置いた。少し日に焼けていたはずの肌は、ついさっき手術室から出て来たばかりに白かった。黒川と自分の名前を呼ばれた手前、彼との会話は避けられそうにない。そろそろと席を立つ私の腕をつかみ、恨めし気に彼は言った。
「やっぱり僕、この銀行を選ぶんじゃなかったです」
「大丈夫。青木に限らず、どの新人も思ってるから」
「だって、怪奇事件ですよ?! おばけとか苦手なのに!」
「おばけじゃない。合併後に増えた『リスク』のせいだよ」
「うぅ。せめて渋谷とか虎ノ門に配属されたかった。かわいくて若い女の子が、いっぱいいる店が良かった……」
どちらかというと彼の苛立ちは、後者からきているのだろう。彼は銀行員として許されるぎりぎりの長髪で、身体にあったネイビーのスーツを着て、気さくな性格だった。東京の女の子が好きそうな、好青年としての要素をだいたい持ち合わせている。
彼が配属されたのは『法人リテール・リスク統括部』、通称『法リ統』。行内で起こる不可解な事件、通称『リスク』を統括する部署だった。私たちは第四グループで、東京の西側を担当している。
「サウナに行こうとしてたとこ悪いですが、今から報告して良いですか?」
「え」
「田町の『パライソ』、今日レディースデーなんですね」
「どうして知ってるの? ついに青木もサウナ好きになった?」
「そんなわけないじゃないですか。野郎の裸に興味ないです」
青木は私の眼前にある、デスクトップパソコンを無言で指した。『パライソ』の予約完了画面だ。大人気の男性専用サウナだが、第二・第四金曜日はレディースデーだ。激戦の枠を何とかして抑えたのだ。次長がいない。急ぎの仕事もない。昼休みはすぐそこだ。一時間だけサウナに行くのは、規約違反ではない。
「早く報告したいんです。僕ひとりで抱えて、夜を越せません」
「一緒に寝てあげようか? 子守歌を歌って、おむつも変えてあげるよ」
「男子寮だから入れませんよ。あの寮母にばれたら殺されます」
頑固な青木は離してくれそうにない。一人っ子というのは、それだけで一種の病気なのだ。世界の中心で自分の名を叫んでいる。人を頼ることも長けている。長女で正反対の性格である私はため息をつき、デスクに座った。
「目黒支店長はなんだって?」
「金庫に入った行員が、消えちゃうみたいです」
「失踪事件か。うちじゃなくて警察じゃないの」
「遅くとも十七時には見つかるらしいです。金庫の中で」
定時か。私は唸った。行方不明者の約半数は当日中に発見される。警察も数時間の失踪では動かないだろう。
「被害は?」
「金庫に入って数時間消えたのが、二人。『そこで起きたことは覚えてないらしい』ですが、金庫で消えた翌日からみんな休職しています」
「被害者の共通点は?」
「皆さん女性ですね。四十代一人、三十代一人。それぞれの行員番号は……」
「番号は言わなくて良い。それにしても、変なの」
「何がですか?」
「行方不明って男性、しかも二十代が一番多いんだよ」
「どっちも外れ値なんですね」
それは事件の解決が一筋縄でいかないことを意味する。昼サウナは諦めた。早く仕事を片付けて、定時に上がる作戦に変更する。スケジューラーの『予定あり』を、十二時から十八時にずらした。青木がからかうように言った。
「仕事が嫌だなって思ってたら金庫が隠してくれた、とかですかね」
「ないでしょ。失踪の原因は病気が三割、家族関係が二割。仕事は一割に過ぎない」
「『それ警察に言ってください』作戦はですか」
「まあね。じゃ、昼食でも食べてて。武器の稟議を書くから」
「僕やりましょうか」
「良い、私がやるよ。急ぎだしね」
「えー。新人ノルマの稟議書、件数クリアできませんよ」
彼はふてくされた顔で、一階のファミマで買ったアイスカフェオレをすすった。花粉症らしく、鼻水が出るため水分が足りないのだろう。デスク下のクズ箱に捨てられた『鼻に優しいティッシュ』は、地球環境には全く優しくない量だった。
またもや内線が不吉な音を立てた。青木がとり、数秒の会話を終えた。「他の行員が気味悪がって金庫に入らない。『いつ来れそう? 早く何とかしてくれへん?』らしいです」
「バカバカしい。全国に行方不明者数は約八万六千人いる。こんな軽度の事件で、何が『人を消す金庫』だよ」
「黒川さん、やけに詳しいですね」
「もう私は五年目だから」
「そうじゃなくて、行方不明について。やっぱりご家族のことがあったからですか?」
沈黙。私は時間をかけて、押し寄せてくる様々な感情を飲み込んだ。銀行員は日常に退屈している。だから噂話やオカルトや、変な事件が横行するのだ。私たちはそれらを叩き潰しに行く。警察の手を煩わせるまでもない。彼らにはちゃんとした犯罪に向き合ってもらわなくてはならない。
「行くよ、現場に」
青木は呆気にとられた顔をしている。その目は彼の左横のデスクを、すがるように見ていた。そこは次長の席だった。
「何か見えた?」
「冗談でもやめてください。次長が戻ってくる来週じゃだめなんですか?」
「なんで、他にやることあるの?」
「新人研修の報告を書かなきゃいけないんです」
「ほぼ終わってるでしょ。さっき見えたよ。ほら、地下倉庫に行くよ。ブツを持ち出そう」
「え、稟議は? 承認おりないと使えないんですよね」
「目黒支店で書けばいい。すぐもらえるよ」
彼は今日も明日もデートの予定があるのに、とぼやきながら『武器 持ち出し管理簿』のファイルを取り出した。綴じられた用紙に、日付と『ブラックフィールドバズーカ』が記入された。彼がロッカーから外訪バッグを取り出している間に、私は用紙に承認印を押し、壁面のホワイトボードに向かった。ボードには課員の名前が並び、横に外出先を書く仕組みとなっている。『黒川』『青木』の横に『NR』と記入した。ノー・リターン、直行直帰の略称だ。それを見た青木は呟いた。
「二度と戻れないってことですかね」
「そうならないために、ブラックフィールドバズーカを持ち出すんだよ」「ネーミングセンス……」
「いけてるよね。『八菱CBD銀行』を考えた人と一緒らしいよ」
クリエイティブな発想や服装と無縁の私たちは、椅子にかけてあったスーツの上着を身に着けた。戦闘開始である。
フロアを出て廊下を歩き、エレベーターホールについた。十台のうち、最も窓際にあるものに乗り込む。青木は他に人が乗り込んでこないことを確認し、開閉ボダンの下にあるカードリーダーに行員証を読み込ませた。機械の箱は不快な音を立てて、地下へ真っ逆さまに落ちて行く。ノー・リスク、ノー・リターン。投資の大原則だ。幼稚園児でも知っている。リスクを冒さなくては、見返りを得ることはできない。
地下八階に到着して倉庫へ向かうと、扉の前にいる警備員が目に入った。エリサだ。彼女はこちらに気付き、大きく手を振った。体格が良く、背丈は百七十センチ。帽子から揺れるポニーテールと褐色の肌が、快活さを物語っている。私は前に立ち、彼女とハイタッチをした。セクシーな香水の匂いが、鼻をくすぐった。
「ハーイ、ミツキ。調子はどうだい?」
「まずまず。エリサは?」
「サイコー。この前の事件で、ボーナスもらったんだ。それでホワイトニングしちゃった」
彼女は歯を見せて笑った。それは黒く艶やかな皮膚と対をなし、白く輝いている。近いうちに歯磨き粉のⅭMオファーが来るだろう。チューブを握り潰す姿に、スポーツジムの広告主から声がかかるかもしれない。
「『ブラック・フィールドバズーカ』を持ち出したい」
「何だっけ、ソレ?」
「『リスク』を『コスト』に変換して、ぶっ放す武器だよ」
「あぁ、あれね。呪(のろ)いのアイテム」
「呪(まじな)いのアイテム」
私は言いなおした。出来の悪い子供に言い聞かせるように、ゆっくりと。
「正しく使うと『まじない』だけど、業務違反をすると『のろい』になる」
彼女は小さく鼻を鳴らした。言葉の違いに、そこまで興味がないのだろう。
「持ち出すのは彼ね」
「壮太です、ソウタ・アオキ」
「アタシの子供くらい? かわいい顔して、やるじゃないか」
「使うのは私。彼はまだ使えないよ。リスクを取れない性格だから」
彼から持ち出し管理簿を受け取り、書かれていることを指さし確認した。
「リンギ書のコピーがないじゃない」
私が事情を説明し、彼女は無線で上司に連絡を取った。スペイン語で何かを話している。管理簿も無線も、彼女の大きな手の中では切手のように小さく見えた。
「ダメだってさ」
「支店長から『すぐ来い』って言われてるんだ」
「エライ人が何と言っても、承認前に持ち出すのはいただけないね」
沈黙が重い雲のように流れた。青木は不安気な顔で、私たちを見比べている。
「……失踪事件なんだ。人が消えるっていうのは、嫌なものだよ」
再び、沈黙。しかし彼女の表情は、いくぶんか和らいでいた。
「今日中だよ」
今度は彼女はゆっくり、言い聞かせるように話す番だった。
「課長は夕方に、アイテムとリンギの承認状態をチェックする。それまでだ」
「ありがとう」
エリサはやれやれと言った様子で倉庫の中に入っていった。あらゆる不正取引、債務不履行、そして怪奇事件に鉄槌を下してきた、武器の宝庫へと。
倉庫から出て来た時、彼女はフンフンとスペイン語で歌っていた。肩にはバズーカが担がれている。あの重量と大きさで鼻歌が歌えるなんて、この行内では彼女くらいだろう。青木は礼を言い、腕を伸ばした。
「悪いね。アンタには渡せないんだ」
彼女は無駄のない動きで私にバズーカを渡した。私はそれを青木に預けた。
「渡すのは、持ち出しの責任者って決まってるのさ」
「どうして、そんな回りくどいことするんですか」
「決まりだから」
私が言うと、エリサが私の声色を真似て「決まりだから」と、繰り返した。その茶色の瞳は、愉しそうに揺れていた。青木はエリサを一瞥した。銀行の決まりにうんざりしている目だ。彼がバズーカの先端にあるスイッチを押すと、それはペンほどの大きさに縮んだ。黒々とした万年筆のようなそれ外訪バッグにをしまわれる様子を眺めて、エリサは口を開いた。
「どこ行くの?」
「目黒。金庫が人を消すんだって」
「あぁ、目黒」
エリサは何かを思い出す顔をした。私は違和感を覚えた。彼女のように海外から来たものは、地名を覚えることが苦手なはずだ。
「何かあったの?」
「警備のフォローアップ講習で聞いたんだ。すごい前に、金庫に泥棒が入ったって。未解決事件だし、犯人も捕まってない」
「未解決事件ですか」
青木が憂鬱そうにうめいた。今は第四グループという小さいチームだから、軽度な事件で済んでいる。しかし年功序列で出世をし、重大事件に関与できるようになると? 深淵がぱっくり口を開けた先へ、飲み込まれてしまいかねない。かつて私より一つ上、青木より二つの階級、次長職の人間が、『次課長研修』の元で辿って来たように。
「ねえ。ミツキもソウタもひどい顔してるよ。大丈夫かい?」
「大丈夫だよ」
「全然、そうには見えないけどね」
私はその言葉は聞こえないふりをした。弟の手掛かりをつかむためだ。銀行が抱える重大情報にアクセスするには、出世しなくてはならない。元から魂を売る覚悟だった。
「これ、あげる。ずっと使ってたんだけど、気が変わってね。アタシにはセクシーすぎるんだ。これ以上、男にモテたら困っちまうからね」
その香水は『ムーン・スター』と書かれていた。25mlほどの小さいボトルだ。
「ありがとう。これも持ち出し管理簿が必要だったかな」
エリサは笑い、首を振った。チシャ猫のように、薄暗い廊下で白い歯が浮いた。
「二人組だよ」
彼女は唐突に言った。
「確か、犯人は二人組いた。研修で言ってたな。何かの助けになれば。それじゃあね」
「黒川調査役、行きましょう」
背後から、青木の声がした。彼は二人の時は『黒川さん』と呼ぶが、他人の前では『黒川調査役』と呼ぶ。エレベーターが着て、私たちは乗り込んだ。ぎしぎしと重い音を立てて、扉が閉まる。すると彼は待っていたと言わんばかりに、口を開いた。
「稟議書がないのに持ち出し許可するなんて、ダメじゃないですか」
「承認されてないと使えないから、どのみち稟議は申請しなきゃいけないよ」
こう見えて青木は正義感が強い。人事が採用する時に最も重視される。しかし銀行員人生が長くなるにつれて、すり減っていくものでもある。
「どうしてあんな人が、うちの銀行で働けるんですかね」
エレベーターが停まった。青木が出て、私もあとに続いた。銀行の外は、ひどい雨だった。梅雨入りしたばかりだ。東京駅から山手線に乗ると、青木は口を開いた。
「黒川さん、怒ってます?」
「どうして」
「エリサさんの事、僕が悪く言ったから。『慶應出てるからって調子に乗るな』って前に言われましたし」
「彼女は苦労人なんだ。昼間は当行で、夜はスポーツジムで働いてる。酒浸りの夫から、五人の子供を連れて昼逃げをした」
沈黙。電車は時刻通り運航している。災害でもない限り、単調な毎日が繰り替えされる。しかし普通であり続けることが、実は人生で最も難しい。
「旧CBD銀行の役員とジムで知り合って、うちの銀行で仕事をもらったんだ。財閥系の八菱グループと合併したから、福利厚生も良い。夫から精神的DVを受けない人生がこんなに楽しいのか、って言ってたよ」
「まさに宇宙飛行士ですね」
「は?」
「アナグラムです。文字を並び替えると、別の意味になるんです。これ女の子にうけるんですよ”moon star”は”astronomer”。”bad credit ”は”debit card”。”schoolmaster”は、修学旅行先でスマホ没収されたってぼやいてました。ログインボーナスがあるから持って行ったのに、って。”the classroom”だったら良かったのにな、って」
数字の暗記が得意な青木なら、アナグラムもお手の物だろう。
「エリサさんの研修、どんなこと習うんでしょうか」
「私たちも出たいよね。今度、研修資料見せてもらおうか」
私は香水を自分に振りかけてみた。青木は鼻をぐずぐずさせていて、気付く様子はない。ムスクとココナッツの甘ったるい香りを放つ香水は、彼女みたく大切な人を守れるような気がした。私は名刺入れを取り出し、香水を名刺にふきかけた。彼女と私が違う点は、守るべき『人』がいないことだった。
二
目黒支店は働く環境としては、最悪だった。駅から徒歩0分という立地は確かに良い。JR山手線の目黒駅の直下、地下二階に位置している。地下一階には都営地下鉄三田線・目黒線が通る。しかし地下なので当然、窓はない。電波も通らず、これは配属された行員が最も不満に感じる点だった。また、電車が通ると店全体が揺れることもある。そんな環境で一日八時間を過ごすのだ。地下の倉庫を見張るエリサ並みの強靭な精神力を持たない限り、病んでしまうだろう。
ロビーを横切り、法人営業課のフロアへ入っていった。支店長のデスクへ向かい、名刺を差し出した。彼は電話中だった。名刺を見ると、受話器から口を離し、「あぁ、ご苦労さん。第三応接室をおさえてるから、そこ使ってな」とすばやく言った。そうして法人事務課に向かい、「三井さん、本部の方たち案内してや!」と叫ぶ。そうしてまた、通話に戻った。
「ご案内しますね!」
背後から女の子から声をかけられた。語尾に音符マークがつきそうなほど、軽やかな声色だった。白い半袖のニットにふんわりとした紺色のスカート、いかにも東京が好きそうな子だ。丸の内の飲み会に誘えばいつでも来てくれるだろうし、彼氏が名古屋に転勤になったら別れそうだ。若くてかわいらしいので、青木好みだろう。彼の方を見やると、どこか後ろめたいような顔をしていた。
応接室は机が一脚と、ソファが四つ。窓がない四畳ほどの部屋は圧迫感があり、控えめに言っても不快だった。早々にお帰りいただきたい客にはうってつけかもしれない。青木が持ってきたノートパソコンを開き、キーボードを叩き始めた。
「稟議、書けそう?」
「そっちは大丈夫そうなんですが、もう一つの調査が難航してて。電波が悪いんですよね」
「もう一つの調査、ね」
私は意味ありげに呟いた。彼の人脈は広い。彼によると、女の子たちと飲み会活動をするのも、情報を集めるため。つまり業務の一環らしい。「飲み代、経費でもらいたいくらいっすよ」とこぼしていた。
私は画面右下に表示された時計を見た。十三時を過ぎている。三井さんに電波の件を相談しに行くと、彼女が支店長に相談し、ビルの七階を使うよう指示された。青木は不満そうに声を上げた。
「え、七階ですか? 同じフロアで、パソコン貸してもらえないんですかね」
「見られたら困るんじゃない。七階は会議室の他に休憩室と女子ロッカーもあるって」
「女子ロッカーですか」
すかさず声の色が変わった。男子校育ち、男子寮の住民、彼女のいない二十二歳である。
「使うのは会議室だよ」
「そんな怖い顔しないで下さい」
「三井さんとかタイプなんじゃないの」
「え? どうして分かるんですか」
「いかにも男性が好きそうな女子だから」
「僕も始めはそう思ったんです。いつも年下なんですけど、もしかしたら年上でもいけるかなって。でも、何か違ったんですよね」
彼の話によると、事務職の女子との飲み会で既に会ったことがあるらしい。連絡先も既に交換していた。彼女のインスタを見て「違う」と思ったという。見せかけだけのSNSに違うも何もあるかと思ったが、その議論は長くなるので保留にしておいた。
「じゃ、七階で仕事してきて。私は店で事情聴取してくるよ。何かあったら降りて来て。社用携帯も一応あるけど、電波通じないから意味ないか」
後半は青木の耳に入っていたか分からない。男という生き物は一度熱中すると、人の話が聴こえなくなる。元夫と「私のこと無視しないでよ」と何度も喧嘩をしたと、エリサが言っていた。
「黒川さん。僕も行きましょうか?」
「良いよ。部下を危険な目に合わせるわけにいかないし」
「もっと頼ってくれても良いんですよ」
私が返事をする代わりに、部屋がかすかに揺れた。次いで電車が通る音がして、天井を見上げた。そういえばここはメトロが真上にある店だ。視線を元に戻すと、青木がいない。机の下に隠れていた。私は黄瀬次長の言葉を思い出した。「彼、新人の中で一位だよ。だから黒川さんを指導担にしたんだ」と言っていた。
新卒で法リ総へ配属されたのは、五名。表向きは新入行員研修と見せかけた選抜試験、別名『ヘル・キャンプ』の合格を意味する。総合職は五百名が採用されるから、百名に一人の逸材のはずだ。しかし二か月を共に間過ごした印象では、彼に適性があるとは思えない。優しすぎるのだ。女好きではあるが健全で、まっすぐな男の子だ。次の人事面談では、彼の異動を申し出ようと思っていた。銀行の人事は、必ずしも適材適所というわけではない。希望通り行くことは、もっとない。
応接室を出ようとすると、青木の声が追いかけて来た。吸い込まれるような青色の瞳が私を捉えた。
「いってらっしゃい。あんまり無理しないで下さいね」
彼は少しだけ、微笑んだ。弟の五月(さつき)と笑い方が似ている。もし生きていれば、青木と同じ年齢だ。
「あ……うん」
不意をつかれ、言葉が出なかった。別れの言葉は苦手だ。特に一日八時間一緒にいて、かけがえのない存在になってしまった者とは。どうして誰もが気軽に口に出せるのだろう。次に会える保証は、どこにもないと言うのに。
私は足を引きずるようにして、応接室を出た。法人営業課、法人事務課、お客さまサービス課、ロビーを歩きまわり、ATMで監視カメラを見上げた。戻らない時を求めてさまよう、亡霊のような顔をしていた。
・・・
間藤に声をかけられたのは、入口に最も近いATMの前だった。
「良いにおいがする」
開口一番、こんな調子である。私が面食らっていると、彼は続けた。
「なんだか、おいしそうな香りだね」
「そりゃ、どうも」
ぶっきらぼうに言い放つが、彼にとっては逆効果だったようだ。脳内がお花畑になる装置でも埋め込まれたのだろうか。銀行員の男性は自分に欠点はなく、婚活市場で無双できると思い込んでいる。一応は結婚して子供もいるが、そんなの関係なく、全ての女性に好かれるはずだと信じている。非難も誉め言葉に変換してしまうのだ。
「なあ、面白いものがあるんだぜ。見たいか?」
彼は急に切り出した。私のためらいを、彼はイエスと取ったようだ。
「付いて来いよ」
彼は立ち上がり、私の腕を引いた。私が身をこわばらせると、彼は嬉しそうに言った。
「ほら、そう照れんなって」
彼の理性は一体どこへ行ったのだろう。目黒雅叙園か八芳園あたりで、すみれでも摘んでいるのかもしれない。しかし彼についていけば、謎を解明できるかもしれない。私は色気のある女性を演じることにした。こうして私は彼と金庫へ、セーフティボックスが隠していた地下室へ、デートをすることになったのだ。
階段を降りると、感じの良い空間が広がっていた。セミダブルのベッドをダウンライトが照らし、壁掛けのテレビもある。ナイトテーブルにはペットボトルの水が二本置かれ、花瓶には薔薇もいけてある。ベッドサイドにはティッシュ箱と、赤ワイン『Olive you』も置かれていた。
「ほら、乾杯しようぜ」
「このワイン、A社からもらったやつね。確か『I love you』のアナグラムだって」
「あぁ。お前が接待交際メモつけてくれたよな」
「一緒に飲むこと、考えてたわ。私はお酒、だめなんだけど」
「業務中に地下に来ておいて、だめも何もないだろ」
彼は地上にいる時よりは、ずいぶんとリラックスして見えた。ハイスピードでワインを飲み、主に彼の半生を語っていた。幼少期の話から、やっと地下室の話にまで時間が追いついた。この金庫は、たまたま金庫で探し物をしていて知ったのだという。
「暗証番号はどうして分かったのかしら」
彼は微かにほほ笑んだ。薔薇の花弁が落ちるかのように、ささやかな笑みだった。
「俺の誕生日だったんだよ。開けるしかないだろ。残業してて、辺りに誰もいなかったしな」
「残業ね、家庭があるのに。まだお子さん小さいんんでしょ?」
「どうせ家に帰っても『もう帰って来たの。あんたのご飯ないわよ』って言われるだけだ」
いじけている姿は、男子高校生そのものだ。受験勉強から仕事まで半生を頑張り続けてきた、エリートの悲しい末路だった。
人生のうち、仕事が占める割合など三割程度だ。あとの七割である家族とか、友人とか、趣味とかの方が大事だ。しかしその事実に気付けない。三割が一番だと思い込んでしまう。気付いた頃には、七割を失っているのだ。水やりを忘れた、花のように。
私はナイトテーブルに置かれた花瓶から、薔薇の花を一輪手に取った。すぐ傍のゴミ箱に捨ててあったものは、見なかったことにして。
「たまには家に花でも持って帰ったら?」
「嫌だね。目の前でへし折られるだけだ」
「無言で渡したら、そうなるでしょうね。『育児、任せきりでごめんな。いつもありがとう』って添えるだけで良いのよ」
「……うるせえよ。お前、何様だ」
彼は私の手から花を奪った。私は押し倒された。薔薇の花弁は散らないよう、テーブルの上に置いてあげた。
・・・
三
地下室では半裸の男が、ベッドで寝息を立てていた。私は彼の首元へ、そろそろと手をのばした。首にかけられた行員証を確認するためだ。彼の首元にある注射器の跡を見ていうちに、悪い予感に襲われた。寝ている人間は、こんなに規則正しく寝息を立てない。彼は急に起き上がり、私の服に手をかけた。
「おい、やらせろよ! 期待させといて!」
彼の目は血走り、かすかにブドウの匂いがした。アルコールにやられているらしい。ナイトテーブルには空の花瓶が置かれている。私は花瓶を手にとり、彼の頭に向かって振り下ろした。沈黙。彼の目は焦点が合っておらず、左右で黒目が別の方向を見ている。そうしてベッドに倒れこんだ。脳しんとうを起こした者の、お手本のような症状だった。私は服装の乱れを直しながら、辺りを見渡した。
「ここが、人を消す金庫の正体?」
彼はまだ伸びており、返事はない。私はテーブルに置かれた彼のベルトを使い、後ろ手に縛りあげた。脳振とうなら早くて数分、遅くとも数時間後には起きるだろう。それまでに部屋を調べることにした。と言ってもユニット式のバスルーム、コンロとシンクのみのキッチンだけだ。最低限、人間が住めるだけの部屋だ。小学校なら守衛室、病院なら当直室といったところか。だが、ここは銀行だ。しかも金庫の地下。
トイレに入り、サニタリーボックスの中を調べた。 陽性の反応が出ている妊娠検査薬が二本と、生理用のナプキンが一枚入っていた。鮮血がついている様子を見ると、まだ新しいらしい。 検査薬にはそれぞれ ネームペンで名前が書かれていた。 それらは被害者の二人、 休職中の行員の名前と一致していた。ただしトイレに水は通っていない。 それが何を意味するか考えるのは、後回しにしておいた。今は部屋を調べるほうが先だ。 すぐ横にはバスタブがある。天井には換気扇があるが、 明らかに不審な点があった。本来なら閉まっているはずの蓋がない。
「やっぱり……」
換気扇からは、かすかに電車の音が聞こえた。おそらく地下鉄の駅に繋がっているのだろう。金庫から入り、出る時はこちらを使っていたのかもしれない。バスタブに乗ってみたが、身長 162センチの私では届かない。170センチの青木でも無理だろう。届いたとしても、懸垂ができて、 自分の体重分を 持ち上げることができるほどの 力がないと無理だ。ナイトテーブルがあれば上に登ることは可能かもしれない。一度降りて、鏡を見た。かすかに歪んでいる。その鏡には、男が映っていた。彼の瞳には憤怒の色が浮かんでいた。それは先程まで情欲にまみれており、ベッドの上で寝ていた彼だった。
「俺をはめやがったな!」
彼は左手の拳を振り上げ、私は薬指を見つめた。左利き、そして既婚者。ドン、という衝撃音がバスルームに響き渡った。
どうやら怒りは鏡にぶつけることにしたらしい。鏡にはひびが入り、大きく傾いている。
「くそ。課長まで、あと一歩だったのに。遊びもうまくいってたのに……」
彼は手から血を流しながら、がっくりとうなだれた。その血は先程サニタリーボックスの中に捨ててあったものを思い出させた。
「安心してください。クビにはなりませんよ」
「文書管理センターとか、ロクでもない部署に左遷されるんだろ」
「そうでしょうね。業務中に不純異性行為してたんですし」
彼は驚いて目を上げた。どうして分かったんだ、と物語っている。
「ゴミ箱に捨ててあったものを見れば、分りますよ」
「ティッシュか? 花粉がひどいからな」
「花粉症なら、もっと鼻に優しいものを使いますよ。DNA鑑定に出しますか?」
視線を鏡に向けると、紙がはさまっていた。私はそれを取り出した。そこに書かれていることは、すべてを説明していた。
「何だ、それ」
「大したことありません。この部屋が作られた理由です」
彼は紙を私からひったくった。
「金庫から地上に出る地図……? 裏にあるの、何だこれ。遺書?」
「はい。どうやらこの部屋は、犯罪のために作られたようです」
私たちはバスルームを出て、立ったまま壁によりかかった。ベッドに腰かける間藤代理の横にはナイトテーブルがある。その上に置かれた、しおれた薔薇を見ながら、私は言った。
「かつて二人組の泥棒が金庫から盗みを働くために、トンネルを掘っていました。換気扇から外に出れるけど、外から開けてもらわないと出られない仕組みみたいです。だから片方は金庫から入る。そう書いてあります」
「あぁ。でもこの部屋は? トンネルだけじゃだめなのか?」
「ほとぼりが冷めるまで、身を隠しておくための部屋だったみたいですね」
紙によると泥棒の片割れは、日の当たらない部屋で過ごす日々に発狂したらしい。最後の方には文章が文章になっていなかった。耐え切れない痛みを抱えた人間は文章を書く傾向にある。泥棒稼業も楽ではない。
「ほとぼりが冷める、ね」
そう呟き、彼はうつむいた。
「出口は一つしかない。誰もがそう思っちまうんだよな」
私は彼を見た。はたから見れば大企業で、家庭を持ち、順風満帆に見えるだろう。何が彼を不倫に走らせたのだろうか。
「かみさんと喧嘩したんだ。腹いせに浮気してやろうと思った。で、店の中にちょうど良いご婦人がいた。結婚してるから、俺に別れろとか言ってこない」
「彼女たちが休職した理由は?」
「二人とも妊娠したんだ。夫とはレスだったらしい」
それはトイレのサニタリーボックスの中にあったものを思い出させた。
自己愛が強い男の例に漏れず、彼はよく話をしてくれた。不倫に金庫をよく使っていたこと(音が漏れないし、イチャつくのに良いとこだった……そんな顔するなよ」)、セーフティボックスを見つけ、誕生日を入力してみたら開いたこと。支店長が私に連絡したことは知らなかったらしい。
「はぁ。やっと若い子もいけそうだったのに」
「トイレに生理用のナプキンがありましたよ」
「生理だったのか。どの道、ダメだったってことか……」
ため息は、床に転がっている花瓶へ向かって消えて行った。その花瓶を誰かが拾った。三井さんだった。
「み、ミミ?!」
彼の驚きは、その『若い子』が三井さんであることを示していた。
「フロアにいないから、探しに来たのよ」
「い、いつから聞いてた?」
「私の前に、さんざん遊んでたのね。おかしいと思ってたのよ。謎が解けたわ」
彼女は空虚な目で、水も花も入っていない花瓶を見つめていた。そうして私に向き直った。
「貴女は賢い女性のように見えます。どうして不倫なんてするんですか」「誰かに愛されたい。必要とされたいの」
健全な社会人は、承認欲求を仕事で満たす。しかし銀行の仕事は代わりがきくものばかりで、やりがいなんてない。金融業界の給料が高い理由は明確だ。仕事がつまらないからだ。
特に三井さんのような事務職は顕著だ。だから彼女たちは趣味や家族に幸せを見出す。しかしそこに見いだせないと、別の道を選ぶことになる。地下へ行くように。しかし三井さんには、どこか違和感を感じた。轟音と揺れが起こる。電車が通ったらしい。
「平気なんですか? これ」
「よくあるわ。うち、メトロの下に店があるでしょ。ちょうどこの上は車庫ね。でも、ちょっと今のは大きいかもね」
またもや部屋が揺れた。電車にしては頻度が多い。そうしてそれは大きな揺れに変わった。
「じ、地震だぁ!」
間藤代理が叫ぶのと、地面に叩きつけられたのは同時だった。私はベッドの下に避難したした。どのベッド下がそうであるように、永年の埃やゴミでいっぱいだった。ペン、空き缶、割り箸、綿棒。『お腹いっぱいの星』と書かれた、空の瓶。そして赤ん坊のように体を丸めている、間藤代理。彼の肩を叩くと、はっとした様子で言った。
「東日本の時、あっちにいたから分かる。これで終わりじゃない。デカいのが何度かくるぞ」
「行きましょう。早く出ないと、扉が歪んで出れなくなります」
ベッドの下から出ると、扉の前に三井さんが立っていた。
「早く! もう歪み始めてる。でも三人で押せば何とかなるかも!」
私たちは体当たりをしようと、後ろへ下がった。突如。灯りが消えた。停電だ。辺りは闇に包まれ、不気味な静寂が広がった。数秒後、とてつもなく大きな揺れが、部屋を襲った。
「だめ。もう、開かないわ」
「このまま救助を待ちますか?」
スマホのライトで照らされた彼女は、首を振った。
「私たちがここにいるって、誰か知ってる?」
「もう、だめだ。開かない! ここで死ぬんだぁ!」
間藤代理の叫び声を聞き、私はあることを思い出した。バスルームへ向うと風呂は壊れていた。しかしシャワーを浴びに来たのではない。換気扇の蓋は開いたままだ。後から来た二人も、同じことに気付いたようだ。
「ここから出られるかもしれません」
「肩車だ。いつも、そうやって外に出てた」
まず、三井さんが出て行くことになった。次に私。「ナイトテーブルを使えば届く」と言う間藤代理が、最後となった。
間藤代理の肩車で三井さんが出て行った後、少しの揺れがあった。その間、彼はナイトテーブルと花瓶を持ってきた。彼のもとへ近づくと、ぽつりと言った。
「死ぬわけにはいかないんだ」
だったら早くしてください、と言いかけたが、彼は言葉を続けた。
「娘たちも、まだまだ金もかかる。ずっと銀行にいられること前提に、ローンも家計も組んでた。出向させられるわけにいかないんだ」
彼は私を見た。その瞳は見覚えのあるものだった。『リスク』と『リターン』を天秤にかけて、明らかにリスクの方が大きい判断をした者の目だ。
「お前がここで死ねば、俺はバレずに済むんだ、よ!」
彼は私のみぞおちを蹴り飛ばした。バスルームの外に吹っ飛ばされ、壁で強かに背中を打った。私が痛みでうめいている間に、彼は花瓶で私の頭を打ち付けた。暴力は必ず自分に返ってくる。
幸い気を失うことはなかった。しかし彼がナイトテーブルを使って換気扇の外へ出て行く様子は、ただ見ているしかない。私はよろめきながら立ち上がった。頭と腹と背中が訴える痛みに耳を傾けず、ベッドへ向かった。掛け布団と枕をナイトテーブルに敷けば、換気扇に届くかもしれない。しかしベッドにたどり着く直前、これまで以上に大きな揺れが襲った。
私はベッドに倒れこんだ。「デカいのが何度かくる」という彼の言葉を思い出した。いつだって手遅れになってかれ気付くのだ。そういえば、と。
「諦めるわけには、いかないんだよ……」
そう呟くと、 脳裏に弟の姿が蘇る。両親は家を空けがちだったから、七歳年上の私がよく面倒を見ていた。走馬灯のように、赤ちゃんの頃からの姿がフラッシュバックした。そうして時間は彼を最後に見た、十五年前の時で止まった。
彼が十二歳の時、私は大学入学を機に上京することになった。中学入学前の春休みを使い、彼に早稲田寮までの引っ越しを手伝わせていた。あの時はまだ、人に頼ることができたのだ。
「お腹空いたな。さつき、何か買ってきてよ」
彼は困った顔をした。段ボールの中の本を、棚にしまってくれていた。
「もう、待ってよ。あと少しで終わるから」
「まだ終わってないの? 本当に仕事が遅いんだから」
「ていねいと言って欲しいな。姉さんが買ってくればいいじゃん」
「素敵な響き。はいはい、分かったよ」
私は部屋を出ようとした。彼は立ち上がり、見送りに玄関まで来てくれた。「東京は怖いところだから、戸締りはしっかりしなさいとね」と言いながら。そして彼は手を振った。サイズの合っていない中学の制服を着て、恥ずかしそうに笑いながら。「いってらっしゃい」という声が、閉まる扉の隙間から聞こえた。まるで新婚夫婦みたいだ。行先は徒歩5分のコンビニだが。良く晴れた三月の終わりで、空は深い青色だった。監獄のような実家から脱出し、東京で再出発する。人生をやり直すのだ。そのことを考えただけで、足取りは軽くなった。
しかし部屋に戻ると、彼は消えていた。現在に至るまで、ずっと―――
目を開けると、ベッドには薔薇が置かれていた。シーツは女の肌のようになめらかだった。あと十秒ここで寝ていられるなら、残りの全ての人生を差し出しても良い。私は疲れていた。人を頼れなくなった自分に疲れていた。消えない罪の意識に疲れていた。しかし弟を救わなくてはならない。勝手に死んではいけないのだ。
「大丈夫。私は一人で何でもできる……」
両親は弟のことは諦めていた。離婚をし、それぞれ子供ももうけている。失ったピースに代わるものを既に見つけている。 人はそうやって苦しみを乗り越えていく。 幸せな人生を送る方法は山ほどある。 本屋に行けば良い。最も大事な能力は忘れることだ。私だけが忘れられない。 青木に親近感を覚えるのは、彼が覚えることが上手、つまり忘れることが下手な人間だからだろう。
「私が死んだら、さつきを覚えてる間が、いなくなるんだ……大丈夫。私は一人で何でもできる……」
私はベッドから起き上がった。薔薇だと思っていたものは血だった。まだ新しい。三井さんのものだろうか。部屋には地下鉄特有の、金属の焦げた匂いが漂っている。電車は走っていないはずだ。となると、駅ごと崩れてくるのだろうか。電車が落ちてきてはひとたまりもない。吐き気をこらえ、扉へ近づいた。力に任せて、体当たりを繰り返した。最後の一突きをすると、私はその場に崩れ落ちた。もう何しても駄目なことは明らかだった。私はうずくまり、 金庫へ入る直前に青木とした会話を思い出した。どうしてそんなものが浮かんできたかは定かではないが、おそらく人生で最後で、最良の記憶だったからだろう。
数分前、間藤代理をのぞく法人営業課の行員に事情聴取を終え、私は会議室で休憩することにした。青木の顔を見ると、稟議の申請がかんばしくないことは明らかだった。私はカフェオレを彼に手渡した。地上二階のコーヒーチェーンで買ったものだ。そして自分のアイスコーヒーにストローを指した。
「バズーカ、今回は使えなさそうです」
「どうして?」
「大きな案件じゃないから承認できないって。審査部に電話もしたんですが」
「そっか。ま、本来なら持ち出す前に申請あげるべきだったしね。私が急ぎすぎたから」
外訪カバンに入ったままの、万年筆のような『バズーカ』を見た。承認されなければ、ただの棒である。私は金庫を調べに行くことにした。飲み干すためだけにコーヒーをすする。コンビニよりおいしいかと思ったが、味の違いはちっとも分からなかった。高級ホテルのものだと言われたら、そのようにも感じるだろう。一方で坊ちゃんの青木は豆がどうのとか言っている。舌は肥やすべきではない。食事がまずくなる。立ち上がると、青木が声をかけてきた。
「黒川さん、怖くないんですか?」
「別に」
「さすがですね。選抜試験、あの代で唯一の合格者」
「どこでそれ聞いたの?」
「審査部の担当、朱里調査役です。黒川さんと同期でしたよ。『悪いな。あの一件があるから黒川さんの稟議、特に武器まわりは厳しくするよう言われてるんだ』って」
名前を聞いても誰かは思い出せなかった。行員番号の数字を見ると入行年度が分かるから、青木は私の話を振ったのだろう。行員番号の二文字目と三文字が入行年度になる。例えば『12345678』なら、入行は2023年ということだ。同期ということは、あの試験でぶちのめした一人なのだろう。
「それにしても納得いきません。なんとしても承認もらいます」
「珍しいね。いつになく熱心じゃない」
「うーん。被害者とか事件とかは、正直どうでも良いんですけど」
人事面談で彼を異動させる根拠を一つ得たな、と思った。しかし彼は続けた。
「黒川さんがつらい思いするの嫌なんです。黒川さんが思う以上に僕はそう思ってるんで、全力で稟議は通します」
私はもう一度、青木に会いたかった。やさぐれた私を気遣ってくれて、たとえ上司と部下の関係であっても、優しくしてくれた彼に。そうして弟によく似た、彼の名を叫んだ。
「お願い! 助けて、壮太!」
扉が轟音とともに吹き飛び、私も衝撃を受けた。朦朧とする意識の中、誰かがバズーカを肩に担いでいた。その人は私を抱きかかえた。あの甘い匂いが鼻をついた。
事件の後、待機場所として命じられた支店長室は、男がくつろげるものを揃えた部屋だった。上質なソファ、どっしりと構えた応接テーブル、ヨーロッパの港町の絵画。デスクに置かれた無機質な電話機は、その中で存在感を放っていた。今朝うちの部署にかけてきたのも、この部屋からだろう。他の行員に聞かれてはならない話は、支店長室の電話が使われる。私はソファに座り、部屋を眺めた。すべてが磨き上げられ、ちり一つ落ちていない。支店長は綺麗好きらしい。潔癖症に近いといっても良い。隣に座る青木に話しかけられた。
「病院、本当に行かなくて良いんですか?」
「大丈夫。で、本当に地震ってなかったの?」
青木は首を振った。その目は「やっぱり病院に行った方が良いんじゃないですか」と言いたげだ。
「地下鉄が車庫に入る時、床が抜けて車両ごと落ちたらしいです」
「大事故なのに、騒ぎになってないね」
「犠牲者も被害もないんで、わざわざ公表しないんじゃないですかね」
あの部屋に残っていたら、圧死していただろう。私が今ここにいるのは彼のお陰だ。
彼は近しい人を失くした人間が鬱病になる割合や、鉄道事故による死者数な ど、ありとあらゆる数字を使って資料を作った。しかし朱里は「体裁は整ってるけど……」と渋っていた。そのため奥の手を使った。朱里が過去にSNSで「いいね」をした女の子を分析して、彼が好みの女の子と友達になっておいた。その子のリストを作って「女の子紹介します」と交渉したので。承認はすぐさま下りた。こうしてバズーカを使えるようにしたのだった。
控えめなノックの音がして、事務課の行員が入って来た。お盆にはお茶が三杯つがれている。三井さんだ。続いて支店長が入って来た。彼は私たちの向かいに腰かけた。
「まあ、飲んで」
私たちはお茶をすすった。香ばしく、ふくよかな味だった。
「美味しいですね」
「せやろ。三井さんはお茶を淹れるのが上手なんや」
支店長もお茶を飲み、テーブルに置いた。コトリとも音は立てなかった。一流の仕草だ。内ポケットから取り出した万年筆も、メモを取るためのボードも、すべて一流の品だった。それは行員に少しの間、夢を見させてくれる。「頑張れば、俺もなれるかも」と。儚い夢だ。テレビでロケットを見た子供が「宇宙飛行士になりたい」と言うのと似ている。九割の子供は、宇宙に行けないまま一生を終える。夢が叶わなくても、落ち込むことはない。自分は多数派だった。それだけのことだ。
「三井さん、ちょっと残ってくれへん?」
しかし、多数派で人生を終わりたくない人間もいる。
彼女は壁時計を見た。四時半。定時は五時十分なので、まだ時間がある。断る理由が見つからないからか、彼女は簡易椅子を私たちと支店長の間に持ってきて、腰を掛けた。
「三井さんは間藤くんに金庫の地下室へ連れていかれた。それは合ってる?」
「はい。淫らなことはしていません。女の子の日でしたし」
彼女は自虐の笑みを浮かべて言った。その声は氷のように凍てついていた。
「地下室の上は車庫やった。昔の泥棒がトンネルを掘ってたから、スカスカや。連日の豪雨もある。電車の重量に耐え切れず、部屋が崩れ始めた。まず三井さんが出たけど、次に来たのは間藤くん一人やった。彼の言動に不信感を覚えて、青木くんに連絡を取った」
「はい。申し訳ございませんでした」
すまなそうな表情を浮かべ、彼女は言った。見事な謝罪だ。過去に演劇部でも所属していたのだろうか。ここまで上手く謝ることができるなら、入った甲斐があったというものだ。しかし支店長は軽くうなずいただけだった。そうして青木に向き直った。
「七階で稟議を書いていた青木くんは、本部から承認をもらった。晴れてアイテムが使えるようになり、三井さんから連絡を受けた。金庫に行くと、セーフティボックスの前に名刺が落ちていた。バズーカで扉をぶっ壊して、黒川さんを助けた。三井さん、他に何かある?」
「ありません」
演技上手な彼女の口から出た言葉だが、今回は誰の耳にも嘘にしか聞こえなかった。支店長はお茶を飲み、また優雅な動作でそれをテーブルに置いた。空っぽの湯呑は、解散の合図だ。
「じゃ、みんな帰ってええよ。金曜やし、予定もあるやろ。三井さんも週明けから忙しくなるやろうから、しっかり休んどき」
支店長室を出るなり、私は青木に声をかけた。
「ねえ、いつの間にバズーカ使えるようになったの」
あの武器は『リスク』を『コスト』に変換することで使用できる。「怖い」「死ぬかも」といった『リスク』が心の中にあるうちは使うことができない。つまり青木が最も苦手とする武器のはずだった。
「気付いたんです。黒川さんを失うことが一番のリスクだって。僕が危険な目にあうことは、コストでしかないって」
「そんなに上司思いだったっけ」
「今まで甘えてたんです。黒川さんが何でもできるスーパーマンだし、人のこと寄せ付けないというか。でも「助けて」って言われたから、我慢しちゃう人だったんだ、って」
「おあついこと。それ、本部でやってくれない?」
三井さんがすれ違い様にからかい、自分の席に去って行った。私は彼女を見た。長い時間が過ぎた気もしたし、数秒しか経っていない気もした。
「すみません。女子トイレはどこですか? 案内いただきたいんですが」
遠くから、支店長の視線を感じた。相手を信用しきっていない者が見せる、特有の眼差しだ。人は偉くなるにつれて、そのような目つきが得意になる。
女子トイレに着くなり、彼女は言った。
「用を足したいのか、私と話がしたいのか、どっちなの?」
先程の従順な事務課員とはガラリと様子を変えていた。こちらが本性なのだろう。
「もちろん後者ですよ」
トイレの中に誰も避難していないことを確認し、私は続けた。
「間藤代理の首に、注射器の跡がありました。髪の毛を調べれば、四年前まで鑑定できます」
「睡眠薬よ。ワインにも入れたけど、効くまで時間がかかるからね。襲われた時に使ったの」
彼女は居心地が悪そうに身体を揺らした。
「もう良い? 支店長に怪しまれるから、早く出たいんだけど」
「脚本家の名前を教えてください。三井さんに間藤代理を好きな振りをさせて、金庫へ誘導するよう指示した人物を」
沈黙。彼女はすみれ色の瞳で、私をじっと見つめた。
「私は心から惚れてたのよ」
「それは演技です。私も騙されかけました。舞台の上では信じていたでしょう」
ショーが終わると、化粧を落とす。服を着替えて、元の自分に戻る。
「あなたから間藤代理の身を案じる発言は一言もでませんでした。彼は入院しています。脱出したあと、電車に跳ねられたんです」
彼女は洗面所前の鏡を見て、ため息をついた。彼女の呼吸に合わせ、かたちの良い胸が上下している。この胸に触れるなら、たいていの男はなんだって差し出すだろう。
「銀行で副業が解禁になったでしょ。行内便で届いたの。女優として、副業の案内が」
当行は四月から副業が解禁になった。しかし内情はひどいものだった。業務時間を侵食してはならないので、八時四十分から十七時十分の間は動けない。複雑な申請書を提出しなくてはならないし、上司の承認も必要だ。せいぜいが週末ボランティアで、収入を得た例は耳にしたことがなかった。行内副業を別にして。
「内線番号だったし、すぐ電話したわ。役者のキャリアについて悩んでたし、実績が欲しかったしね。そうしたら、今回の役を言われた。『ミミ』の役をね」
三月とうまく発音できないエリサは私のことをミミと呼ぶが、そのことは黙っておいた。今は関係ない。彼女は髪をかき上げた。夕方だというのに、見事な巻き髪だった。ピーチを思わせる、甘い匂いが漂った。
「黒川さんたちが来る日に彼を誘惑して、金庫に置いておく」
「陽性の妊娠検査薬を二本入れたのも、あなたですか」
うなずいて、微かにほほ笑んだ。
「被害者の女性に目が行くようにね。私も性的な嫌がらせは経験があったから、泣き寝入りはさせたくなかった。ベッドの下にレコーダーも置いたわ。部屋が崩れたから回収できなかったけど」
生理のナプキンをサニタリーボックスに入れたのは、潔白を証明するためだろう。役者はアドリブもできるだろう。演技を研究する、彼女のような者は特に。
「そういえばセーフティボックスの入口に、ペンが落ちてなかった?」
「いいえ」
「本当? あれ気に入ってて、直したかったんだけどな」
今度は私が目を見開く番だった。私と彼女の間に、誰かが金庫箱近くの掃除をしたことになる。私の驚きに気付いていないか、気付かないふりをしているのか、彼女は話題を変えることにしたらしい。
「こんなのあるんだけど、いる?」
それは千葉県浦安市にある、Dから始まる国のものだった。
「私、組合員だから、店で行けない子のチケット回収したのよ。明日は八菱デーでしょ」
「八菱グループが貸し切りの日、でしたっけ」
「ええ。何枚かあるわ。あげるわ」
「こんなにたくさん要りません。一緒に行く相手もいないですし」
憐れむような視線を向けられて、私は居心地が悪くなった。
「あの子、青木くんだっけ。誘ってあげたら? 上司として労ってあげても良いじゃない」
「私みたいな年上から誘われても、迷惑なだけです。若くも、綺麗でもないし」
「あら。そんなことないわよ。ちょっと表情がきついけど、スレンダーだし、黒くて艶のある髪してる。 その葬式みたいな黒いパンツスーツはいただけないけどね」
トイレの扉越しに、三井さんを呼ぶ声がした。課長だわ、と彼女が呟く。「三井さん! 締め業務をするから、そろそろ来てくれる?」
男性だから入ってこないと思いきや、 彼は勢いよくドアを開けた。事務課長は私が見えていないかのように、三井さんをまっすぐ見つめた。次に私を見たが、その表情には敵意がありありと浮かんで見えた。彼の口元は固く結ばれ、「その娘を連れて行くまで動かないからな」という決意がうかがえた。まるで子供を守ろうとする親鳥のようだ。自分の部下を守るために必死なのだ。こんな課長に仕えていたら、きっと銀行生活も楽しいに違いない。彼女は小さく別れを告げた。出て行く直前、私は言った。
「三井さんは明日行かないんですか?」
「行かない。あいつの見舞いでも行くつもり。そのまま死なれても夢見が悪いしね」
「じゃあ、さっきのチケットやっぱりもらえませんか?」
青木と店を出ると、さわやかな夜が広がっていた。空気は澄み渡り、先程の雨が嘘のようだった。濡れたアスファルトだけが過去の天気を知っているように思えた。店は駅直通なので そのまま上に行くこともできたのだが、外の空気が吸いたかった。だから直通の出口である西口でなく、信号を渡ったもう一つの出口、東口を使うことにした。
駅前のロータリーは人であふれている。今日は金曜日だ。オンラインサロンのオフ会らしい、プラカードを持った団体がいた。若い男性は、夜を一緒に超す相手を探している。マッチングアプリで待ち合わせたらしい男女が、お互い軽い自己紹介をして店へ向かっている。メトロは平然と運航を続けていた。駅の東口に着き、青木に声をかけた。
「じゃ、私メトロだから。お疲れ様」
「あれ? あのサウナ、田町ですよね。JRじゃないんですか?」
「同期のメーリスで『枠を譲ってくれ』ってまわってきたから、あげた。サウナスパアドバイザーとして行きたいんだってさ」
「ふぅん。色んな資格があるんですね」
誰もが自己実現で忙しい。そのなりたい自分になれるよう、副業はうってつけだ。しかし、それにつけ混んで利用するような人間もいる。
「ところで、こんなの見つけたんですが行きませんか?」
彼は私にスマホの画面を見せて来た。神田の『サウナラブ』。サウナ界のゴッドファーザーとして知られる米村さんがプロデュースした、有名店だ。
「サウナは嫌いなんじゃなかったの」
「黒川さんのこと、もっと知りたくて。叩けば色々出てきそうですし」
「パス。また来週ね」
改札を入ろうとすると、青木に腕を掴まれた。以外に強い力で驚いていると、彼はうつむきながら言った。
「サウナで女の子と出会えるかもって。サウナ女子、かわいい子多いんで」
「ナンパはやめた方がいい。断られた後、サウナ室や水風呂で遭遇したら気まずいでしょ。街中だと、そのまま別れることができるけどね」
青木に言いくるめられ、結局向かうことになった。次長に電話をかけると、留守番電話に繋がった。ショートメッセージを送るが、既読がつくのは数日後かもしれない。チュニジアへスターウォーズのロケ地を観に行っているのだ。
私はサウナ室でアロマロウリュウを堪能し、水風呂代わりの冷気椅子を経て、外気浴スペースに向かった。寝転び椅子に腰を掛けると、身体中から力が抜けて行った。遠くで青木の声がする。あれだけ注意したのにナンパをしているらしい。三セット目に整っている中では、そんなことはどうでも良かった。ずっと行きたかったパライソには行けなかった。でも、こうしてここに来ることができた。
「良いじゃないか。妥当な着地点だ」
私は呟いた。人生を少しだけ長く生きて、こうして折り合いをつけることがうまくなってきた。家庭から逃げるように仕事をして、合間に地下室で不貞を働く男のことを思った。自己実現を願いながら、今あるものを捨てきれなくて動けない女のことを思った。そのひとときは、一つの謎に行き当たった。
「金庫の暗証番号が、誕生日なわけがない……」
私は声に出していた。青木が近くに来た。一人で来たところを見ると、ナンパは失敗に終わったのだろう。「ナンパ講師、申し込みしようかな」と言いながら、彼は私の横に椅子を引き寄せ、そこに座った。
「どうかしたんですか?」
「新人研修でやってたよね。暗証番号にしちゃいけないもの」
「日付です。四桁の数字は、366通りしかないから」
「そう。プロにかかれば、あっという間に開錠される。誰かが誕生日に設定しなおしたんだ」
私はショーの登場人物全員を思い出した。
「青木は除外。今まで目黒支店に足を踏み入れたことがないからね」
「黒川さんも除外。カメラに残りますからね」
私は彼を睨んだ。彼は目をそらし、デトックスウォーターに口をつけた。そして、まずそうに顔をしかめた。二十代の男子は、健康に良さそうなものはだいたい嫌う傾向にある。
「間藤代理も違う。自分の誕生日に設定しない。三井さんも除外。部屋に行ったのは失踪事件の後だ」
「そうなると今回の事件に関係してる人、全員になっちゃいません?」
一人だけいた。それで全てつじつまが合う。しかし外れていたら、痛い目を見る。まだリスクはコストに変換できていない。
「誕生日がだめなら、何を暗証番号にするんですか?」
「行員は、自分の行員番号にする人が多いね。八桁のうち、下四桁。絶対に忘れないし、内部の人間が行員証を見るか、電話帳を見るかしないと分からない。事務課の子たちは代理で書類作るから、課長や支店長の番号も覚えてるみたいだけど……」
私は三井さんの渡してきたチケットの存在を思い出した。そこに書かれた番号のことも。
更衣室に戻り、チケットを見た。チケットの裏側には、識別番号が書かれている。その横に鉛筆で『2382』が書いてあった。一見、組合が発行したものに対して計算するために書いたように見える。そこに書かれた四桁の数字を覚えて、私は部屋を見た。そうして先程の外気浴スペースに行き、ナンパ講師のTwitterアカウントを検索している青木に、声をかけた。
「青木。支店長の行員番号は? 稟議あげる時、画面に表示されてたよね」
「はい。59552382です」
沈黙。 それが何を意味するのか 私には恐ろしくて考えることができなかった。ひとまず支店に電話をかけてみることにした。
「あ」
青木は小さく声を上げた。
「どうした? ナンパ講習の申込し忘れたとか?」
永遠に続くと思われる通話音を聞きながら、私は返した。
「それはちゃんとやりました。じゃなくて、間藤代理の名前って陸でしたよね。RIKUのはずが、名前の綴りはRICなんです」
「顔立ちからするに、親が外国人だからじゃない。それが?」
店には誰もいないらしく、私は通話終了ボタンを押した。 そして青木に向き直った。
「アナグラムですよ。”IM ACTOR”。私は役者です」
・・・
夜の空は深い藍色で、嘘も罪も世の中に一つもないようだった。広尾にある日赤医療センターは土地柄か、富裕層が患者に多いからか、気持ちがいい病院だった。周囲は緑に囲まれ、院内は広く清潔で、改装したばかりで新しい。過去に政治家や皇族が入院していたこともあると聞く。その際はワンフロアを貸し切っていたらしい。
私は間藤の病室へ入った。彼はベッドに寝そべり、スマホをいじっていた。
「お、ミミさん。見舞いに来てくれたの? やべえ、嬉しいな」
「ミミじゃなくて、ミイよ、三井。電車に跳ねられた割に元気そうね」
見舞い品の千疋屋で買ったゼリーを置く場所を探すふりをして、部屋を見渡した。冷蔵庫やシャワールーム、ソファなど、不自由なく生活できるものは一通り揃っていた。8畳ほどの広さに三食がつく生活は、下手な大学生よりいい暮らしに思える。
「何も異常ねえの、俺。すごいよな。一応検査があるから入院したんだ」
私はベッドサイドにある椅子に座り、彼を見つめた。銀行にいる時と印象が違う。もう、くたびれた妻子持ちには見えなかった。西麻布なんて目を瞑っても歩けるくらい、豪快な遊び人に見えた。患者衣をまとっているせいだけではない。表情の作り方、声の出し方までが異なっている。 私はある考えに思い至った。
「あなたも演技してたの?」
彼の唇は弧を描いた。それは肯定の意と取って間違いなさそうだった。彼はベッドに放り投げ、身を起こした。たっぷり寝て起きたばかりのせいか、 健康そのものに見える。
「自分だけだと思ってたのか? あの石橋を叩き壊す銀行の連中が、そんなリスク冒すわけないって」
「被害者がいたじゃない。女性が二人、休職もしてるわ」
「年齢が高い女性が選ばれたには、それなりに理由がある。別に俺の趣味じゃねぇぜ。上が決めたことだ。うちの銀行、勤続十年以上なら休職しても給料がほぼ満額もらえるんだよ 。あのご婦人たちは出世とか興味ないみたいだっただから、仕事を休めて金も出る話に飛びついたんだろうな。今頃旦那や子供と、ハワイでも楽しんでるんじゃないか」
私は拳を握りしめた。銀行にとって私たちは駒でしかない。潰れれば、また 新しいものが補充される。
「まあ元気ならいいわ。心配して損しちゃったわ。私はもう行くから」
「どこへ行くんだ?」
「どこにでも。あなたに関係ないでしょ」
「また店で会えるのかな」
「さあね。調査委員会がどこまで手を緩めてくれるか次第じゃないかしら。あまり忙しい部署に飛ばされるのは嫌だわ。お芝居の勉強もあるしね」
彼はベッドから立ち上がった。顔に浮かぶ艶めいた笑みは、ぞっとさせるものがあった。
「それなんだがな、良い話がある」
彼と私の距離は三センチほどに詰められた。薄茶色の瞳は私を捉えて逃さない。捕食者の蛇のような目をしていた。
「良い話にはもう乗らないわ」
私は精一杯、気丈な声を出した。
「お前は脚本家を間違えたんだ。もっとでかい芝居を打たないか?」
「お断りします。私は自分の力で夢をつかむの。近道は無いって気づいたん だから」
彼の手を振り払い、今度こそ病室を出ようとした。
「目黒支店の取引先に芸能プロダクションがあるんだけどな」
それは私の足を止めるのに充分な言葉だった。ホシプロ、ラプロなど、芸プ ロは確かに取引先として存在する。芸能人が通帳紛失で来店することもある。
「クリスマス公演に向けて、オーディションやるみたいなんだ。興味あるか?」
沈黙。私は腹が立ってきた。いつまでも夢を捨てきれない自分に。うまい話だと思って乗っかり、そのために裏切られる人生に。そうして、危険と分かっていても進んでしまう道に。「三井さんの年齢だと、ドカンと売れるのは難しいよ。TikTokで乳揺らして踊るとかしないと……」忌々しい事務所で言われた言葉が蘇る。私は彼に向かって歩き出した。彼はニヤリと笑い、私と握手をした。それはファウストとゲーテのような、悪魔の契約を思わせた。魂を売り、望みをすべて叶える。万が一のために、ランドのチケットに暗号を書いておいた。あの人が金庫の暗証番号を変えたことを知っているのは、私だけだろうから。
四
翌朝は梅雨と忘れてしまうほどの快晴で、昨日の金庫の事件が嘘のように思えた。いつもは日の当たらない場所で働く八菱グループ社員のために、浦安のレジャーランドで一生分の日光浴をさせてくれるかのようだ。
「こら! 順番抜かすんじゃないよ!」
エリサの声がランドに響き渡る。キャラメルポップコーンのトラック横にある長蛇の列に割り込みをしようとした男の子が、彼女に首根っこをつかまれていた。甘いにおいに我慢できなくなったのだと彼は良い、彼女は昼食前だからと言い聞かせていた。待っている人たちはその様子をニコニコと眺めている。これが平日朝の蒸し暑く混み合った山手線では、そうはいかなかっただろう。しかし、ここは夢の国だ。母親業も普段より速度を落とした運転にしていたのだろう。「必ず昼ご飯は完食する」という息子の説得により、私たちは列に並ぶことになった。エリサはため息をついた。
「本当に良かったのかい? 子供の世話なんかに付き合ってもらっちゃって」
「大丈夫だよ。特に予定もなかったし」
正確にはカフェで証券外務員の更新試験の勉強をして、本屋で立ち読みをして、サウナに行く予定だった。しかし、そんなものはどうとでもなる。子供がいたら送っていたであろう日常を疑似体験するのも、悪くない。
「あっちの青木は大丈夫か分かんないけどね」
彼の予定は場所が変わっただけだ。おそらくレストランで、ナンパ講習を受けている。いつもと違うのは、エリサの子供を見ながらだということだ。
「も、もう勘弁して……」
予想に反して、青木が草むらから現れた。エリサの息子の双子の妹を追いかけていたらしい。彼の疲れ切った様子は小学校六年分をたっぷり使われた、ボロ雑巾を思わせた。
「あれ。ナンパの講習動画を観ててたんじゃなかったの?」
「途中までです。この娘が飽きたって言い出して、あれに三回も乗らされたんですよ」
彼は兎の看板を指さした。丸太に乗り、水の上を滑るコースターだ。
「そっか。絶叫系、苦手だったな」
「リスクしかないじゃないですか、あれ……」
今日は八菱グループの社員が貸し切りだ。いつもは混みあうアトラクションも、本日は乗り放題だった。
「まあね。でも、意外と空いてるね。もっと混んでると思ってた」
「あれ。ミツキは来た事なかったのかい?」
「黒川さんは大学一年以来、彼氏できたことないですからね」
青木を睨んだ。あの日、サウナの後にサウナ飯を食べに居酒屋へ行った。そこで色々と話してしまったのだった。抜群の記憶力を誇る青木には、絶対に話したくなかったことまで。
女の子がだだをこね始めた。小学生低学年までの集中力は、年齢×一分だ。この子は六歳だから、七分程度だろう。彼女はアトラクションの列へ走って行った。うんざりした顔で、青木がついていく。その様子を見送っていると、スマホが振動した。土曜昼にかけてくるのは不動産営業の電話か、ヘッドハンティングだ。時間泥棒の相手をしている暇はない。しかし今回はやけに振動時間が長い。不吉なものに感じて着信相手を見ると、『非通知』だ。私は電話に出た。
「もしもし黒川調査役?」
目黒支店長の声だった。
「名刺に番号があったから、こっちに連絡欲しいんかと思ってな」
彼の声からは、何の表情も読み取れない。
「普通、行員に名刺なんて渡さんよ。あと、あの匂い。あんなの持ってたら、疑われるわ」
「しかも合併前の名刺ですしね」
「そうや。ま、差し替え忘れるよな」
数秒の間を置いた。
「もう私の名刺、手元にないでしょう。ちゃんと合併後の名刺でしたよ」
完全な沈黙が流れた。合併前の『八菱銀行』と合併後の『八菱CBD銀行』は、間にアルファベットが入るだけだ。フォントも小さいので、見逃してしまいがちだ。実際に名刺があれば気付くが、なければ気付かない。私は続けた。
「支店長ですね。金庫の前に名刺を置いてくれたの。あとペンのゴミを捨てたのも。綺麗好きですもんね」
彼は肯定も否定もしなかった。答えたくないらしい。
「電話したのは、金庫の暗証番号の件です」
「……本部に相談したんや。不倫してるけど証拠が無いって。そうしたら『金庫の暗証番号を変えろ』言われてな。過去の台帳を見て、やっと見つけたよ。で、言われた通りにしたんや」
「三井さんを巻き込む必要、あったんでしょうか」
「さあな。それは本部が決めたことやから。役者として副業がしたい、でもなかなか目が出ない。もっと時間も労力も必要だけど、業務時間外だけでは難しい。だから業務時間を使って社内副業させることにしたんちゃうかな」
なんだかんだ人には優しい銀行である。しかし不倫事件の解決と、三井さんの自己実現だけでは本部に相談する理由にならない。前者は探偵を雇えば良い。後者は個人の問題だ
「支店長の本当の目的は、何だったんですか」
沈黙。エリサの息子はポップコーンを手に入れ、数日ぶりの食事だと言わんばかりの勢いで口に入れている。私は彼女に目くばせし、場を離れた。
「今は個人情報の保護がうるさくてな。普段は支店長でも、過去の監視カメラの映像が見れへん」
カメラの映像はセキュリティ会社が管理している。さかのぼって見るには、それなりの事由が必要だ。ましてや支店長が一日中見ていられることなど、許されるはずがない。今回のような軽度の事件は、カメラを見返す絶好の理由となる。
間もなくパレードが始まるとアナウンスが流れた。人々はそわそわと興奮した様子で、どこからかやってくるのだろうという顔で辺りを見渡している。
「金庫の入口以外も見たよ。そしたらATMに、ある男の子が映ってた」
支店長はその名前を言った。全身に悪寒が走った。危うくスマホを手から落とすところだった。パレードが始まったが、私にとっての世界は無音で、色を完全に失っていた。
失踪したはずの弟が、カメラに映っていたのだ。
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