小説「夏眠」:サマー•ハイバネーション[14]ー誰もわかってくれない
ある日のこと、葉菜は会社に傷病手当てやその他の用事で直の上司に呼び出された。
その時の午後のオフィスでのやりとりが頭にこびりついて離れない。
部長の溝口賢治に呼ばれた時、彼女は何となく嫌な予感がしていた。その予感は見事に的中した。
溝口部長は、いつもの無表情な顔でデスクに座って、彼女を前にして冷ややかに言葉を吐き出した。
「君ね、こんな病気になって、どうするつもりだ?何でも気にしすぎる。そんなことじゃ社会に通用しないぞ。周りの若手に悪影響だよ。気を持ち直してくれないと困るんだ。」
彼の言葉は、葉菜の胸に重くのしかかった。
自分がただの弱者で、社会の迷惑者であるかのように感じさせるその言葉。
『病気なんて気の持ちようだ』
と言われるたびに、自分の存在が無意味に思えてくる。
帰り道、葉菜は肩を落として歩いていた。体は鉛のように重く、足を一歩進めるのも辛い。
そんな時、偶然同期の佐々木と出会った。彼女は明るく声をかけてくれたが、葉菜はそれが痛く感じられた。
佐々木は葉菜の病気のことを知らないからこそ、無邪気に励ましてくれる。その優しさが、逆に重くのしかかる。
「頑張ってね!」という佐々木の言葉が、胸に突き刺さるように感じた。別れた後、葉菜は息が苦しくなってきた。
手のひらが冷たく汗ばんでいる。カフェを探し、少し休もうとしたが、街のざわめきが彼女をさらに追い詰めるようだった。
呼吸がどんどん浅くなり、息ができない。このまま息も心臓も止まってしまうかもという恐怖が襲ってきた。
そして、ついにいわゆるこれが過呼吸の発作だ。
視界が歪み、立っていられなくなる。近くにいた女性が声をかけてくれたが、その声も遠くに感じる。
その後の記憶は曖昧だった。気がつけば、葉菜は救急車に乗せられていた。救急病院で点滴を受けながら、ふと、こんな自分が誰にも理解されないまま、ただこの世界に漂っているような感覚に包まれた。
無力感が押し寄せ、自分を責める気持ちが止まらなかった。
救急外来で診察してくれたドクターいわく私から事情聴取をして判断したところ
『おそらく食欲がなく栄養失調状態のところに軽度の脱水を起こして、久しぶりの外出の疲れから過呼吸を起こしたと思われる』
とのことだった。
病院を出た後、夕暮れの街を歩きながら、葉菜は初めて本気で「この世から消えたい」と思った。自分の存在が、ただの負担でしかないように感じられた。そんな気持ちを抱えながら、クリニックの予約日がまだ先だという現実が彼女をさらに追い詰めた。
衝動的に、葉菜は薮井クリニックに電話をかけた。
受け付けの人が親切に対応してくれて、幸運にもその日の最後の診察に滑り込めることになった。
地獄に仏だ。電話を切った後、少しだけ安堵したが、その安心感は一時的なものだった。
クリニックに着くと、いつもと同じように穏やかな沢村先生が出迎えてくれた。診察室の中に入ると、葉菜は何を言えばいいのかわからなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、言葉がうまく出てこない。それでも、先生にはわかってもらいたくて今日あったことをできるだけ伝えた。
そして、沢村先生はじっと話を聞いてくれた。
「葉菜さん、大丈夫ですよ。ここに来てくれてよかったです。あなたの病気は、決して気の持ちようだけで治るものじゃありません。しっかりと治療していきましょう。あなたのペースで、少しずつでいいんです」
その言葉に、葉菜は少しだけ心が軽くなった気がした。沢村先生の温かい眼差しが、彼女の心の氷を少し溶かしてくれるようだった。
診察を終えた後、葉菜はクリニックの外に出ると、夜のひんやりとした風が頬に当たった。深呼吸をしようとしたが、息がうまく吸い込めず、喉に引っかかるような感覚が続いた。さっきまでの診察で、沢村先生の言葉は確かに心に響いたはずだった。
でも、その言葉をすべて信じきることができない自分が、心の奥でじわりと顔を出していた。
「大丈夫ですよ」と優しく微笑んでくれた沢村先生。その言葉に救われたい、信じたいと思う反面、心のどこかで「本当に大丈夫なのか」と自問している自分がいた。こんな自分が、果たして本当に良くなる日が来るのだろうか。病気は「気の持ちようではない」と沢村先生は言ってくれたが、葉菜の中にはまだ、無力感と絶望感が渦巻いていた。
歩きながら、葉菜は自分の足音を聞いていた。
静かな夜道に響くその音は、まるで自分がこの世界に本当に存在しているのかを確認するためのもののようだった。
自分の足元を見つめながら、葉菜はふと考えた。今、ここで自分が立ち止まってしまったら、どこにも行けなくなるのではないかと。前に進むことができなくなったら、ただこの場で凍りついてしまうのではないかと。
そして、その考えが頭を離れないまま、ついに涙がこぼれ始めた。歩道の端で立ち止まり、涙が次々と溢れ出すのを止められなかった。自分の弱さ、自分を信じ切れないこと、そしてそんな自分を嫌ってしまう気持ちが、一気に押し寄せてきた。
「どうして、こんなに素直になれないんだろう……」
心の中で何度もそう呟いた。沢村先生を信じたいのに、信じきれない自分が許せない。彼の言葉を頼りにしたいのに、その頼りをどこかで拒んでいる自分が嫌でたまらなかった。泣きながら、葉菜はそんな複雑な感情に飲み込まれていった。
泣くのをやめたいのに、涙は止まらない。通り過ぎる車のヘッドライトが、彼女の涙を輝かせる。人通りの少ない夜の街で、彼女はただ一人で泣き続けた。誰も助けてくれない、誰も理解してくれない、そんな孤独感がさらに涙を誘った。
でも、その涙がすべて流れ落ちた後、葉菜は少しだけ心が軽くなった気がした。泣いたことで、少しだけ自分を許してあげられるような気持ちになった。まだ信じ切れない自分も、自分の一部なのだと、少しだけ受け入れられた。
「まだ、歩けるかもしれない……」
そう呟くと、葉菜は再び歩き出した。あ、歩ける。
夜風が冷たく、頬に当たるたびに心が少しずつ現実に戻される。前に進むのが怖い。
それでも、今は一歩ずつでも進むしかない。心の中に芽生えたわずかな希望を握りしめながら、葉菜は静かに夜の闇の中へと歩みを進めていった。
自分を信じることは難しい。でも、信じられない自分さえも受け入れることで、少しずつでも前に進めるかもしれない。そう思った葉菜は、また一つ深呼吸をして、夜空を見上げた。月明かりが優しく彼女を包み込み、少しだけ心が温かくなった気がした。