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ショートショート 「優しい人」

わたし、もう帰るから。

ハルカはそう言って、無表情で私の目を見ながら確かめるように頷いた。
その声は、音量の割にすぐ居酒屋のクリーム色の壁に吸い込まれて行き、
別の席から聴こえてくる匿名的な軽い喧騒によって中和された。

YouTubeで「BGM 居酒屋の喧騒」で検索したら出てきそうな、そういうノイズに彼女の決心の塊は吸い込まれて行った。

ハルカが今までディベートでサジを投げたことはなかったので、
私は、いましがた私が彼女に浴びせた子供っぽい罵声がきっかけで、
彼女が本気で私たちの関係に、一緒に青春期を過ごした私たちの6年間に、ピリオドを打とうとしていることを知った。

ごめんね、痛かったよね。
いつも感情に任せてハルカに攻撃を加えていたのは私だった。そんなのわかってる。
だって、しょうがないじゃん。私はそういう人間だから。
いまさら性格を直すなんて無理。

性格って、目に見えないから理解されにくい。
でも、
全力で練習しても、徒競走でいつもビリケツになる人がいるように、
どれだけ気をつけても、仕事でミスを連発してしまう人がいるように、
私は自分の感情を「普通の人」みたいにコントロールできない。

自制心や思慮深さのアベレージって、どのくらいなんだろう。
全員の性格を足して混ぜて同じ数で割って、出てきたのが普通か。
なら、私はきっと普通以下なんだろう。

私たちの関係は、ずっとハルカの精神年齢が源の忍耐力によって支えられてきた。
この6年間、私たち二人以外にも何人かの友達が私たちのグループに入っては出ていったけど、
男女ともに誰も彼女のような忍耐力は持っておらず、いつもハルカがグループの強度を保っていた。

それは例えば、
誰かが感情的になって不機嫌になっても、冗談を言って場を和ませたり、
私たちが失礼なことを言っても、ピリついた空気を出さなかったり。
そういう些細なことだ。
そういうことって目立たないけど、目立たないから優しさって言うんだと思う。

その些細さの威力は凄まじく、
私たちはハルカがいないと、お互い急に他人行儀になる。
笑いが減る。
ハルカがいるから、お互い近い距離感で接することができていた。
だから、私がハルカ以外のメンバーと接する時、それはハルカとの距離感に乗っかっているだけだった。

一緒にいる人が不機嫌になっても、不機嫌にならないって難しい。

ハルカが少し油ぎったラミネート加工されたメニュー表の上に、3000円を置く。

彼女は、品の良い質感の青いロングスカートが椅子に引っかからないように軽く手で押さえながら席を立つ。

口元にかかったショートの黒髪が揺れる。高校の時、頭髪検査に引っかかって、反抗心で髪を紫に近いくらい濃い黒染めにしたんだって。
彼女はいつもそうやって注意しないと気づかないところで戦っている。

彼女のその細長くて白い指が、個室の扉代わりに掛けられたのれんにかかった。
私に向かってまだ振り向かない。

私は、彼女の優しさに甘えてきた身分であるため、親や兄弟に感謝の言葉を伝えることが恥ずかしくてできないのと同じ理由で、ありがとうと言う代わりにふてぶてしい態度を取ってきた。

最後まで言えない私のありがとうを振り切って彼女の後ろ姿がのれんに吸い込まれる

ハルカ、かっこいいな

仲直りしたい

体温の上昇を感じる

足もまだ動く

まだいける

踏み出せ私

私たちの一生のお別れまで、あと0,2秒。





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