映画感想 『ナミビアの砂漠』 2 リアリティの効用
まだまだスルメのように良さが奥から出てくるなと思ったので、2回目の鑑賞のために再度近くのミニシアターに行ってきました。
2回目の鑑賞で一番気づくことができたのは、
主人公のカナの人格の精神年齢が思っていたより若い、ということだ。
前回観たにも関わらず、観終わった直後からだんだん忘れていたカナの感じ、というのは、「女子中学生の夏休み感」である。
注意散漫な感じや、ダラけ方や、猫背や、行くあての決まっていないような定まらない歩き方などは、
忙しない多動というより、むしろリラックスしているように見える。
つまり、
ものすごくのびのびしているのである。
こののびのび感がこの作品の肝であると思う。
あくまで、カナはどういう動物なのか?というのを観察している映画なので、
カナがどういう動物かを示すそういう10秒見ただけでわかる挙動みたいなものの演出、演技の生っぽさが秀逸なのである。
ネズミはちょこまか動き、ゾウはゆったり動き、ライオンはゆったり歩いていても獰猛さの迫力がある、
のように、カナののびのびとしたリラックス感というものがあり、
リアリティがすごいため、そのカナの性質がこの映画のテイストのベースとなっているのである。
ここまで自分の素をむき出しにすることは、中学生の夏休み以来ない人も多いのではないか。
普通はやはり高校生くらいから、色々な責任が出てきたり、恋愛に目覚めたりしたりしながら、
だんだんと人は童心的な純粋さを失っていくのであるが、
カナは21歳であるがまだその動物的な純粋さを失っておらず、
まるで、恋愛を知る前の女子中学生のようなのびのび感と無防備さが随所に見受けられる。
これを、単に子供っぽいという言葉で片付けれないのが主演の河合優実のドキュメンタリーを見ているかのような自然な演技。
人が一人で過ごしている時の素の状態のシーンを多く描いているのもあり、
素では無いという意味である程度人前で演じていることが当然な、現実で会う人より本物の人間っぽいと思わされるほど、
人の存在感を感じることができる映画である。
そして、これは本当に存在する人間なんだという感覚が増すほどに、不思議と、
カナの性格の悪さとして捉えていたものが違って見えてきた。
つまり、カナは単に懸命に毎日を生きているだけなのだということがわかったのである。
軽薄に見える彼女の性格も、スレているからというより、まだ純粋だからという見方も出来るようになるのである。
一般的な規範に照らし合わせる以前に、カナは嫌なやつになろうとかする意図もなくただ毎日を生きているだけで、
DVもするし、しんどくて泣いたりもするし、相手を褒めたりもする。
そして、後半の、彼氏に口や暴力でD Vを働き出すところも、
2回目鑑賞するまでは、理由はどうあれ性格の悪さとして捉えていたものが、
総合的なリアリティから生身の人間が本当に感情的になっている感じ、の迫力というのを感じ取れたため、
カナという人物を映画的に俯瞰して見ることができずに、
「しんどそうだな、大丈夫かな?」と、
彼女のことが少し心配になってしまったのである。
ちゃんとああいった形で表に出てくるほど明らかに精神に問題がある人のリアルな感じというのを感じ取れたからである。
つまり、未熟であったり問題を抱える人のある種の無力感から発生する切実さを感じることができ、カナという人物の印象の捉え方が変わったわけである。
もっと言うと、通常、映画において我々はある側面だけを見て短絡的にこの人は悪い人だ善い人だというジャッジを下してしまいがちだが、
それが生身の人間となると、キャラクターではなく、一人の多面的である人間(生物)であるという事実が、こういうことをするからこの人はダメだ。とは軽率には感じることができなくなる。という現象がこの映画でも起きるということである。
つまり、キャラクターたちの態度言動、そして存在自体が記号的なものではなく血肉を帯びるのがリアリティの凄みである。
現実でこういうが人いたら、という表現力と、受け手の想像力により、
映画という第3の位相で起こっていることの意味や印象というのはガラリと様変わりするということに気付かされた。
簡単に言うと、通常、
映画で人が泣いていてもそこまで動揺はしないが、
現実で人が泣いている場面に遭遇した場合、その強い感情が生み出す迫力に、
こちらも強く動揺するという方向性のことを映画でやってのけているということだ。
別の面で言えば、女の子のリアルな可愛さの解像度もすごいため、
カナのこれだけのある種素行の悪さを映しているにも関わらず、終始魅力的に見えるのがすごいところ。
それは小悪魔的な可愛さというよりも、むしろ、女の子って可愛いという当然の事実を映画で表現しているため、性格の悪さが回収されているのである。
良くメディアで見るような作られた可愛さではなく、現実で目の当たりにし惹かれるような本来的な女の子の可愛さを見せてくれるので、邦画でも稀に見る魅力的なキャラクターになっている。
そのため、カナのことを嫌いになるどころかむしろ好きになる人も多いのではないか。
それはつまり、カナという人間をこの映画の方法で描き切っているからの効果に他ならないのである。
これらの効果により、自分が普段は映画に出てくる人物を、生命ではなく、映像として見ているということに気付かされ、自分の想像力の脆弱性にショックを受けた。
それほどまでに、主演の河合優実が山中監督との化学反応によりウルトラCを連発し続け、2Dであるはずなのに、3DやV Rになったかのような感覚の拡張感を味わえる。それは、立体感とは別のベクトルでのリアリティが、一つの感覚のように作用するからである。
ナミビアの砂漠は邦画におけるフェーズチェンジャーであると誰かが言っていたが、まさに、「人間をここまで描けるのか」という感想。
劇的なストーリー展開が無くとも、人のどういう場面を描くか、どう描くかにより物事の重要度を増加させるという方向性における最高到達点を記録した作品であることは間違いない。