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雑記 『ナミビアの砂漠』 肉を撮る

どうも、『ナミビアの砂漠』研究家の斉藤あやです。

もうこの映画について記事を書くのは4回目なので、少々自分の執着心が怖くなってきましたが、「別にええやろ、私のノートやもん」と開き直り太々しく書こうと思います。

少しばかり、この映画と、河合優実と、カナが持つ色気に魅せられてしまい恋煩いでメンヘラ気味なのです。
子どもの頃は、作品世界やキャラクターにすぐに恋してしまい、その世界観や快感や苦しみを壊したくなくて、親に話しかけられるのを極度に嫌がっている期間が定期的にありましたが、
あれは幸せなことだったんだなと今になって思います。大人になるほど、何かに狂うことが容易では無くなりますからね。
親というのは、日常の象徴なので、その成分で作品世界という非日常を壊されたくなかったわけです。

素材としての肉

今まで、この映画の良さを語る上で「リアリティ」という言葉を安易に使用してきたが、それはどういう要素からなるのか、一つの例を掘り下げてみようと思う。

それは、衣擦れの音が聞こえてきそうな、
「素材にフォーカスした映像」である。
映像版ASMRとでも読べるかもしれない、ある物理対象をより繊細に捉える撮影手法だ。
他の映像の例を上げると、
映画『きみの鳥はうたえる』がある

『きみの鳥はうたえる』

この映画では、主演の柄本佑、染谷将太、石橋静香が友達以上恋人未満の距離感で一緒に過ごす様を描いているのであるが、
私が特に好きなのは、棲家にしている部屋の中のシーンである。

そういうシーンを見て、
人は、家という安全地帯で過ごしている時が、他人の目を気にしないため(薄着であるという点も込みで)、一番無防備で動物的になり、生物としての生っぽさを発するのだということがわかった。
そして、生物としての生っぽさとは、
たたずまいを含めた、肉の塊である人間の「肉感」である。

実際に、『きみの鳥はうたえる』のBlu-rayに収録されているコメンタリーでは、
監督の三宅唱は、主演俳優たちの「肉を撮ることに成功した」というようなことを言っている。

この素材感へのフォーカスが、人間から社会性を抜き取り、映像にある種の宗教的な静謐(せいひつ)感とアンタッチャブルな迫力を発生させる。

この素材感を捉えるということをしている他の例として、
料理系YouTubeチャンネルの「Peaceful Cuisine」がある。

この映像で素材感を捉えるためにしていることは、
単にアップで撮影するというだけでなく、外から入る自然光だけを照明にして不必要な光が対象に当たらないようにしたり、できるだけ素材だけの音が入るように外からの音や、撮影者の呼吸音までカットしたり、と、できるだけ撮影対象以外の余計なものを排除するという方法を取っている。
つまり、必要以上の光や、音は、映像になった時に対象の素材としての生っぽさの強度を奪ってしまうということだ。
そのために引き算をたくさんしているのである。

そうすることで、より撮影対象の要素だけが浮き彫りになり、素材感があらわになる。
そのため、そういうものから作られた素材の生命力が生む静謐感や生っぽさがある種の迫力を作り、集中力を見る側に強要させるという点で、
特に素材以外の外部要素が映像に入り込みにくい
『ナミビアの砂漠』や『きみの鳥はうたえる』において、棲家にしている
「部屋の中のシーン」と繋がるところがある。

つまり、『ナミビアの砂漠』のリアリティは、
演技やセリフだけでなく、生命感がより強くなる生活のシーンの選択を含め、肉という素材を繊細に捉える撮影法からも来ている、ということだ。
そうすることで、生命が画面に存在することをより指し示しているのである。


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