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小説 『異国情緒も宵のうち』 ① 失恋と空港

「河北君、カナダの短期留学は絶対行きなよ?」

 そうオレに言って来たのは、大学図書館内にある語学センターで働く田宮さんだ。彼女とは、TOEICテストの相談に乗ってもらうためによく会うので仲良くなっている。彼女は元々この大学の英語科の生徒で、要はオレの先輩だ。大学が提携を結んでいるカナダ・バンクーバーの大学に夏休みの間3週間参加出来る留学に、在学中2回も行ったのだそうだ。その後も、アメリカやヨーロッパを一人で旅したり、そのころからハマったというスカイダイビングをしに今でもハワイなどに定期的に行っているというワイルドな女性だ。

「いやあ、僕も行きたかったんですけど。今は、この前卒業したサークルの先輩にフラれちゃってそれどこじゃないっていうか・・メンタルが」
「だからこそ行くんよ。欧米は色々半端じゃないから、そんなん吹き飛ばしてくれるわ」
「あと、バイト先が1ヶ月近く休ませてくれるかどうか・・」
「留学は今しかいけんのやで?働くのはこれから嫌でもせないかんのやから。バイトなんか辞めてでも行くべきやわ」
「はあ、そうですか・・」

 田宮さんの圧力に負けてオレは留学に参加することに決めた。留学に参加する生徒を集めた数回に渡る打ち合わせや旅行代理店の人を呼んでの講習、留学に必要なスーツケースや他の必要物資を揃えることが思った以上に大変で、フラれた先輩のことで意気消沈しているオレは「いったい何をやっているんだろう」という気分で何度も心が折れそうになった。特に、ホームステイで世話になるホストファミリーにお土産を持って行った方が良いと留学担当の先生が言うので、イオンで和三盆とキティちゃんのドリンクピッチャーを選んでいる時はその思いが強く出た。なぜその2つをチョイスしたのか買ってから一度分からなくなったが、日本的なものを無意識で選んだのかもしれないと思った。

 紺色のスーツケースを引いて羽田空港に降り立つと、留学の説明会で何度も会った1学年下の後輩男子、1学年上の先輩女子二人がいた。すでに皆生活しているところから遠く離れた地に降りて心細いのか、俺を見つけると少し安心したような顔で寄ってきた。
「おはようございます」
俺がそう言うと皆返事をしてから、引率してくれる外国人の先生がまだ来ていないことを話題に出した。俺が、それならちょっとタバコ吸ってきていいですか?と言うと、根は真面目そうだがイキった中学生みたいな小物感のある後輩が、
「マジっすか?先輩タバコ吸うんすか?」
と、テンションを上げて喜び出した。「嬉しいなあ。意外っす」
「あ、うん。吸うけど」

俺はまだ19歳だが、この春に卒業した大学の先輩にフラれてから喫煙者のクラスメイトに教えてもらいタバコを吸い出した。まだ全く失恋から立ち直っていないので、藁にもすがる思いで吸い始めたのだが、確かに吸っている間は脳内で発生する快楽物質とヤニクラで少し気が楽になるため重宝している。友達は俺がタバコを吸い出したのを見ても、失恋のショックで死ぬか生きるかみたいなテンションで苦しんでいるのを散々見せられているので、「失恋でタバコ吸い始めるとかベタでウケる」みたいなことを言って笑う人は誰もいなかった。タバコの快感は、心身の依存が生み出す離脱症状が満たされることにより起こるもので、つまり、それはマイナスがゼロになっただけで、プラスに生み出された快楽ではないと言う専門家もいるそうだが、オレはそうは思わない。初っ端吸った時から、ドーパミンだかエンドルフィンだかがドバッと出て体の奥から力がみなぎり気持ちが明るくなるのを感じたからだ。それに、メンタルがキツくてもこれを吸えばなんとかなる、とタバコを持っていれば思えるのは、ある種実用的なお守りとしての頼もしさもある。なのでオレは、依存してしまった、なんていうマイナスな感情をタバコには一切持っておらず、むしろタバコがあってよかったと感謝し、会うたびに自分の気持ちを軽くしてくれる相棒のように感じている。

 失恋してからというもの、人生は、長期的なタバコの害悪など気にする余裕もないほどに1秒1秒が本当に辛く苦しい時もあるものだと思い知らされている。皆、恋人と別れる度にこんなにしんどいことに耐えているのか、オレがおかしいのかよくわからない。すでに、恋愛相談をしたバイト先の社員さん、大学の教授、友達のお父さんなど、自分より精神的に大人である人の前ではいとも簡単に泣いてしまった。そういう恥となる行為が全く気にならないほどに自分にとって事件であるという状態が初めてなので、自分でも驚いた。「メンヘラ」なんてバカにして軽く言うけど、当の本人たちは必死なのだと反省した。一刻も早く解放されて楽になりたいのに、どうしても忘れたくない、という相反する感情の狭間で引き裂かれ続けるこの呪いを残して、彼女はじわりじわりと思わせぶりな餌を撒きながら去って行った。不幸になれと恨んだり、一言でも言葉を交わしたいという旨のメールを打ったりするのは、どちらも、覚えている限り一番幸福な時間が彼女だったからだ。

「俺も吸ってきていいっすか?」
と目を輝かせながら、気弱で真面目そうな女の先輩二人に元気いっぱいに言い放つガサツさを見ながら、めんどくせ、と思ったが、俺だけことあるごとにタバコを吸いに行って皆に迷惑がられるよりはいいかと思った。


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