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お蝶と菊舞団の憂鬱 第二話 女王の降臨
あらすじ
戦国時代の近江。
琵琶湖の東岸に広がる平野の北側を江北と呼び、南側を江南と呼んだ。
そして、江北の北軍と江南の南軍が近江の覇権をめぐり争っている。
江北では、京極家を追放しようと浅井家が新勢力として台頭してきた。
その時、京極家と浅井家の争いの狭間で揺れ動いていたのが今井家だった。
今井家を出奔したお蝶は許嫁の命を奪った北軍の新庄直昌に復讐を果たすために、何でも屋の「菊舞屋」に直昌殺しの手伝いを依頼する。
菊舞屋は右近と修理亮からも同時に矛盾する依頼を受けていたが、金儲けのために全てを請け負うのであった。
一つ目は江北の武将である新庄直昌を殺すこと お蝶
二つ目は江北の武将である新庄直昌を守ること 老人の右近
三つ目は江北の武将である新庄直昌を狙うお蝶を守ること 若侍の修理亮
金儲けの天罰の為か、お蝶が隠していた女王気質のわがまま放題に菊舞屋は振り回される。
そして、お蝶は仇敵となる直昌への怨念を募らせるのであった。
登場人物
お蝶 今井家の静姫。幼少期に火傷して女を捨てた。
人心掌握術に長け、身体能力が高く弓が得意。
許嫁であった井戸村清秀を殺した直昌の命を狙う。
龍之介 傭兵の菊舞団(何でも屋の時は「菊舞屋」)のリーダー。
戦闘能力は低いが、逃げるのが得意「逃げの龍」。
面倒くさがり屋で、美人に弱く騙されやすい。
新庄直昌 北軍で騎馬隊を率いる若き猛者「北軍の悪鬼」。
平太 菊舞屋の仲間。
一般常識を持っているが、腹黒いところがある。
梅丸 菊舞屋の仲間。
いつも腹を空かせた無邪気な子供。索敵能力が高い。
井戸村清秀 今井家の改革派。静姫の許嫁。戦で直昌に討ち取られた。
嶋秀安 静姫の弓の師匠。清秀の同志。修理亮は家臣。
雪火 龍之介が頼れる親友。北軍傭兵の炎舞団を率いる。
黒蝮 菊舞団のライバルとなる幽玄団の一人。
第二話 女 王 の 降 臨
六角家が擁する南軍は琵琶湖の西岸に位置する高島地域の堅田で足利将軍家の義晴を匿っていた。
京の政争で義晴と敵対する細川晴元は南軍に対抗するために、密かに北軍を率いる浅井家と手を組んだ。
そして、晴元の意向により、北軍が将軍足利義晴を狙って高島地域に対し、湖上と陸の二方面から電撃的な奇襲作戦で侵攻を開始した。
後手に回った南軍はすぐさま兵を整えて、高島方面への支援移動を開始した。一刻を争う危機の為に迅速さが要求された第一陣には菊舞団が選ばれていた。
急遽、南軍の傭兵として集められたお蝶と菊舞団は甲冑に身を包み、船員を含めて百五十名は収容できる関船に乗せられ、高島地域へ向かって琵琶湖を北上していた。
その軍船には他の傭兵団も乗っており、この場に明らかに不釣り合いなお蝶に対して誰もが振り返っていた。そして、声をかけてちょっかいをかけてくる輩が次々と現れる。
「お姉ちゃん、可愛いじゃないか。どっから来たんだ。」
お蝶は腕組みしたまま輩の言葉を無視している。
「龍さん、助けないで大丈夫ですか。」平太が心配する。
「ほかっとけ。いつものように、そのうちに切れるだろう。」龍之介は気にしていない。
「いっそのこと、やられちゃえばいいんだよ。」梅丸は飼い犬のように虐げられている日頃の恨みが募っていた。
「僕たちはお蝶さんに雇われの身だからいいですけど、あんな荒くれどもを相手に、心配ですよ。」平太の不安をよそに、お蝶には三人の輩達が次々と群がってくる。
「おお、美人じゃあねぇか。なんで、こんなところにいるんだ。」
「遊女じゃねぇのか。でも、具足姿ってことは傭兵なのか。」
「俺達も幸運だなあ、こんな女とごいっしょできるとは。とりあえず、酌をしてくれよ。いっしょに飲もうぜ。それとも、銭がほしいのかい。遊んでやってもいいんだぜ。」
「澄ましていねぇで、何か言えよ。」
お蝶は目元を緩めて天女のような微笑を浮かべながら、輩達の顔を見ながらゆっくりと頷いている。
「あいつ、輩達を煽ってやがる。」龍之介は輩達を心配する。
「こりゃあ、やっちゃうね。」梅丸はいつものことかと呆れる。
「あの眼つきは、切れる寸前の表情ですね。」平太が冷静に分析した。
輩達はお蝶の笑顔に釘付けになっていた。
「笑った顔はもっと可愛いな。」
「おい、俺の女になれよ。優しくしてやるから、安心しな。」
「たまんねぇなあ。戦に出る前に可愛がってやるぜぇ。」
お蝶は人格が入れ替わるように笑顔のまま怒鳴り声で答えた。
「お前ら、さっきからうるさいねん!」
笑顔で返答された輩達は顔を見合わせて何が起こったかすぐに理解できなかった。そんな輩達に、お蝶は切れるようにバリバリの関西弁で怒鳴りつける。
「何度も言わせんな!阿保共!黙っとれや!って言っとるんや。」
「なんだと!」輩達もお蝶に怒りながら近づいてくる。
「ハゲは黙っとけ!」とお蝶は輩の股間をいきなり蹴り上げる。
股間を押さえて倒れ込む輩の仲間がお蝶に絡んでくる。
「美人だからって、許さねぇぞ!」
お蝶は腕を掴まれるが、手首の関節をきめて反転すると輩を押し倒す。
「ええかげんにしときや!いきがるのはここまでにしとき!」と足で輩の背中を床に押しつける。すると、背後から掴みかかろうとする輩の口元にすぐさま太刀を引き抜いていた。
「お前の口臭、きつ過ぎるねん!まず、そのみっともない前歯をしまえ。」と出っ歯の輩を小馬鹿にした。
「こ、このやろう。」輩は後退りしながら文句を言うが、お蝶に太刀で威圧される。
「その出っ歯。尻の毛といっしょに引っこ抜いたろか。」お蝶は目を見開きながら輩を挑発して、太刀を使ってひざまづかせる。
「くっそー。」
「なんやねん。どいつもこいつも、いっちょ前に言いがかりをつけるくせに、この様かい。」と三人の輩達をその場で正座させる。
お蝶は輩達を簡単にあしらうと、再び天女のような笑顔を見せる。そして、わがままな子供達を諭すように輩達にゆっくりと話す。
「いいかい、よく聞くんだよ。今、うち達は戦を前に、気持ちが昂っていて冷静じゃなかったんだ。酷い事を言って、ごめんよ。冷静になって考えると、お前さん達の相手をして強いのは十分わかったよ。動きは速いし、視野も広い、それになんていっても仲間思いだ。大したもんだ。この傭兵団の中でも一、二を争う強者だ。ただ、べっぴんなうちに油断しただけなんだろう。安心しな、お前達の力は信じている。高島に着いたら、存分に働くんだよ。お前達がいっしょなら、うちも安心して戦える。そして、うちが危なくなったら助けておくれ。頼んだよ。」輩達はお蝶の言葉に何故か心を奪われていた。
お蝶は輩達の手を握りながら肩を抱き、一人ずつ立ち上がらせる。
この騒ぎを聞きつけた乗員が「なんだ、なんだ。」、「何が始まったんだ。」とお蝶の周囲に続々と集まってきた。
お蝶は近くに置いてあった木箱に上り、周囲を指さしながら叫ぶ。
「お前ら、戦をなめてんとちゃうか!油断しとったら、命取られるで!」
「あの尼、俺達に喧嘩を売っているのか。」
「生意気な女だ!」
「遊女風情が何をほざくか!」
お蝶はざわつく観衆が静かになるのを待っている。
さきほどお蝶に喧嘩を売って籠絡された三人の輩達がお蝶を警護しながら叫ぶ。
「静かにしろ!お蝶様がお話しになる!」観衆を鎮める輩に礼を取ったお蝶が話を始める。
「いいかい、うちは見た通りの女さ。しかも貧しい暮らしだったから、いつもいじめられてきた。出が悪いから、差別されて人として扱われて来なかった。うちは自分の生い立ちを呪ったよ。何かをすれば否定され、何処かへ行っても否定され、そして存在全てが否定される。何故に生まれてきたのか。何のために生まれてきたのか。この世に生きる理由がわからなかった。まさに、この世が生き地獄みたいなもんさ。こんな地獄を生き抜くためには、鬼になって抗うしかない。そうしなければ、誰にも認められない。だから、この世に歯向かい、世間から嫌われ続けた。」
観衆はお蝶の生い立ちが自分達に似ており、世間から否定され続けるこの世の生き地獄に共感していた。
そんな観衆の面々を見つめながらお蝶は語り掛けるように続ける。
「だが、傭兵となって、仲間ができ、真っ当に報酬を貰えるようになった。そうだ初めてうちは他人から認められたのだ。こんなにうれしいことはない。うちは野蛮な輩達が嫌いだ。だが、お前たちのことが嫌いになれない。大好きだ。何故なら、うちはここにいるお前達と同じだからだ。」
お蝶の言葉に屈強な荒くれ共が聞き入っていた。中には涙を流し始めている奴らが出始めている。お蝶の言葉が観衆の心に突き刺さっているのを見越したように、お蝶は口調を荒々しく変えて捲し立てる。
「ええか!お前らが本気を出したら、北軍の糞共なんぞ、相手にならんはずや!お前たちは最強で勇敢で近江中の女が憧れるような存在になれるんや!このお蝶が保証するで。だらしない姿なんぞ、見せられぬぞ。お前達の活躍はうちが近江中に言いふらしてやる。そのためには、何が何でも迫る北軍を蹴散らして、侵攻された高島地域を奪還するんや!」
お蝶の呼び掛けに観衆が次々と応じる。
「おお!やるぞ!」、「そうだ!俺達ならできるぞ!」、「北軍なんぞ、叩き潰す!」
士気の上がる観衆を満足そうに見回しながらお蝶は続ける。
「そうや!お前達、その意気込みや!ここにいるお前達だけが頼りや!これまで見たことのない圧倒的な勝利をうちに見せておくれ!」
「おう!」
「気張っていくでぇ!」
「お蝶様、万歳!お蝶様、万歳!お蝶様、万歳!」船上では観衆が肩を組んで大合唱が始まった。
「おい、うちがいい女だからって、家に帰って妄想しながら変なことするんじゃないよ」と観衆に天女のように笑った。
観衆全員はお蝶の虜になっていた。
「お蝶さん、傭兵なんて初めてのはずなのに。しかも生い立ちが貧しかったなんて、絶対に嘘ですよね。」平太が龍之介に確認する。
「契約前の仕草や口調と金に余裕があることを考えると、どこぞの金持ちかお偉いさんの娘に違いない。だが、嘘の割には真実味があった。親しい奴が貧しかったのかもしれんな。」
「この軍船の傭兵全員を掌握しちゃいましたよ。あの士気の高め方はいっぱしの武将みたいでしたね。」
「あいつ、とんでもねぇ奴だ。」龍之介は呟くと隣で感極まっている梅丸が気になった。
「梅丸、どうした。」
「あ、姐御・・・。」お蝶の演説に共感した梅丸は観衆と同化して叫んでいた。
「姐御、万歳!」。
お蝶と菊舞団を乗せた軍船が深い霧に包まれた琵琶湖を北上して高島に到着すると、下船して指示された場所まで移動して待機することになった。
先に到着していた第一陣の先鋒隊は進撃する北軍の迎撃に向かい既に戦闘が始まっている。その喚声、怒号、悲鳴、今まで聞いたことの無い音が風を伝って身体中に響いてくる。
緊張感が漲る中、お蝶は菊舞団と同船した輩達と共に、その援護のために前線へ向かった。
お蝶は女であることを敵に悟られぬように顔を面貌で覆う。女ながらも幼き頃から武術に励んできた己の力に、ここが初めての戦場である不安は無かった。だが、その自信もすぐに揺らぐこととなった。
前線に到着したお蝶は初めて見る戦場の酷い惨劇に茫然としていた。斬られた者は身体を鮮血に染め、斬った者も返り血を浴びせられている。斬り裂かれた腹からは見たことも無いグロテスクナな臓器が飛び出し、殴られた後頭部は信じられないぐらいに陥没し、足元には斬り取られた手足や肉片が散乱する。前線に一歩踏み込んだ時、血生臭さに満たされた狂気の現実が待っていたのである。ここにあるのは「殺る」か「殺られる」かの選択肢しかない。
お蝶は初陣の戦場で生々しい惨劇に吐き気をもよおし、膝が震え、腰が抜けそうであった。腹の底から汚物がこみ上げてくるのを手で覆いながら耐え忍び、持っている弓で身体を支え、気力でなんとか立っているのが精一杯であった。
「・・・集中するのだ。わらわは憎き新庄直昌を討ち取りに来たのだ。」お蝶は憎悪を掻き立てることによって、気力を振り絞っていた。
「お蝶さん、大丈夫ですかね。」平太が心配する。
「大丈夫だろ。あんだけ大口叩いていたんだから、今更後には退けないだろ。」龍之介が鼻で笑う。
「姐御、心配だ。見てくる。」梅丸はお蝶の元へ走る。
「梅丸、完全にお蝶さんに心酔していますよ。」
「お蝶や梅丸だけに気を取られるなよ。もうここは戦の最前線だぞ。」
「そうでしたね」
「俺達の後方に幽玄団の奴らがいるぞ。」龍之介が平太に目で合図する。
「ひょっとすると、僕達の仕事を察知して、また邪魔しに来たんですかね。」
「どうだろうな。探ってくるか。」
龍之介は幽玄団の陣まで行って、顔見知りの黒蝮を見つけると声をかける。
「幽玄団の諸君、儲かっているかね。」
「ボチボチだな。競合相手がちょろいんで助かっているぜ。」この言葉で幽玄団の仲間達が龍之介を笑う。さきの宝刀奪還作戦や、その前の暗号解読事案において、菊舞団は幽玄団に常に一歩先を越されていた。
「あの宝刀は偽物だったっていう噂を聞いたぞ。」
「ああ、そうだ。だが、本物の在り処を示す目印が隠されていたんだ。そのおかげで、本物はとっくに回収した。おかげで大儲けだ。」
「そんなら、少しぐらい感謝しれくれてもいいんじゃねぇか。」
「そうだな。確かに、間抜けなお前達が追っ手を引き受けてくれたから、こっちは仕事がはかどったぜ。偽物の宝刀を礼にとっとけ。」
黒蝮が放り投げた刀は予想以上に軽くて鞘から刀も抜けないおもちゃだった。龍之介はそのおもちゃを黒蝮の尻の穴に浣腸してみる。
「何していやがるんだ。使い道はねぇんだから、捨てとけ。」
「儲けたんだったら、もう少しまともな物を恵んでくれよ。」
「じゃあ、これから始まる戦で北軍の相手を譲ってやるぞ。」
「なんでそうなるんだよ。」
「それにしても、菊舞屋が南軍に参加するとは珍しいじゃあねぇか。連れの強情そうな女、武装しているが傭兵のつもりか。それとも、女郎屋でも始めるのか。」
「金欠じゃなけりゃあ、好んで戦なんか来たかねぇよ。女は菊舞団の体験入学生みたいなもんだ。・・・ところで、この戦はどうなっているんだ。」龍之介はおもちゃの宝刀で背中の痒い所を搔きながら確認した。
「南軍の先鋒隊は北軍を押し返したそうだ。そして、この先にある百瀬川で高島地域の南軍が合流して、北軍の本体を待ち伏せて迎撃するようだ。」
「高島地域の南軍は日頃から戦をしていないから弱いだろ。だから、北軍にあっさりと進軍を許したんだろ。馬渕や青地のような精鋭部隊はどうなっているんだよ。」
「そもそも、軍船が足らぬから、すぐに動ける傭兵を優先して運んだそうだ。精鋭部隊は陸路を移動しているらしいぞ。」
「陸路じゃあ、到着するのに時間がかかり過ぎる。高島地域の南軍が弱いなら、勢いのある北軍を止めるには籠城するしかねぇぞ。」
「確かに一理ある。」
そこへ平太が走って来た。
「龍さん、背後から北軍が来ました!」
龍之介が振り返った視線の先には北軍の軍旗が揺れていた。
「まずいぞ、巴紋の軍旗だ。」
「新庄軍ですね。・・・あの、空中に飛び跳ねている物体は何ですかね。すごい砂埃ですが、稲妻でも落ちたんですかね。」
「あれは、直昌の突撃で跳ね飛ばされた南軍の人馬だ。」
「ええ!そんな!」
「小さく見えるのは腕や足、首や刻まれた肉片が砂埃と血飛沫に染まる空中に舞っている。」
「そ、そんな、化け物じゃないですか!」
「だから、悪鬼と呼ばれているんだ。」
「そんなの相手にできないですよ!」
「あいつの親父が足利家の肩を持っているから、前線には出てこねぇ可能性もあったんだが・・・。」
「北軍に参陣している炎舞団の雪火さんからの伝言です。「南軍は傭兵を盾にして、清水山城まで撤退を開始した」そうです。僕達もやばいですよ!」
「そうだな。このままだと、包囲される。平太、梅丸とお蝶を呼び戻してこい、逃げるぞ。」
「わかりました!」
「黒蝮、とっとと撤退した方がいいぜ。」
「あれぐらいの軍勢など、幽玄団だけでも足止めできる。」
「あいつは、そう簡単な敵じゃないぜ。・・・俺達は南軍に見捨てられたんだ。一つ貸しにしておいてやるから、とっとと逃げておいた方がいいぜ。」
阿鼻叫喚に包まれる戦場で震えていたお蝶は前方から現れた北軍の騎馬隊突撃の中に、新庄直昌の姿を探していた。無念を晴らすために傭兵として戦場に立ったお蝶の望みはただ一つ、憎き直昌の首を討ち取ることだけである。その復讐心だけで戦場の恐怖から逃れていたが、直昌の姿は見当たらない。
その時、お蝶は後方に布陣する南軍を奇襲した巴紋の軍勢の噂を聞きつけると、持ち場を離れて単独でその場へ向かっていた。そして奇襲を受けた南軍が騒然としている中、北軍の騎馬隊の先頭を駆る男が目に止まった。
「赤毛の軍馬と巴紋の軍旗に雷の前立と朱槍・・・新庄直昌に間違いない。」お蝶はその首を狙おうと、地面に突き刺さった楯に身を隠しながら弓を用意する。
先陣を駆る直昌の戦いは苛烈であり、南軍の兵が抵抗すらできず、一方的に叩き潰されている。その血飛沫が舞い上がる中を、鬼の形相で突撃する姿はまさに悪鬼の如くであった。
お蝶は悪鬼を仕留めようとするが、その動きは素早過ぎて狙いに定めきれない。そして弓を構えたまま辛抱強く悪鬼を狙い続けていた。己の愛する男を殺された怨念を晴らすことが、絶望の淵に追いやられたお蝶と名乗る静姫を救う術であった。
すると、騎馬隊の進撃が止まり、直昌は周囲に下知を出すと、呼吸を整えるように動きを止めた。
お蝶は弓を引き絞って直昌を狙う。
「清秀様の怨敵、悪鬼の新庄直昌め、成敗してくれよう・・・。」
だがその時、お蝶の殺気を遥か遠くにいる直昌に感づかれ、悪鬼の形相で睨み返された。その凄みと直昌の覇気に気圧され、驚愕したお蝶は心臓が止まりそうになり、引き絞った弓を放つことができなかった。
「こ、この距離で、さ、悟られたのか・・・。」お蝶は弓を下ろしたまま呆然としていた。そこへ馬に跨った龍之介が現れる。
「お蝶、戦は終わった!早く逃げねえと、命を落とすぞ!」
「・・・・・。」お蝶は俯いたまま黙っている。
龍之介は喧嘩を売るような口調で荒々しく叫んだ。
「死にてえのか!」
その口調に、勝ち気なお蝶は龍之介を睨み上げて怒鳴った。
「死ねるんやったら、本望や!わらわにかまうな!」開き直るお蝶に龍之介が諭す。
「死ぬ覚悟があれば、何故に新庄直昌に矢を放たなかったのだ。」
「そ、それは、わらわの使命が果たせぬと思ったからだ・・・。」
「違うな。失敗して、お前が殺されると思ったからだ。お前は死の恐怖から逃れたかっただけだ。」龍之介の鋭い言葉に、本心を見抜かれたようなお蝶は啖呵を切る。
「そちに、わらわの気持ちがわかるか!失せろ!」と再びお蝶は直昌を狙うように弓を用意する。
「同情するつもりなどねえ。だが、腐ったお前を目の前にしている俺の気持ちも、お前には分かるまい。」
「・・・・・。」お蝶は龍之介を無視するが、亡き清秀の姿を思い浮かべると、涙ながらに再び直昌を標的にする。
「だが、お前にはまだ望みがある。死ぬ恐怖があるならば、お前は人として女として生きていく価値がある。」龍之介は馬を降りると、威勢を失ったお蝶の肩に手をかける。
「気安く触るな!」お蝶は龍之介に怒鳴ると、自分の意志とは反対に謝って矢を直昌に放ってしまった。
適当な狙いだったはずの矢は直昌に真っ直ぐに向かっていく。だが、その寸前で何かに弾かれるように逸れていった。
「邪魔をするな!」お蝶は龍之介の手首を掴み上げて関節をきめようとするが、その力強い腕は全く動かない。
「怨念を晴らそうにも、現実はこれだ。」お蝶はおとなしく龍之介の言葉を聞くしかなかった。
「新庄直昌は格が違いすぎる。まだ近江で奴の名は知られていないが、この戦で奴の噂は近江中に響き渡ることになるだろう。俺が命を賭けても、奴の指を一本取れるのが関の山だ。今、お前は奴の覇気に圧倒されて何もできなかった。・・・だが、やり方を変えれば奴の懐に入る術がある。」龍之介の言葉に、お蝶は望みを繋げるようにか細い声で言った。
「・・・どうすれば、良いのだ。」
龍之介は馬に跨り周囲を見渡すと、北軍が周囲に広がり南軍を包囲しようとしていた。そこへ平太と梅丸が軍馬に乗って合流し、連れてきた馬上にお蝶を乗せる。
「生き延びれば、次がある。とりあえず、逃げるこった!ヒャッホー!」
南軍の第一陣となった傭兵団が次々と北軍によって包囲されていく中、一早く後方へ逃げ出していた菊舞団は同船していた傭兵団にもお蝶が声をかけて、無事に撤退していった。
撤退する馬上で龍之介は新庄直昌に何かを感じていた。
「あの時の矢の弾かれ方は何だったのだ。まるで、殿のようであった。」
龍之介は直昌の姿にかつて「不死身の驍将」と謳われた堀能登守の姿を彷彿させられていたのであった。