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死も生成発展となる生産と消費の営みである

松下幸之助 一日一話
11月27日 死も生成発展

私は、人生とは“生成発展”、つまり“日々新た”の姿であると考えています。人間が生まれ死んでいくという一つの事象は、人間の生成発展の姿なのです。生も発展なら死も発展です。

人間は、今まで、ただ本能的に死をおそれ、忌みきらい、これに耐えがたい恐怖心を抱いてきました。人情としては無理もないことと思います。

しかし、われわれは生成発展の原理にめざめ、死はおそるべきことでも、悲しむべきことでも、つらいことでもなく、むしろ生成発展の一過程にすぎないこと、万事が生長する一つの姿であることを知って、死にも厳粛な喜びを見出したいと思います。

https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より

私たち人間は本能的に「生」を生成発展として捉えることは出来ても、「死」を同じく生成発展として捉えることは難しいのではないでしょうか。それ故に、本能的に死を恐れ、忌み嫌い、これに耐えがたい恐怖心を抱いてきたのではないでしょうか。松下翁は理性的に「生成発展の原理」を知り理解することで、「死」は恐れるべきことでもなく、むしろ喜びに変わると仰っています。では、「生」と「死」、或いは「人生」に共通する「生成発展の原理」とは具体的にどのようなことなのでしょうか。

松下翁は、「生成発展の原理」に繋がるお話を以下のように述べています。

 この宇宙に存在するものは、すべて刻々に動いている。万物流転、きのうの姿は、もはやそのままではきょう存在しないし、一瞬一瞬にその姿を変えつつある。いいかえれば、これはすなわち日に新たということで、日に新たな生成発展ということが、この宇宙の大原理であるといえよう。
 人間もまたこの大原理のなかに生かされている。きのうの姿はきょうはない。刻々に移り変わって、刻々に新たな姿が生み出されてくる。そこにまた人間社会の生成発展がある。
 人の考えもまた同じ。古人は「君子は日に三転す」と教えた。一日に三度も考えが変わるということは、すなわちそれだけ新たなものを見いだし、生み出しているからこそで、これこそ君子なりというわけである。日に一転もしないようではいけないというのである。
 おたがいにともすれば、変わることにおそれを持ち、変えることに不安を持つ。これも人間の一面であろうが、しかしそれはすでに何かにとらわれた姿ではあるまいか。一転二転は進歩の姿、さらに日に三転よし、四転よし、そこにこそ生成発展があると観ずるのも一つの見方ではなかろうか。
(松下幸之助著「道をひらく」より)

つまりは、万物が一瞬一瞬にその姿を変え流転することが生成発展であり、その流転とは宇宙の大原理であり人間もまたこの大原理の中に生かされているとすることが松下翁の考える「生成発展の原理」であるということでしょう。

この「生成発展の原理」の定義をもとに改めて、「人生」というものを考えるならば、「生」は流転であり、「死」もまた流転であると言えます。更には、一日一日もまた人生と同じく「生」という目覚めに始まり、「死」という眠りに終わる流転であるとも言えます。そこにはいずれも「生成発展の原理」に沿った流転があります。

更には、古人が教えたとされる「君子は日に三転す」とは、恐らく中国古典にある2つの言葉から引用された言葉ではないでしょうか。先ず、1つ目が「論語」にある曾子の以下の言葉です。

「吾日に吾が身を三省す。 人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしかと」(論語)

「三省する」とは日に三度自分を反省するではなく、学んだ事柄を自分の日常に活かしているかと何度も反省するという意味です。

つまりは、学んで反省し活かして行くという繰り返しの中で、一日に何度も考えが変わることで人は生成発展するということです。

更には、2つ目として「易経」にある次の言葉です。

「君子豹変(ひょうへん)す、小人は面(おもて)を革(あらた)む」(易経)

君子とは自己革新を図り、小人は表面だけは改めるが、本質的には何の変化もないという意味です。

「豹変す」とは、一般的には突然ガラッと態度が変わってしまい、何か悪いことのように受け止められますが、「豹」の毛というものは秋になると赤みを帯びた黄色の毛が全部抜け替わり、一転して多くの女性たちに好まれる白みを帯びた毛足の長い美しい豹柄の模様に生まれ変わります。そのようなことから「自己革新」、「自己変革」という生成発展の意味となります。

つまりは、生成発展の最小単位は一日一日ではなく、一刻一刻ということになるのでしょう。「論語」には以下のような言葉もあります。

「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」(論語)

朝に真の道を悟ることができたら、その晩に死んでも本望だ、という意味です。


翻って、「死も生成発展」であると考えた上で、死にも厳粛な喜びを見出していたであろう松下翁の晩年はどのような生き方をされていたのでしょうか。松下翁は94歳で亡くなっていますが、その4年前の90歳の時に以下のような言葉を残されています。

 私たちが今生きている人生は、それぞれに自分だけにしか歩めない、また二度とくり返すことのできない貴重なものです。それだけに、これをより意義深いものにしたいというのがだれしもの願いだと思いますが、その実現のためには、やはりまず、人生とはどういうものか、ということについての正しい認識が必要でしょう。人生とは何かということが、ある程度はっきりつかめてこそ、よりよき人生をめざす努力も具体的で力強いものになり、実際の成果もあがってくると思うのです。

この”人生とは何か”ということについて、PHPの研究を始めてまもないころに、あれこれと考えたことがありました。

 人生というと一般には、いわゆる人間の一生、つまり生まれてから死ぬまでの間のことと受け取られていますが、それは細かく見れば、一日一日、一刻一刻の日常生活の積み重ねであるとも考えられます。したがって、私たちの日常生活をありのままによく考察するならば、それによっても人生の何たるかをつかむことができるでしょう。

 そこで私は、そういう観点からいろいろ検討した結果、人生とは、ということについて、自分なりに次のように考えてみたのです。それはごく端的に言うと、”人生とは、生産と消費の営みである” ということでした。

  ふつう生産と消費といえば、経済活動の一面と考えられていますが、ここでいう生産と消費とは、単に物を生産し消費するということではありません。もっと広く、人間の心の営み、精神的な活動をも含んだ、物心両面にわたる生産であり消費のことですが、そういうものが人間の日常生活の基本であり、またお互いの人生そのものではないか、と考えたのです。

 あれからもう三十年以上がたちますが、私のこの考え方は今も変わりません。実際、私たちの人生は、生産と消費以外の何ものでもないのではないでしょうか。

 というのは、私たちは毎日、一方でいろいろな物資を生産し、同時に他方でさまざまな物資を消費しています。そしてその物資の生産と消費にあたっては、必ず何らかの形で自らの心を働かせています。物をつくるにしても、まずどういうものをどのようにつくるかを心に描きますし、その上でいろいろの創意くふうを重ねます。これは精神面での生産活動といえましょう。また物を使い、費やす場合も、その価値をはかり、味わうというような精神面での消費活動を、常に伴っています。したがって、お互い人間の日常生活、さらにはその積み重ねである人生は、すべて物心両面にわたる生産と消費の営みから成り立っている、ということができると思うのです。

そう考えれば、私たちが、よき人生、意義ある人生を送るためには、その物心両面の生産と消費とを、昨日より今日、今日より明日へと、好ましい姿で実践していくことが大切、ということになります。すなわち、政治家であれば政治活動の上で、教育者であれば教育活動の上で、といったように、それぞれの人がそれぞれの分野で、よき生産とよき消費を心がけ、実践していくということです。

 そうすれば、社会全体に好ましい発展向上の姿が生まれてくるでしょう。また、それぞれの人についても、よりよき人生、悔いのない意義ある人生への道がひらけてくるのではないでしょうか。

 人生の意義とか目的というと、お互いにとかく高尚でむずかしいものと考えがちです。しかし、人生というものを、これまで述べてきたように、日々の活動を通じての物心ともの生産と消費の営みである、と考え、それをよりよきものにしていくことが、よき人生への道であると考えるならば、それがずいぶん身近なものになってくるのではないでしょうか。

 少なくとも私の場合は、今日一日の自分の活動が、よき生産でありよき消費であったかを省みることが、私なりの人生の充実ということにつながっていた気がするのです。
(松下幸之助著「人生心得帖」より)

松下翁の仰るように人生とは、「生産と消費の営みである」とするならば、人生とは流転であり「生成発展」であるとも換言できます。更には、「物資の生産と消費の営み」だけではなく、「精神面での生産と消費の営み」がもたらす「生成発展」というものに視点を向けるならば、人は「よりよく生きようとする心」を持つことが既に「生成発展の原理」に沿った人生であるとも言えます。

日々繰り返す「一日一生」の中で、その一生はよき生産でありよき消費であったかと省みることよって得ることが出来る小さな充実。更には、小さな充実を構成する「生成発展の原理」を理解することは、同時に死という現象もまた生成発展を構成する要素だと知ることに繋がります。小さな充実の積み重ねに加え、「生成発展の原理」を理解することで、やがては死にも厳粛な喜びを感じるに至るのではないかと私は考えます。



中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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