小説 『軽音部の先輩』
「晴天の霹靂」
初めて彼女を見たのは、大学内にあるコンビニに行ったときだ。商品棚の間でとんでもない美女とすれ違った。
「え?」
思わず心の中でそう呟く。入学してからあんな美女は初めて見たし、幼く芋くさい連中しかいないことに慣れ初めていたオレにとっては青天の霹靂だった。
午前最後の講義が終わったので、オレはクラスメイトの川崎と藤谷と一緒に講義室を出た。
「なあ、けんちゃんはニックの講義何個取ってるの?」
そう聞いて来たのは愛媛から来た川崎だ。
「オレは二つとも取ってるよ」
「そうなんや、俺と藤谷は一個だけなんよ。ニックの授業はフルで英語だから大変かなと思って」
「オレは、外国人の先生と絡めるチャンスなんてあんまりないから迷わず取ったけど」オレは笑って言う。「ニックは宿題も少ないしそんな大変じゃないよ」
「もう一つの方もそうなんや。確かに、必修の方も課題は多くないかも。後期は二つ取ろうかな・・」
「オレもそうしようかなあ。てか、昼ご飯どうする?」
藤谷が「疲れたー」と伸びをしながら言う。
「昨日は食堂だったから、今日はコンビニにせん?」
川崎がそう言いながら階段の窓から見えるコンビニの入り口を指差した。
「良いよ」
「かまわんよ」
オレと藤谷はそう言って頷いた。
「なあ?あの人めっちゃ美人やない?!」
すれ違った美女が少し遠くに行ったのを確認してからオレが二人にそう言うと、二人の表情にサッと影が差した。
「え?そうかなあ・・・」
そう言って誤魔化す童貞二人。童貞は変に斜に構えて素直になれない傾向がある。特に女の子に関してはそうだ。オレも童貞だが、変に意地を張ったりはしない。
「いやいや、あんな綺麗な人、学内で他に見たことないやん!」
オレは食い下がるが、二人は肩をすくめるだけだ。確かに、その人は大人っぽい顔立ちなので、幼い見た目が好みの人からしたらタイプが違うということなのだろうか。オレは小学生のころから洋画をたくさん観て来たせいか、日本のロリコン文化の洗脳を回避していたため、ある程度大人びた顔立ちが好みだ。そのため、同年代は基本的に幼く見え、好きになるのは年上が多い。
「いや、でも、あれは誰が見ても美女だ。群を抜いて垢抜けてる・・タイプがどうとかいう問題じゃないだろう・・」
そう思いながら再度振り返ってみると、その人はレジで会計を済ませてコンビニから出ていくところだった。
「けんちゃんまだ見てるし」
川崎が笑いながら言った。
「あんな人がこの大学にいるなんて、なんかキャンパスライフに希望が湧いてきたわ」
「今まではなかったんかい!」
藤谷がつっこむ。
「もちろん無かったよ!」オレは去っていくその人を目で追いながら言う。「これが一目惚れというやつか・・」
「軽音部に誘われた日」
オレとその美女の出会いのきっかけを作ったのは、彼女を初めて見た日にコンビニに一緒に行ったクラスメイト二人だ。
「けんちゃん、一緒に軽音サークルに入らん?」
講義が終わったのでオレが荷物をまとめていると、藤谷が話しかけて来た。
「軽音?」
オレが少し面食らって聞き返す。オレは高校でも部活に入っていなかったので、サークルに入ろうとは思っていなかったのだ。
「けんちゃん洋楽とか好きなんやろ?楽しいよきっと」
「ああ、まあ良いけど・・」
「それじゃ、決まりな!今日、入部する人のための説明会と歓迎会あるらしいから行こや」
「わかったー」
二人と一緒に入部希望の紙を持って指定の場所に集まると黒髪ロングのあべまりの姿があった。彼女は、俺の幼馴染の竹野と同じ高校のクラスメイトである。オレとあべまりが同じ大学・学科に入るということで、竹野に彼女を紹介してもらい前から親交がある。そう言えば以前、軽音部に興味があると言っていた気がする。
「あれ?けんじやん!軽音部入るん?」
俺の姿を見たあべまりが目を丸くして食い気味に聞いてきた。相変わらずテンションが高い。
「そう、さっき二人に誘われてさ」
「へー、ええやん、ええやん!」
「オレ、楽器弾けんのやけどなあ・・」
「練習したらすぐやって!私もネットで動画見つけて真似しよったら弾けるようになったよ」
そんな感じでだべっていると部長が現れた。
「えー、じゃあ部室とか練習場所を案内するんでー。それが終わったら部室前の共同スペースで新歓しまーす」
練習場所は学内でも隅の方にあるコンクリートの建物で、中は電気をつけても薄暗く無造作にスピーカーが並び配線が絡み合っていた。部室はコンビニがある建物の二階にある部屋で、それぞれの部の表札がドアに貼ってある。中に入るとロクヨンなどのゲーム機やソフト、菓子や荷物が散らばり上級生たちが講義をサボってダラダラする部屋のようだ。その大学特有の怠惰な雰囲気は嫌いではないが、下級生が溜まれる感じではなかった。
案内も終わり、共同スペースに行くと上級生たちが菓子や飲み物、紙皿や割り箸などをテーブルの上に並べながらガヤガヤしていた。その様子を眺めていると、オレの目に一人の姿が飛び込んで来てそのまま体が固まった。その中にコンビニで見かけた美女がいたのだ。
「え、あの人軽音部なんだ。マジか・・・」
オレは、嬉しさよりも緊張が先行して急に大人しくなる。飲み物が入った紙コップを手に持ち、先輩に挨拶して回るしきたりらしく、それに従い回っているとその美女のところに行きついた。
「よろしくお願いしまーす」
オレが乾杯を促しながら挨拶すると、
「よろしくお願いしまーす」
と笑顔で返してくれた。
声もかわいいじゃねえか・・・少しおっとりしたお姉さん感がたまらない。
その後、その美女は上級生などと話しており、話す機会はなかったが、言葉を交わす機会があるなどとは思ってもみなかったので、そのやり取りだけでオレは興奮していた。
「初ライブの日」
軽音部に入り初めにすることは、八月にあるライブに向けてバンドを組むことだ。ライブは町にあるライブハウスを貸し切ってするらしい。オレは、誘われるまま入ったサークルで、誘われるままクラスメイト二人とバンドを組んだ。後はドラムがいなかったので薬学科の大人しそうなやつを誘い入ってもらった。
俺は楽器の経験は無かったがカラオケには高校の時によく行っていたため、あまり楽器を使わずに済むギターボーカルが良いとリスクエストしたところすんなり通った。また、ライブで演奏するのは一曲でも良いとのことだったので、あべまりに教えてもらった洋楽バンドのマイケミカルロマンスの「ティーンエイジャーズ」という曲はどうかとリスクエストしたところ、これもまたすんなり通った。
「なんだこいつら、誘って来たくせに我が無さすぎだろ・・・」
そう思ったが、まあ別に良いか。
ネットで「ティーンエイジャーズ」のコードを検索したところ難しいバージョンと、簡略化したバージョンがヒットした。難しい方は間に合いそうに無かったので簡単な方にすることにした。三つのコードだけで一曲が弾けてしまうらしい。クラスメイト二人がそれぞれ、リードギターとベース、薬学科のやつがドラムをしてくれるため、オレが適当に弾いても誤魔化してくれるだろう。基本的に自分の家で歌とギターを練習し、順番が回ってきたら皆で練習部屋に行き音を合わせた。
ライブ当日、緊張しいのオレは朝からソワソワしていたが、本番には強いのでなんとかなるだろうと高を括っていた。しかし昨夜から緊張していたストレスからか、鼻のてっぺんに真っ赤で大きいデキモノが出来ていた。
「なんだよ、よりによってこんな日に・・・」
焦ったオレはオカンのコンシーラーを掴み、デキモノにこすり付けてみた。何とか目立たなくなったようだ・・。
ライブが始まり、新入生は出番が来るまで演奏しているバンドに合わせて一番前で無理やり盛り上がらなければいけないという決まりがあった。仕様がないので周りに合わせてぴょんぴょんジャンプしていると、クラスメイト二人がクラウドの後ろの方で顔をこわばらせてうつむいている。
「どうしたの?」
「いや、このノリはちょっと・・・」
オレは童貞だが、遊び方は割と激しい方だったので何とも思っていなかったが、この二人はこんなノリは初めてで怯えていたのである。
「あ、こいつらインキャだ」
俺はそう確信した。そう、この学校は基本的にインキャで構成されており、特にオレの代からその率が跳ね上がったようなのである。上級生には割と「大学生」っぽい、大人な見た目と雰囲気を持った人がいるが、オレの代には自分も含め一人もいない。その理由は、少子化と専門学校の乱立で生徒を取られた大学が、合格者の偏差値を年々下げていることに原因がある様だ。確かに、上級生を見てみても、年が近くなるほど芋臭い顔をしている。オレの経験上、人は偏差値が低くなるほど、幼く、芋臭く、かつ、恐怖心が強くなる傾向にある。そして、インキャの一番の特徴は、その恐怖心の強さだ。
「まあ、頭だけでも揺らしとけば?そのままだと先輩に目付けられるんじゃない?」
見かねたオレが言う。
「そうだね、何とか溶け込むわ・・・」
そう言って、顔を引きつらせながら手を上げたり頭を上下させたりして二人は何とかその場をやりすごした。
オレ達のバンドの番が間近に迫ったので控え室に行くと、上級生たちがソファを陣取り談笑していた。そして、その中に例の美女が座っていた。彼女は、今年最終学年の四年生で、名は「あいさん」というらしい。
「イケメンじゃね?イケメンやん」
一番イケイケの四年生男子の先輩が、オレを指差してそう言い出した。
「またまた、ご冗談を」
「彼女いるの?」
「いえいえ、一回もできたことないんですよ」
「えー!!」
ソファに座っていた主に四年生で構成された上級生たちが騒ぎ出す。
「え。じゃあヤったことないってこと?」
「もちろん。ファーストキスもまだですよ」
オレは開き直って堂々と答える。
「まあ、オレも初カノは大学入ってからやし、これからやって!」
話しかけて来た先輩が言う。
「頑張ります」
「どういう人がタイプなの?」
そうあいさんが聞いてきた。ナメられてはいけないと思ったオレは。
「椎名林檎とか・・・」
と答える。
「レベル高いねー!凛とした人が良いのか。私ももっとシャキッとしないとね!」
そう言って、あいさんは椎名林檎を真似てまぶたを半分落とし鼻先をツンと上げてみせる。あまりに魅力的だった。正真正銘の美女がそこにいた。あいさん、今オレの頭に椎名林檎の「し」の字もない。君しか見えていない・・・。
そうこうしている内に、オレ達のバンドの出番が来たのでステージに移動し演奏をする。オレはライブ直前にあいさんと話せたことで恍惚としていたので、演奏自体はあまり緊張せずに済んだ。朝から出現した鼻のデキモノはあいさんと話せることのフラグだったと思った。調子に乗ると願望は妨害されるが、逆に何かハンデがある状態だと良いことが起こるという法則が俺にはある。
「棚ぼた式未体験ゾーン」
ライブも無事に終わって一週間ほど経った日、オレが倫理学の講義を受けるために講義室に入り自由席に座り教材をカバンから探していると、あいさんが教壇に近い方のドアから入って来た。オレは英語科であいさんは日本文学科だが、学科、学年問わず一般科目は講義が被ることはある。
「でも、あいさんと被るなんて・・・運命か?」
勇気を出してオレが手を振ると、口を開けて驚いた仕草をしてオレの方に向かって来た。この講義室の机は横一列が一本に繋がっており、椅子は固定されている。そしてかなり隣の席が近いのである。ヒジを横に広げれば当たりそうな距離にあいさんが座り、オレの心拍数は一気に跳ね上がる。
「同じクラス取ってたんですね!」
とオレはできるだけ愛想よく言った。
「そうなんよ。私三年生まで結構サボってたから、残ってる科目がめちゃくちゃあって四年生はハードスケジュールよ」
美人で真面目過ぎず適度に怠惰、最高じゃねえか・・・。
見たところ、あいさんはEカップはあり、しかも胸元が広いシャツを着ていたため、少し前かがみになると谷間がチラチラと見えた。
「マジか・・・え?いいの?」
一目惚れした年上の美女が横の席に座りオレと談笑し谷間がチラチラと見えている状態。という完全に未体験ゾーンに突入したオレは舞い上がりまくっていた。なぜ急にこんな良い思いを出来ているのか脳が追いついていなかったのだ。ただ、感情の起伏を悟られないように隠すのは、日々フラグを立てない様に心がけていることもあり慣れており、声が上ずったりすることはなかったためあちらから見れば普通だと思うようにした。講義中も、あいさんが前かがみになる度にオレは顔を前に向けたまま眼球だけを動かし谷間を盗み見て、
「凄すぎる・・なんなんだ一体・・・」
と毎回軽いパニック状態に陥る。
講義が終わり、一緒に席を立ち部屋を出ようとすると、
「けんちゃん、メルアド教えて?いや、私が書くわ」
と言って来た。この時、オレは同時に二つのパニックに陥る。一つは、あいさんがオレのことを「けんちゃん」と呼んだことだ。愛称とは一気に距離を縮めるものであり、オレは歓喜に震えた。が、その0.3秒後、次はメルアドを交換しようと言いだしたのだ。
「!?」
オレが絶句していると、あいさんは手帳をカバンから取り出してちぎり、サラサラと可愛らしい丸文字でメルアドを書きだした。
「はいこれ!」
「あ、はい・・・」
「良かったらメール送ってね。また話しよー」
そう言い残し次のハードスケジュールをこなしに去って行くあいさんの後ろ姿をオレはいつまでも見ていた。メルアドが書かれた紙を握りしめたまま。
「意図不明レター」
送信日時:09 / 10 / 19:38
けんちゃん、メールありがとう(^O^)/
うん、講義が被るなんてびっくりだよね。私がサボってたおかげだね(笑)
けんちゃんが手を振ってくれて嬉しかったよ😊
あの講義全然知り合いいないから寂しかったんよ(´;ω;`)
映画が好きなんだね。さすが英語科!私は洋画とかはあまり観ないからまた教えてね。
最近は流行に流されてもっぱらアニメが多いかな。話題にもなるし!オススメはいっぱいあるよ😊
音楽は、”椎名林檎好き”のけんちゃんには馬鹿にされるかもしれないけど相対性理論とか?あとは、ちょっと前の人だけど矢井田瞳とか、あとはラブサイケデリコとかも聴くよ!洋楽もオススメあったら教えてね。
愛衣より
あいさんと数日おきにメールをするようになり、内容はサークルの人達のことや趣味、講義や教授のことなど、意外と話題は途切れずにやり取りすることが出来ている。既に銀行に就職が決まっていて肩の荷が下りている事、しかし、入るまでに銀行業務に関する資格を取らなくてはいけなくなり、今までサボっていた講義、卒論、資格の勉強と、忙しい最終学年になりそうだということを聞いた。また、遊ぶ金を作るためバイトもドラッグストアでしていて、三年生まで年間100万は稼いでいたそうだ。大学の講義がおろそかになるはずだと思った。
だが、あんなに綺麗な人に彼氏がいないわけがないと思っていた。舞い上がってはいたが、そもそも、軽音部の先輩後輩としてメールするくらい普通なんじゃないのか?キャンパスライフだぞ。理事長だって入学式の日に言ってたじゃないか。
「性に奔放な方は十分に注意されるようお願いします」
この言葉にはカルチャーショックを受けたものだ。つまり、もうセックスは「不純異性行為」では無く、容認されたもので、個々の責任なのだ。これは男女間の垣根は高校までと比べると低くなっている証拠だ。インキャ率が高い大学とはいえ学食などで男女入り乱れて座っているテーブルもちらほらある。知らぬ間にパラダイムシフトが起きていたなんて・・。そう言えば、高校を卒業した瞬間に今まで押さえ付けられていた反動で、美容室でトイプードルが頭に乗っている様なクルクルの金髪にしてもらったままだが、もちろん注意されることもない。そう、思っているより自由な世界に突入しているのかもしれない。メルアドを聞かれたくらいで変に意識しているところを見せたら「芋臭い」とナメられてしまうかもしれない。もう高校までの認識でいるとダメなんだ。メールくらい何だというんだ。
「なあ、4年生のあいさんおるやん?あの人って彼氏いるのかな?」
同学年だがオレより一歳年上のため、先輩にも顔が広い軽音部のやつが練習場所の近くを歩いていたので聞いてみた。
「ああ、軽音部のOBの人と付き合ってるらしいよ」
「へー、そうなんや」
なんとなく分かってはいたけど、やっぱりショックだ。やっぱり今しているメールも頭にトイプードルが乗っている面白そうな後輩がいたからつついてやってるくらいのもんなのか・・。
昼下がり。次の講義まで時間があったので大学の図書館内にあるテーブルでクラスメイト二人とダベっていると、あいさんが図書館前を通りかかり目が合った。あいさんは急にソワソワした素振りをしながらガラス越しに手招きをする。
「あれ、けんちゃんを呼んでるんじゃない?」
川崎が目を凝らしてあいさんの方を見ながら言った。
「そうみたいやね、荷物見ててくれる?」
と言い残し俺は図書館入口の扉を開けた。
「ごめんねー、今大丈夫やった?」
「全然全然、大丈夫ですよ」
「・・はいこれ」
横掛けの小さなカバンから何かを取り出し俺に差し出す。
「ん?ありがとうございます」
「別になんでもないんやけどね。じゃあ私、次の講義あるから」
と少し恥ずかしそうにニコっと笑い去ってしまった。渡されたのは、可愛らしいミニサイズの封筒で、真ん中に星マークのシールが貼ってある。手紙だ。
「何やったん?何それ?」
「手紙もらった」
「ふーん」
ここでも童貞二人は斜に構えまくり大して興味のないフリをする。
俺はこういうのは一人でいるときに開けたいので帰りまで取っておくことにした。
そして、講義が全て終わったので家に帰ってから封筒を開けてみた。
けんちゃんへ
最近メールに付き合ってくれてありがとう!
とっても楽しいです(^^♪
けんちゃんめっちゃ色んな映画とか音楽知ってるから世界広がるわ~
教えてもらったSuperHeavyの『Miracle Worker』って曲聴いてみたよ!サビが陽気で良い感じやね^_^ 最近通学中毎日聴いてるよ。
あとは、Paramoreも好みの曲いくつかあったよ。次に講義で会ったときに話すね!
愛衣より
美女から感謝の手紙・・・。
「惚れてまうやろ!」
こんな手紙はサークルの先輩後輩間では普通なのか?好意がないのに手紙なんて贈るのか?ただ生真面目に感謝を伝えようとしているだけなのか?いや、いくらなんでも・・・くそ!童貞だから分かんねえ!
「ええい!どうでもいい!好きだ!」
「どんな告白」
送信日時:10 / 07 / 20:25
あいさん、手紙ありがとうございます^_^
手紙なんてあまり貰ったことがないので、すごく嬉しかったです。
Miracle Worker気に入ってくれたんですね😊 僕も最近ハマってるんです。MVのミックジャガーがもうおじいちゃんだけど笑
あの、ここからちょっと話変わるんですけど。
あいさんに彼氏さんがいるのは知っていますが、卒業するまでで良いので遊んでくれませんか?
その夜俺は自分の思いの丈をぶつけるため、二時間ほどかけてメール文を作成し、震える指で送信ボタンを押した。
「浮気してくれませんか?」
と露骨に言えるわけが無い。練りに練ったつもりだが、肝心の「好きです」という言葉を入れ忘れた。送信ボタンを押した直後から俺はケータイを握りしめ睨みつけていたが、待てど暮らせど返事は返って来ない。もう送ってからかれこれ2時間以上は経っている。
「やばい、嫌われたか?!」
「遊んでくれませんか」なんて言い方しなければよかった。あちらは手紙を贈るほど丁寧な人なのに、軽いやつだと思われたに違いない。ああもうおしまいだ!
俺がぐったりとじいちゃんから受け継いだあんま機に座って戦意喪失していると、電話が鳴り、画面には「あいさん」と表示されている。
「来た!」
一度大きく深呼吸をしてからボタンを押す。
「はい、もしもし」
「あ、けんちゃん?今大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
「ごめんね遅くに。バイトから帰って来てお風呂入ってたから気づかんかったんよ」
電話越しに聴くあいさんの声は、スローでいつもより可愛らしく囁くような調子で色っぽい。あちらも実家のため声を張らないようにしているのだろうか。
「ていうか、けんちゃんのメールこれどういうこと?」
なんと、こちらの意図が全く伝わっていなかったのだ。
「あ、えーと・・あいさんに彼氏さんがいるのは知ってるんですけど。その・・好きです」
「あ!そういうことか」
「はい・・」
「なるほどなるほど」
大事な話をしているのに、彼女のあまりの声のエロさに興奮してしまう。
「まあ、返事とかは別にいらないって言うか。気持ちを伝えたかっただけなんで・・」
「うーん。明日って土曜日やんね?夜って空いてたりする?」
「あ、はい。空いてますよ」
「とりあえず飲みに行かん?」
「あ、はい。行きましょう」
「ほんならそういうことで、明日話そう」
「りょーかいです。ではではお休みなさい」
「うん、お休みなさい」
「・・・」
「切るよ?」
「あ、はい」
「バイバイ」
今日はなんて濃い日なんだ。手紙をもらい歓喜し、変な告白文を送り絶望し、電話越しのエロい声に悶え、二人きりで飲みに行くことになってしまった、それも明日だ・・。
「スパイキッズ4D」
翌朝、あいさんに、今夜行く居酒屋はオレが探しておく旨をメールしたら、
「ありがとう😊 私が誘ったのにごめんね!」
とすぐに返信が来た。こういうことはしっかりリードする意思を見せないと頼りなく見られてしまう。それに、全くのノープランで行き、なかなか店が見つからないなんてシラけてしまうと思った。そんなことは絶対に避けなければならない。早速、ケータイを開き町の居酒屋を調べていると、「わたみん家」が出てきた。ここならたまに友達と行くし、店内も適度に照明が落ちていて女の人と2人で行くにはピッタリだと思った。また、ビールジョッキに入って出てくるパスタを揚げたおつまみが気に入っているのだ。居酒屋が開くのは夕方からなので家を出る直前に予約することにした。
昨日寝るのが遅かったこともあり、もう昼が近い。ケータイをイジっていると、十三時から上映される『スパイキッズ4D』を桐野と観に行く約束をしていることを思い出した。しかも車を出すと言ったのはオレだ。急いで昼ごはんに冷凍うどんを茹でて食べ、身支度をして車に乗り桐野の家に向かった。
「着いたよ」
とメールを送っても、なかなか家から出てこないのはいつものことだ。桐野は高校三年間ずっと同じクラスだったやつで、今でも月に一度は会って遊んでいる。絵を描くのが好きなので、高校を卒業してからはデザイン系の専門学校に通っているらしい。彼は、何というか、クセが服を着て歩いているようなやつだ。ヘビーメタルのバンドでギターを担当していて、ホラー映画ばかり観ている。見た目は、ギョロリと目が大きく、髪は遺伝なのか常に逆立っている。要素だけ聞くと怖そうだが、大体の人からナメられている。なぜナメられるのか、よく二人で分析するが、おそらく気が小さく人に対して強気な態度を取ることが出来ないからだろうという結論で落ち着いている。しかしそんな桐野だが、なぜかオレに対しては強気なのだ。
10分近く待たされたのに、ゆっくりと家から出てきた桐野は今日もホームレスみたいな格好をしている。
「出してちょうだい」
助手席にドカッと座るなりそう言い放つ桐野。
「遅っそいわ!スパイキッズ始まってしまうよ?」
「別に俺は困らない」
いつもこの調子なので、俺は怒る気も無く、すぐにエンジンをかけて走り出す。慣れとは怖いものだ。壊滅的に自己中だが、頭の回転が速く、ユーモアに富んだ毒のある言葉を連発しておもしろいので全体で見て許容している。オレはなんて心が広いやつなんだ。
イオン二階にある映画館に着きカウンターで急いでチケットを買うと、3Dメガネと名刺が二つ並んだくらいの大きさの厚紙も一緒に手渡された。スパイキッズ「4D」の「D」内の一つは匂いだとは知っていたが、「まさかこの紙を嗅げというのか?」厚紙にはスクラッチの様な四つの円の上にそれぞれ1.2.3.4と番号が振ってある。
3Dメガネをかけて映画を見ていると、
「1番をこすって!」
などとスクリーンから指示が出て、その度に紙を指でこすり嗅ぐという原始的なものだったが、逆にそのチープさがツボに入り笑ってしまった。
「確実に振られるわ」
帰りの車で昨日あったこと、そして、その大学の先輩と話し合いのため今夜飲みに行くことを伝えると桐野がそう言い出した。
「大学には芋臭い連中しかおらん言うて嘆いてたやないか?」
「いや、上級生にはちらほら美男美女もいることに最近気づいたんよ。垢抜けてるっていうの?」オレは興奮気味に何とか伝えようとする。「でも、その先輩はその中でも別格っていうか・・何でこんな田舎の大学にいるのか分からんくらい美人なんよ!」
「なんでそんな美女がお前なんかとデートするんや?」そう言って笑う桐野。「どうせその人ミミズみたいな顔してんねんやろ」
「いや、マジで可愛いから。見たらびっくりするよ!」
「ほー、ほんまかね。怪しいもんやで」と桐野は言い、まともに取り合おうとしない。「写真撮って来るまで信じんからな」桐野はそう言いながら靴を履いたまま車内のフロント部分に足を乗せる。
「やめろや!汚れるやろ。今度あいさん乗るかも知れんのやから!」慌ててオレが注意する。
「そんなの俺の知ったことじゃないし、今日お前は振られるんやからそんな心配せんでええ!」
「じゃあ、なんて言って振られるんよ?」
「「けんちゃん臭い」って言って振られるわ」
「もらった!」この瞬間オレはそう直感した。このけなされ方はフラグだ。「どうせ今日振られるという想定」というハンデがオレに翼を授ける。
でかしたぞ桐野!
『人生の運を全て使い果たした日』
桐野を送ってから家に帰って来ると、もう十六時を過ぎていた。あいさんとは町の駅で集合する約束をしていて、その時間は十八時半だが、用意したり、電車で町に向かったりすることを考えると早くした方が良いかもしれない。急いでシャワーを浴び、制汗剤をつけ、一番気に入っているミッキーがプリントされた黒い長そでのシャツを着る。居酒屋に電話し、
「18時50分、大人2人で」
と予約を入れた。オレはまだ十九歳だが、居酒屋で免許証の提示を求められたことはない。と言っても、まだ片手で数えられるくらいしか飲みに行ったことはないのだが。
自転車で駅まで行き、椅子に座って待っているとすぐに電車が来た。「強制的にオレを町まで運んで行く金属の箱だ・・」、乗ったらもう後戻りはできないのだ。いつもなら何も感じない電車の無機質なガタガタという音にも負けそうになる。
「緊張するなあ・・」
昨日飲みに行くことが来まったので心の準備をする暇もなく頭はフワフワしたままだが、電車が最終の駅に近づくほど胃が締め付けられる。そう言えば、あいさんとは講義の前後やメールでは話しているが、腰を据えて二人きりで面と向かって話すのは初めてかもしれない。こんなことなら、高校の時に頑張って彼女を作って慣れておくべきだった。高校生のときは、同学年の子や、通っていた英会話スクールで同じクラスになった大学生の人など常に好きな人はいたし、
「彼女が欲しい!」
と周りにも言っていたが、その言葉はそこまで切実では無く、桐野などとはちゃめちゃな遊びをしているだけでも十分に楽しんではいた。それに、オレが好きになる人は毎回彼氏がいたので、奪ってまで付き合うという発想は無かった。また、告白されたこともないので、ここまでファーストキスも持ち越されてきたというわけだ・・。
駅に着くと頻尿のオレはまずトイレを探す。用をたし、乱れた髪を鏡を見ながら軽く直す。改札を出て駅内の広場で待っていると、ほどなくしてあいさんが現れた。ボーダーのシャツにジャケットを羽織り、黒いタイツの上にホットパンツという出で立ち。
「うわぁ・・綺麗な人だなぁ」
学内だけでなく、街中で見ても他を圧倒する美しい女性が微笑みながらこちらに向かってくる。今日がオレの命日だって構わない。
「やあやあ」
声が届く距離まで来たあいさんがてのひらを見せてゆっくりと言った。
「あ、どうも」
オレもニコッと笑い返して言う。
「なんか、大学の外で会うの初めてやから緊張するね」あいさんはそう言って、下がり眉を作って恥ずかしそうに笑ってみせる。「居酒屋調べてくれたんやっけ?どこどこ?」
「わたみん家っていうとこですよ。行ったことあります?」
「無いかも・・どの辺にあるの?」
「あっちの方・・オレ、道の説明得意じゃなくて・・だいたいの道は調べてるんでとりあえず行きましょう」
「そうやね、楽しみ」
オレがあいさんに教えた音楽の話などをしながら駅を出てアーケードの下に入り十分ほど歩くと、目的の居酒屋「わたみん家」の看板が見えて来た。
「まだ予約の時間より早いけど大丈夫ですよね。入りましょうか」
俺がケータイで時間を確認しながらそう言うと、
「うん。大丈夫と思うよ、ダメなら待ってたら良いし」
と、入り口から中を覗き込みながら返してきた。入り口で靴をロッカーに入れてから上がるタイプの店だったので自分のスニーカーを入れていると、
「二段あるみたいやね、私のも入れて」
とあいさんは自分のサンダルをオレと同じロッカーに突っ込んできた。
中に入り店員に名前を告げるとすぐに中に通された。まだ十八時半を過ぎたばかりだったため、オレ達二人が今日初めての客のようだ。
「わぁ、貸し切りだね」
そう言いながらあいさんは椅子に座り、周りの席を見渡す。
「そうですね、まだ外明るいですもんね。まだお酒飲む時間じゃないか」
「まあ良いやん。 私たちは先にいただくとしましょう」
あいさんはそう言いながらメニューに手を伸ばす。
「カリカリパスタっていうおつまみ無いですか?前来た時に食べて美味しかったんですよ」
「え?どれどれ?」
「あ、これですね」
俺はドキドキしながら彼女が持っているメニューのページをめくって写真を指差した。
「あー、美味しそうやん!まずはこれやね」あいさんはメニューのカリカリパスタの写真を指でトントン叩く。「私は絶対焼き鳥盛り合わせは頼むんやけど良い?焼き鳥好きなんよー」
「もちろん。オレも焼き鳥大好きですよ。特に居酒屋のは味が濃くて良いですよね」
「そうなんよー。お酒は?けんちゃん飲めるん?あなたまだ未成年でしょ?」
ギクリとしたが、あいさんが意地悪そうに笑っているのを見て、
「言わなきゃバレないですよ。何回も飲みに来てますから大丈夫です」
とオレは言った。オレはマスカットサワーを頼み、あいさんは「やっぱり一杯目はビールが飲みたくなるんよねー」と言いながら生ビールを頼んだ。オレは一度ビールを試したことはあるが、何が美味いのか分からなかったのでそれ以来飲んでいない。
「昨日、慌てて手紙渡したから言えんかったけど、髪、黒くしたんやね!」あいさんはそう言いながら人差し指でクルクルと自分の髪を巻くジェスチャーをする。「金もカッコ良かったけど黒も似合ってるよ」そういうあいさんは、ほのかに茶色のショートカットの髪を耳にかけ、前髪は作ってふわりと右に流している。
「ありがとうございます」
オレが照れながら言うと、あいさんは何も言わずに「ニコー」っと笑う。あいさんが笑うと本当に可愛い。女性だけが持つ独特な頬のふくらみが作るカーブは、この世で最も愛おしいものの一つに思えた。
酒と料理が来たので乾杯し、二人同時に飲み始めた。ジョッキ片手にゴクゴクと生ビールを飲むあいさんの姿は、いつもより大人っぽく艶めかしい感じがした。そして、明らかにオレよりアルコールを飲み慣れている雰囲気に少し劣等感を感じた。
「カリカリパスタ食べてみよー」
あいさんは揚げて塩をまぶしたストレートパスタに手を伸ばす。
「噛むとき注意して下さいね。気を付けないと歯茎に刺さりますよ」
と、注意を促すオレは二回ほどパスタを噛んだ勢いで歯茎に刺さったことがある。これはメニューに注意書きとして書いた方が良いレベルで痛かった。
「こわっ。ゆっくり噛むわ」あいさんはパリパリ音を立てながらパスタを噛み砕く。「あ!美味しいー。いいねいいね。好物が一つ増えたかも」
その後、しばらくは飲みながらサークルの人達の話や好きなバラエティ番組の話などをしていると、二杯目の酒が二人とも終わりに近づいてきた。
「次何か頼む?私は次くらいでラストかなー」
「オレも次ラストにしますよ。じゃあカルーアミルクで」
「女子やん。ラストなんやからもっと強いの頼みなよー」
「わかりましたよ。じゃあ、焼酎水割りで」
「お!やるねぇ。私は白桃サワーにしよー」
「普通じゃないですか!」
オレが笑って言うと、
「ジョッキで来るんやからアルコールの量は同じくらいよ」
と意地悪く微笑む。
酒が運ばれて来たので乾杯をして酒に口を付ける。
うわ。苦いなぁ。オレもサワーとかにすれば良かった。カッコつけて焼酎なんか頼むんじゃなかった。時間はいつの間にか二十二時前だ。気を張っているせいなのか、会話に集中していたせいなのか、時間が経つのが異様に早い。二人とも酔いが回り最初よりは口数が少なくなる。
「それにしても昨日の話はどうなるんだろう・・・。
あまりにあいさんとの会話が楽しすぎて、しばらく肝心なことを忘れていた。オレから切り出した方が良いのか?」
などと考えていると、左ふくらはぎの辺りに何かかが当たった。店内は暗いので目を凝らして足元を見ると、あいさんが足を延ばし足先を俺のふくらはぎに絡ませている。
え!マジか・・・
パニックになりながらあいさんの顔を見たが、メニューを見るフリをして目を合わせようとしない。そうしながらも尚、あいさんは足の甲をオレのふくらはぎに擦り付けてくる。オレが固まっていると、あいさんはパッと足を戻したかと思うと、
「よし!最後二人でイッキしよう!」
とジョッキを手に取り乾杯を促す。
「大丈夫なんですか?もう結構キテるんじゃないですか?」
「いや、私は先輩やからね。ここは女を見せるよ!」
そう言われて断るわけにもいかず、乾杯し二人で残りをイッキ飲みする。
「あー。久々にお酒飲んだわ。もう良い時間やね、お店出ようか」
「そうですね」
「5230円になります」
店員がそう言うなり、あいさんは素早く4000円をトレイに置き、
「けんちゃんは1000円で良いよ」
と言い出す。ここでモメて店員を待たせるのもあれなのでオレは「後で払いますから」と言い1000円と小銭を出した。
出口のロッカーでオレはあいさんのサンダルを取り出し床に置く。あいさんは、「ありがとう」と言い座って履こうとするが、酔っているのかサンダルの紐をなかなか留められずまごついている。
「ごめんねー。先に出てて良いよ」
とあいさんが足元を見ながら言っている隙にオレは3000円をあいさんのカバンに入れようとする。
「けんちゃん!ダメだよ!」
あいさんはそう言ってカバンの口をふさぐ。
「いいですから。ほとんど出して貰ってカッコ付かないじゃないですか」
「今日は私が誘ったんだよ。それに、私はバイトしてるから余裕あるのさ。けんちゃんは学生ニートでしょ?」
本来、こういう金銭の譲り合いはヘドが出るほど嫌いだが、あいさんとならイチャついているようで楽しい。
「じゃあ、1000円だけ」
あいさんはそう言ってオレの手から1枚だけ抜き取る。
「なら、次はオレが誘いますから奢らせて下さいね」
「わかったよ。考えとくわ」
あいさんのその言葉に、オレの胸がざわつく。「わかったよ?」つまり、オレが誘えば次も会ってくれるという事なのか?あいさんの言葉を頭の中で反芻しながら、二人並んで歩き駅の近くの路地まで来た。電灯はほとんど無く、かろうじてあいさんの表情が分かる程度だ。ここでオレは一つの賭けに出ることにした。このままだと、昨日の続きの話し合いという話し合いも出来ず、今日は曖昧に別れることになりそうだからだ。何か爪痕を残さなければならない。それに、さっきあいさんが足を絡ませて来た時も固まってしまい何も出来なかったではないか。このままだと腰抜けの後輩だとナメられてしまう・・・。
「・・・あいさん」
「うん。どしたん?」
「オレとじゃんけんしてくれませんか?」
「じゃんけん?」
あいさんはそう聞き返しながら不思議そうな顔で笑う。
「で、もしオレがじゃんけんに勝ったらキスしてください」
「え?!」
「良いですか?」
「うーん・・・えー?」
「良いですか?!」
「あ、うん。分かった・・・」
「じゃあ一回勝負ですよ。じゃんけん・・」
結果は、オレがグーであいさんがチョキだった。
マジか・・勝っちゃった・・。
この日、この夜、オレは人生の運を全て使い果たしたのだ。このじゃんけんの勝利は、ただの二分の一の割合の勝利では無く、それ以上の奇跡が目の前で起きている気がしてならなかった。
「えー!負けちゃった・・」
そう言うなり足早にその場から逃げようとするあいさん。オレはすぐに追いかける。
「あいさん!ダメですよ。約束は約束ですからね!」
「えー・・ほんとにするの?」
「もちろん、約束ですから」
「・・・わかった」
この言葉を引き出したオレ自身が「本当にしてくれるんだ・・」と一瞬うろたえる。しかし、もう後戻りは出来ない。「オレは何事も本番には強いんだ」と心の中でつぶやき、あいさんの両肩を持つ。
「いいですか?しますよ?」
「・・・うん」
しかし、オレが顔を近づけると、恥ずかしがり下を向いて肩をすくめ身を固めてしまう。さっきまで豪快にビールを飲んでいた彼女が急に小さな女の子になった気がしてゾクっとする。
「・・あいさん、下向いてちゃ出来ないですよ」
「うん、ごめん」
そう言ってあいさんが上を向いた瞬間、オレは顔を近づけ唇を押し付ける。キスは、想像以上だった。しっとりと濡れたあいさんの丸い唇の感触が大脳に伝わり脳汁がドバドバ出ているのが分かる。
「恥ずかしー!」
あいさんはそう言って手で前髪を抑え顔を隠す。
「っはい。ありがとうございました。いただきました」
そういってオレはふざけて軽く会釈する。
「・・もう、犯罪よ私。けんちゃん未成年やろ?」
そう言って笑うあいさん。
「オレからしたんだから大丈夫ですよ」
「うーん。まあそうか」
などと不毛なやり取りをしながら、歩いていると、
「ねえ?」
とあいさんが俺のシャツの裾を引っ張る。
「なんすか?」
「・・・もう一回」
我大脳脳汁再来・・・。ちゃんと聞こえていたのに、彼女の言葉を理解するのに時間がかかった。
「え、あ、良いですよ」オレは出来るだけ平静を装いながら言う。
「その前にコンビニでお茶買って良いですか?」
「あ、じゃあ私も買う」
路地を抜けた先にあるコンビニに入ると、今まで暗かった分白い蛍光灯の光が目に刺さり現実に引き戻された様な感覚になる。しかし、横を見るとあいさんがいる。すごく不思議な感じだ。
あいさんは身長が割と高く、オレと1、2センチしか変わらない。そして、今日は少しカカトのあるサンダルを履いているためほぼオレと同じ身長だ。明るい店内では、身長差が無いことに急にコンプレックスを感じ、出来るだけ背筋を伸ばして歩いた。
「クスクス」
背筋を伸ばすことに気を取られ歩き方が不自然になっていたのか、店員の女の子がこちらを見てほくそ笑んでいる。または、年上の美女相手に身も心も背伸びしようとしていることを悟られたのか、または、あいさんの知り合いなのか。何にしても居心地が悪いので、さっさと二人分の「おーいお茶」を買い外に出る。
「あの店員さん知り合いですか?」
オレがペットボトルを渡しながら聞く。
「え?見てなかったけど・・なんで?」
「なんか笑われてた気が・・」
「え?!店員同士で話してただけやない?」
「まあそうかもしれないですね」
そんなことを話しながら、またさっきの暗い路地に戻る。コンビニの光に目が慣れてしまい、今度は路地が暗くてほとんど見えない。二人でそろりそろりとパーキングの駐車場に行き、車輪止めに腰掛け並んでお茶を飲む。なんだか悪い事をしている気分がして楽しい。
「じゃあ、しますか?」
オレは彼女ではなくペットボトルを見ながら言う。
「えー、するの?」
「あいさんが、「もう一回」って言ったんでしょう?」
笑いながらオレがそう言うと、
「・・・うん、そうだね」
と素直に認める。暗さにも少しずつ目が慣れて来て、目の前に恥ずかしそうに笑うあいさんの顔が見える。
「じゃあ、いきます」
「はい」
二度目のキスは長かった。カップルがそうする様に、合わせたままの唇を動かしてみる。
「っん!」
と、あいさんは小さく声に出し、体をビクッと震わせる。
マジか・・キスだけで感じるもんなのか。
これで自信を得たオレは、舌をあいさんの口の中に入れてみた。
「んーー!」
と、あいさんは声に出すが、嫌がっているわけではなさそうなので、そのままあちらの舌を探す。自分の舌をあいさんの舌に絡ませると、あいさんも自分の舌を絡ませてきた。この暗さでなければ、オレの股間の膨らみがバレていたに違いない。一分近くそうしていただろうか。二人同時に唇を離すと、
「もぉー!急に舌入れるけんびっくりしたよー」
とあいさんは笑って言う。
「ごめんごめん」
オレは笑って返す。
「・・・帰ろっか?」
「そうだね」
この時点でオレは自然とタメ口になっていた。キスとは有り得ないくらい急速に距離を縮めるものなのだ。立ち上がり駅に向かって歩いていると、あいさんが手を繋いできた。オレは強く握り返す。
「幸福な睡眠不足」
送信日時:10 / 09 / 01:20
けんちゃん、今日はありがとう😊
たくさん話できたね^-^
けんちゃんが居酒屋で撮った二人の写真さっき見たけど私めっちゃブス(笑)
写真撮る時けんちゃん急に横に来るからびっくりしたよ!若いパワーやなあって思いました( ´∀` )
とにかく、今日は楽しかったです。また大学でね♬
その日を境に毎晩のようにあいさんから電話が来るようになった。夜に会話をすることが当たり前になって来ると、大体あいさんが電話をかけてくる時間が分かり、それまでに風呂を済ましておくようにした。あいさんはバイトを週四、五で入れているので、電話が来るのは早くても二十三時頃だ。毎晩ケータイの画面に「あいさん」と表示される度に胸が高鳴った。
「けんちゃん、ゲシュタルト崩壊って知ってる?」
電話越しにあいさんが言う。
「うん、なんか聞いたことある」
「「あ」って字をずっと見てたら段々「あ」に見えなくなってくるやつよ」
「ドアノブをずっと見てたら、何かそこにドアノブが付いてるのが不自然な気がしてくるやつとか?」
オレがそう言うと、
「そうそう」
と言いながらあいさんは電話越しでしか出さない囁くようなかすれ声で笑う。
「あれは、ずっと同じものを見続けることで、脳の認知機能が低下して自分の経験のフィルターを外すからなるらしいんよ」とマニアックなことを言い出すあいさん。「だからさ、私たちの顔も、見慣れてるから違和感ないだけで、実際はすごく変なのかもよ?だって、耳とか良く考えたら変な形やない?」
ただでさえ夜中のテンションで会話しているのに、こんな話をしているとおかしな気分になって来る。夜中だと普段なら恥ずかしくて出来ないような話も出来るのは、脳が休息モードに入っているため判断力や認知機能が低下するかららしい。酒を飲んだ状態によく似ている。認知機能が低下した状態で、認知機能を意図的に低下させる話をするあいさんにパンク精神を感じ、こちらも乗り気になる。
「じゃあ、ゲシュタルト崩壊させて顔を見た方が本来の自然な姿に近づくってこと?」
「うん、次会ったときやってみようよ」
「良いよ。こういう不毛な話好きやわオレ」
そう言ってオレが笑うと、
「不毛ってなによ」
と言いあいさんも笑う。
「ええやん、無駄こそ人生やろ」
「けんちゃん、もう眠いんやろ。声がふにゃふにゃして来たよ」
意地悪そうに言うあいさん。
「いや、全然。あいさんの方が眠そうな声してるよ?」
「私は・・」
と言いながら「ふぁー」とあくびをしてしまうあいさん。それを聞いたオレが笑うと、
「やっちゃった。今日は私の負けやね。けんちゃん明日一限から講義やろ?私は昼からやからね。もう寝な?」
時刻は、深夜三時を過ぎている。このところ毎日この調子だ。
「そやね、もう寝るわ」
「うん、じゃあね。私も寝る」眠気のため、あいさんの声も段々と小さくなりろれつが回っていない。
「あいさん?」
「なーに?」
「喋るんはもうやめるけど、通話はどっちかが寝るまでしとこうよ。相手が寝た雰囲気を察知した方が切る」
「何それー。私が先に寝たらいびき聞かれてしまうやん」
「あいさんいびきかくの?」
とオレは笑って聞く。
「いや、わからんけどさ」
「まあ、やってみよや。とりあえずお休み」
「わかったよ、お休み〜」
通話をスピーカーモードにしてケータイをベッドに置き目を閉じると、しばらくは布団のきぬ擦れの音が聞こえていたが、やがてスースーと寝息が聞こえ始めた。
「はや!」
まあ、あくびしてたからな。オレも寝るか。
オレはケータイの通話終了ボタンを押し寝返りを打った。
翌朝、四時間も寝ていない身体を引きずり講義に行く。体は泥の様に重いのに頭がハイなのは、単に寝不足だからだけでは無く、あいさんとの甘い電話に浮かされているからだ。
一つあいさんと約束したことがある。あいさんが卒業するまでに、あいさんは銀行業務の資格、オレは英語能力を測るTOEICテストで500点を採るというものだ。この約束をしてから、オレは家だけで無く、講義と講義の間の時間もひたすらTOEICの参考書や英単語帳に向かうようになった。有言実行で目標を達成した姿を見せ、カッコいいと言ってもらいたいからだ。この約束を守ることで、あいさんのオレへの気持ちが少しでも上がってくれたらこんなに嬉しいことは、無い。睡眠不足でハイになった頭で意気揚々と参考書をめくる。幸福な睡眠不足だ。
「抑止力VSファブリーズ」
あいさんと毎晩のように電話はしているが、初めてキスをした夜以降、あいさんと学外で会ったことは無かった。そのため、そろそろかと思い例のごとく夜電話をしているときに誘ってみた。
「あいさん、明日って夕方から空いてる?」
「うん、明日はバイト無いから空いてるよ?どうしたの?」
「ご飯食べに行こうよ。オレが車で迎えに行くよ?」
「あー、うん。いいよ」とあいさんは応え、オレは心の中で歓喜する。「ほんとに良いの?車出してもらって。多分、けんちゃんの家からまあまあ距離あるよ?」
「全然全然、迎えに行きますよー。そっち方面で店探したら良いし」
愚問だと思いながらオレは言った。
君のためなら地球の反対側までだって迎えに行きたい。
翌朝、今日は土曜日だが、オレは学園祭のライブに向けて練習をするため大学に来た。練習場所に着くと、もうクラスメイト二人と薬学科のドラマーが来ていた。練習と言っても、前と同じ曲を学園祭でもすることになったので、前とは違うアレンジを考える程度で済みそうだ。
「お疲れー」
練習が終わったのでオレがそう皆に向かって言うと。
「けんちゃん車やろ?良かったらこの後家まで送ってくれん?」
と藤谷が言って来た。
「あ、ええよ」
帰りの方向も同じで、特に断る理由も無かったので、残りの二人に別れを告げ二人で車に乗り込む。
しかし、オレは彼が車に乗るとすぐに異変に気づく。猛烈な彼の体臭が車内に充満しだしたのだ。
「?!」
確かに、彼は運動もしていないのにガタイが良く、たまにシャツの襟元から胸毛が見えるほど男性ホルモンが強いのは分かっていた。しかしその弊害としてか、体臭がなかなかに強かったのだ。彼の体臭は、普段一緒に過ごしている時には気にならなかったが、密室空間においては異彩を放っていた。
「ありがとー!ほな、また講義のときにな!」
彼が一人暮らしするアパートまで送ると彼はそう言って帰って行った。
しかし、次なる問題が発生する。彼が車を降りてからも、変わらず車内に彼の体臭が充満したままなのだ。慌てて窓を開け、そのまま家に帰る。
「スゥー」
一旦車の外に出て、新鮮な空気を吸って鼻をリセットしてから再度車内に顔を突っ込み深呼吸してみる。
「あ!臭い!」
マズい!
別にオレだけなら、そのうち臭いが退いてくれたらそれで良いのだが、問題は今日この後あいさんを車に乗せるということだ。
「これはオレが調子に乗っているときに必ず起きる抑止力か・・。いや、ある意味これ自体がフラグなのかもしれない。「体臭が充満する車」というハンデを抱えることが俺に翼を授ける・・のか?そんなわけないだろ!今すぐ何とかしなくては・・」
オレは急いで家にあったファブリーズを手に取り、車内に振り撒いてみた。再度、車外で深呼吸をしてから、車内でにおいを嗅いでみる。
「あ!臭い!」
ヤバい、ファブリーズが全く効かない・・。慌てたオレはネットで「車 体臭 除去」と検索する。すると、部活をする子どもなどがいる家庭用の「W強消臭効果」と銘打った新型ファブリーズが売っていることが分かった。
オレは急いで薬局に行き、新型ファブリーズを入手し、薬局の駐車場で車内に散布しまくってみた。そして、再度同じプロセスを辿り臭いを確認する。
「うーん。確かにさっきよりはマシになったけど、まだ微妙にあるなぁ」
仕方がないので最後の手段に出ることにした。ボトル半分ほどを一気に噴きかけた後、びしょびしょになった車内を乾かすため、窓を全開にして車を飛ばししばらく走り回った。
「ふぅ・・・。何とかほとんど臭いが取れた・・」
クタクタに疲れたが問題を解決し安心したオレは、シャワーを浴びデートの準備をする。
「やあやあ」
教えられていたあいさんの家の近くにある公園の横に停めて待っていると、あいさんがドアを開けて言う。
「どうぞどうぞ、乗って」
オレは身を屈めて車の外に立つあいさんの顔を覗き込んだ。
「可愛い車だね、家の?」
あいさんが車に乗り込みながらそう言う。
「そうだよ、オレの趣味ではないけど」
と笑いながらも、オレはあいさんが臭いに気づきはしないかとヒヤヒヤしていた。というのも、オレは散々強い臭いを嗅いだので鼻が麻痺しているだけの可能性があったからだ。おそるおそる彼女の表情の変化を見たが、特に気になってはいないようなのでオレは胸をなでおろす。ギリギリセーフだ。新型ファブリーズが無ければ終わっていた・・。臭いが充満した車内に彼女を乗せるのも嫌だが、その臭いの原因がオレにあると勘違いされることを一番恐れていたのだ。
「今日、どこに食べに行く?」
そう言ってあいさんはわざとらしくニコニコしながら左右に小刻みに身体を揺らした。オレは、彼女の迎えに来てもらったことに対する愛想のお返しが豪華すぎて面食らった。
「ちょっと時間かかるけど、こっち方面でしゃぶしゃぶ屋さん見つけたからどうかなと思ったんやけど」
そう言いながら、オレがケータイに表示したその店のHPを彼女に見せる。
「いいね。行こう行こう!しゃぶしゃぶ久しぶりやわー」
とあいさんが言ったので、車のエンジンをかける。
今月末にある学祭の話などをしながら、助手席に乗るあいさんの横顔を見る。美しかった。この前キスをしたときも間近であいさんの顔を見たが、あの時は暗かったのでちゃんとは見えていなかった。しかし、今はまだ夕方なのではっきりとあいさんの顔を近くで見ることが出来る。毎日電話で話してはいるが、オレはこんな美女と毎晩夜中まで、時には朝方まで話しているのか・・。そんなことを考えていると、急にあいさんがオレの運転する車に乗っていることが不思議に思えて来た。「・・なぜ?」
しゃぶしゃぶの店に着き、席に付くと、一人一つの鍋が用意された。それぞれの鍋に仕切りがあり、水と出汁に分かれている。
「あ、二種類楽しめるんやね!すごい」
鍋を覗き込みながらあいさんが言う。
「本当だね。肉を浸けるタレも何種類もあるみたい」
頼んだ肉が運ばれて来たので、さっそくお湯と出汁で肉を湯がき食べ比べてみた。
「あ、結構違うわ。オレは出汁の方が好きかも」
「ほんとだ!出汁美味しいねー」
そう言いながら、あいさんはおもむろにカバンからデジカメを取り出す。
「これ、この前のライブで撮った写真。けんちゃんも写ってるよ。私、ライブあんまり出ないから、基本写真担当なんよー」
そう言いながら、あいさんは下り眉で少し恥ずかしそうに笑う。
「え、見せて見せて」
「ほら、これとか」
「うわー、髪真っ金金やん」
「そうやね」とあいさんは笑う。「でも、このときの髪も結構好きなんよね。もう金色にはせんの?」
「トイプードルヘアね。気が向いたらするわ」
とオレも笑う。
二人でデジカメの写真を順番に見ていると、あいさんは残り少なくなった肉を箸で掴みオレの鍋に入れて左右に動かし出す。
おー・・エロい・・。肉で間接キスだ。
肉が赤から茶色に変わったので、あいさんはしょうゆダレに付けて口に入れる。
「美味しい」
あいさんは「ニコー」っと笑いながらそう言う。オレの鍋で湯がいた肉を美味しそうに頬張るあいさんを見てオレは恍惚とする。
幸せだなぁ・・。
あいさんを家まで送るため公園のところまで戻って来ると、
「あ、ここで良いよ。家の前はご近所さんとかに見られたら恥ずかしいし」
とあいさんは笑って言う。
「オーケー」
オレは車を公園の横に車を停めてエンジンを切る。
「今日はありがとね。しゃぶしゃぶ美味しかったね」
あいさんが体をこちらに向けて言う。
「うん、美味しかった。調べて良かったわ」
「うん、調べてくれてありがとう。ほんなら帰るね」
「・・・」
「どしたん?」
「キスして良い?」
「えー。ここ家の近くなんやけど・・」
と言ってあいさんは笑う。
「もう暗いし見えないよ。一回だけ」
「うーん。わかった。じゃあしよ」
あいさんがそう言ったので、オレが顔を近づけると、クスクス笑いながら下を向いてしまう。
「どうしたん?まだ恥ずかしいん?」
とオレが半笑いで聞く。
「まだも何も、この前初めてしたんやん。そりゃ恥ずかしいよ」
と、あいさんはふざけて頬を膨らませて怒った顔をしてみせる。
「っん!」
あいさんが小さく叫ぶ。その顔があまりに可愛かったので、オレは思わずそのままキスをしたのだ。
「もぉー、けんちゃんには毎回びっくりさせられるわ」
と言ってあいさんは笑う。
「ごめん。あいさん可愛いよ」
「あ、ありがとう。そんなみなまで言われたら恥ずかしいな」
そう言うあいさんに、オレはもう一度キスをした。あいさんは恥ずかしがり、ふざけてオレの腹をシャツの上から指でつまんでくる。
「もぉー、私もう帰るけんね!」
と言って、あいさんは俺に背を向けドアノブに手をかける。そして一瞬固まったかと思うと、振り返ってあいさんから口を付けて来た。
「それじゃあね、またねけんちゃん!」
と言い残しあいさんはドアを開けて外に出た。オレが手を振ると、あいさんは「ニコー」っと微笑んで手を振り返した。
「追い剝ぎネエさん」
「あんた、キツネの霊が憑いてるよ」
乾杯するなりそう言い放つ桐野。今日は、桐野と、高校の時に同級生だったが卒業してから何故か仲良くなった女友達の米田と飲みに来ている。彼女の弟がオレと同じ名前らしいので、オレは米田のことをふざけて「ネエさん」と呼んでいる。彼女は気が人一倍強く、皆に辛辣な言葉を浴びせたりしながらも、皆を飲み会に集めたり、店の情報収集や予約などを手際良くこなす姉御肌なところがあるので、周りの彼女に対する呼び名も「ネエさん」で定着している。紅一点でも引け目を取らない女子の特徴として、気の強さと毒の許容範囲が異様に広いことが挙げられるが、彼女も例外では無い。特に下ネタに関しては、果てしなく許容範囲が広く、何の気兼ねも無くリミッターを外して話すことが出来る貴重な人材だ。そして、彼女たちに対する最近のオレの話題はもちろんあいさんだ。
「キツネ出ろ!」
桐野がまた訳の分からないことを言い出した。
「どういうこと?」
オレが笑いながら聞く。
「だってけんちゃん顔が青白いし、目の下のクマもすごいで。絶対キツネ憑いてるわ」
とオレの顔をまじまじと見ながら言う桐野。
「それはお前や」
桐野を指差しネエさんがピシャッと言う。
「確かに、桐野は常に顔が青白いしクマもすごいよな」
オレは笑いながら言う。「いや、オレのこのクマは幸せのクマやで。毎日寝不足なんよ、あいさんとの電話で」
「いや、話聞いてたらさ、それはその人がただ寂しいだけなんやないの?彼氏とマンネリ化してるやろその人。毎晩あんたと電話出来るくらいなんやから彼氏ともあんまり会ってないみたいやし」
といきなりオレの恍惚感をぶち壊し、現実を見せようとしてくるネエさん。
「寂しいだけの人がわざわざ手紙くれるかね?」
オレはそう言って食らいつく。
「ごっこよ、恋愛ごっこ。あんた遊ばれてるよ」
ネエさんがニヒルな笑みを浮かべながら尚もオレを追い詰める。
「あんたキツネの霊が憑いてるよ」
桐野は、昨日アンビリバボーで見た霊媒師のネタにハマって今日はこれしか言わない。
「本当に大事に付き合っていこうとしてる人との初デートで足絡ませたりせんから、普通」
とネエさんは言う。彼女にSっ気があることは知っているが、ここまで来たらただの追い剝ぎだ、数分前まで持っていたオレの幸せを返してくれ・・。
「それは・・彼女なりのアピールというか、オレの告白に対するOKサインだったのかもしれんやん?「わかりました浮気しましょう」なんて言えんやろうしさ」
オレは最後のあがきを見せたが、ネエさんに鼻で笑われてしまう。
「キツネを出したらお前にも真実が見える・・」
桐野が尚も霊媒師の口調で言う。
「お前はすっこんどけ桐野!」ネエさんは桐野の肩をバンと叩きながら言う。「まあー、私も高校のとき公園で初キス奪われたわ。野外良いよな。ヤる前の関係性が一番楽しいからな、せいぜい今を楽しんどけ」
その後、飲み会後のお決まりとなっているカラオケに三人で行った。その日最後の曲をオレが任されたため、オレが大塚愛の『黒毛和牛上塩タン焼680円』を、もちろんあいさんを想い浮かべて熱唱する。
「キモ」
桐野が言う。
「オモ」ネエさんは頷きながら桐野に同意する。「完全に脳をあいさんにやられとんな」
「「えちえち最終兵器あい」やな」
桐野がそう結論を出したところで、今日はお開きとなった。
「世界一モヤモヤしたダイブ」
「オレらもう軽音部辞めるわ」
学園祭の直前、バンドメンバーのクラスメイト二人が、学内の駐車場で車に乗ろうとするオレを捕まえそう言ってきた。
「何で?どうしたんよ?」
少し驚いてオレが言う。
「いやぁ、何か雰囲気が合わんなと思って・・」
この前オレが車で家に送った藤谷が言う。
「けんちゃんも辞めようよ、な?嫌やろあんなん?この前の飲み会とかさ・・」
ベース担当のもう一人が言う。
「ああなるほど、この前のライブの打ち上げ飲み会で引いたんだな」オレはそう思った。
夏休みの最後にあったライブの打ち上げが、だいぶ遅れてから大学近くの居酒屋であったのだが、その時に元気いっぱいの上級生たちが一気飲みのコールを何度もしたのだ。その一気飲みに参加したのは、基本的に上級生と自ら志願した下級生だけであり、一年生で参加したのは、オレにあいさんの彼氏の有無を教えてくれた一つ年上のやつだけだった。
しかし、上級生が一気飲みをしている最中は一年生も一緒になってコールの掛け声と手拍子をしなくてはいけないのもあり、そのヨウキャの激しい雰囲気にドン引きしてしまったのだろう。オレはむしろそういう刺激を普段から求めているので、「あぁ、大学に来たんだなあ」とコールを見ながら感動していたのであるが、オレとイッキ飲みに参加したやつ以外の一年生は全員引いているように見えた。
「あべまりも、もう辞める言ってたよ?」
藤谷がなぜか得意げに言う。
「え?!そうなん?それは寂しいなぁ・・」
「やろ?だからけんちゃんも辞めようや」
ベース担当が諭すような口調で言う。
「オレは・・まだ残るわ!」
「え?!何で?」
そう聞かれたが、「あいさんの浮気相手になっているから」と一番の理由を言うわけにもいかなかった。言ってしまうと、すぐに広まってしまう可能性があったからだ。特にあいさんの彼氏と接点のある軽音部の上級生に伝わるのは避けたかった。
「いや、オレは普通に楽しんでるから辞める理由も無いかなと思って・・」
「え!そんな好きなん?あの軽音部?」
そう二人同時に驚きを見せて来たので、「お前らが誘って来たくせに随分な言い草じゃないか」と思ったが、ライブでもノリ切れていなかったし、こいつらの性格には確かに合わないから仕方がない。
「まあ二人は辞めたら良いやん?オレは残るわ」
「学祭のライブどうするの?」
「ドラムはまだいるから2ピースでやるわ」
オレはそう笑いながら言う。
「ほんなら・・そういうことにしよか」
と、とりあえずは納得し、二人は不本意そうな顔で帰って行った。オレにも部活を辞めさせて、バンド自体を解散させたかったのだろう。オレ自身は2ピースでやる分には前衛的な感じがして嫌では無い。
学園祭のライブ当日、なんと二人は先輩に軽音部を辞めることをまだ言っていなかった。しかし、大学にも来ていなかった。部長に「体調が悪いから休みます」と連絡があったそうだ。
「また、半端なことをするなあ・・」
と思ったが、もうオレには関係ない。
「ライブどうする?」
と部長に聞かれたので、
「2ピースでやりますよ」
とオレは答えた。
「まあ、お前らが良いなら良いけど・・あいつら絶対仮病やろ、二人同時に体調悪くなるわけ無いやないか」
「それは分からないですけど・・」
「まあ、とりあえず二人で頑張れ」
「了解です」
時間の都合上、野外のメインステージで演奏できるのは上級生だけなので、野外ステージ前で例のごとくぴょんぴょん飛び回り先輩たちのバンドを盛り上げた後、残りのバンドが演奏するために軽音部は体育館に移動した。そして、オレ達のバンドの出番が来た。今回のアレンジは、マイケミカルロマンスの「ティーンエイジャーズ」の前に、オレがソロでアメリカ国家をド派手に弾くというものだ。そして、引き終わった瞬間に曲を歌い始めた。
「すごい良かったよ」
俺たち2ピースバンドの演奏が終わりステージを降りると、OBバンド枠で来ていた先輩がオレにそう言う。「洋楽とか好きなの?」
「はい、一番好きなのはヒップホップですけど」
オレは笑いながらそう言う。「でも、ジャズとかファンクとか、基本的にブラックミュージック調のが好きです」
「この部活のテイストとは全然違うな」OBの先輩も笑いながらそう言う。「でもオレもブラックミュージックは好きやで。お前歌なかなか上手いから、ギターさえちゃんと練習すればもっと良い感じになるよ」
「ありがとうございます」
「オレのバンドメンバーのOBのやつらにも紹介するわ。こっち来て」と先輩は手招きする。「ほら、あいつは今四年生のあいちゃんの彼氏やで」OBの内の一人を指差してその先輩が言う。それを聞いたオレはギクリとする。オレは目を凝らして良く見てみる。「普通にカッコいい・・」その人は名をミイさんというらしく、背が高くシュッとしていて、お洒落だった。全身を黒で統一した服装はシックにまとまっていた。彼を喩えるなら、ブランドのBEAMSだ。
「ほら挨拶しいや」
先輩がそう言うので、オレは一人ひとりに挨拶して回る。ミイさんにも挨拶したところ、「あ、どうも」となんのけなしに応えた。
気まずい挨拶も終え、一安心したオレは、残りのバンドを盛り上げるためにステージ前のクラウドの中に参加する。しかし、たまにミイさんの方をチラっと見てみると、かなりの確率でこちらの方を見ているのだ。「マズい、多分怪しまれてるな・・」オレはそう思った。というのも、あいさんはミイさんに「こんな面白い後輩の子がいてね」とオレのことを高頻度で話していると本人が言っていたからだ。「大丈夫かな・・」
あいさんはというと、ひたすら出演バンドの写真をデジカメで撮ることに忙しく、ミイさんと話している様子は見れなかった。むしろ「見れなくて良かった」と思った。二人が談笑する姿を見るのは、オレにとって決して気持ちの良いものでは無いだろうと思ったからだ。実際、あいさんよりさらに年上の、しかもカッコいい彼女の彼氏を見て、オレは動揺していたのだ。
学園祭最終日、二度目のライブも無事終え、後夜祭として野外ステージで演奏する上級生のバンドをオレは他の下級生と一緒に盛り上げる。一番前で飛び跳ねていると、トリで演奏している前回のライブでオレに話しかけて来たイケイケの先輩がオレの腕を掴み、オレをステージ上に引き上げた。急にステージ上に上げられたオレは一瞬戸惑ったが、仕方がないのでクラウドに向かってダイブした。宙を舞っている途中であいさんが驚ている顔が見えた。
「なんだかなぁ・・」オレはその顔を見ながらそう思った。
「密会」
「けんちゃん、今度は個室で会わない?」
夜に電話をしているとあいさんが言った。「あんまり外をうろつくのもあれやしさ」
最近あいさんは、オレと二人で外を歩くときは必ず帽子を被っている。浮気をしているという認識は十分にあるようだ。
「そうだね、その方がゆっくり話せるかも」
オレは素直に受け入れてそう言う。「どこにする?カラオケとか?ネットカフェとかもあるな」
「うん、それ考えてて、バイト先の後輩にも相談してたら「ホテルとか意外と安いよ?」って教えてくれて」
「ホテル?」
オレが少し驚いて言う。これは、あっちのお誘いなのだろうか・・。
「いや、違うよけんちゃん!」あいさんは慌てて説明する。「今回はあくまで密会のためのホテルやからね?何もしたらダメだよ?」
なんだ、そうなのか・・。一瞬期待したオレは少し落胆する。
「わかった、わかった」
オレは落胆を悟られない様にしながらそう言って笑う。
「その子、安くて綺麗なとこ教えてくれたから、そこを予約して良いかな?一応、ラブホテルってくくりにはなるみたいなんやけど・・」
おぉ・・ラブホテル。ラブホテルで密会・・。
「全然良いよ。ラブホテル行ったことないから楽しみやわ」
オレはそう言って笑う。
「ありがとう。じゃあ予約しとくね。お休み・・」
「お休み」
密会当日、オレはあいさんを車で迎えに行く。
「やあやあ」
あいさんが車に乗り込み言う。
「やあやあ」
オレもあいさんの挨拶を真似て返す。
「けんちゃん、今から行くとこの場所分かる?」
「ああ、ホテルが密集してる川沿いのとこやろ?大体分かるよ」
「ほんならお任せします」
「はーい」
「ライブお疲れ様、カッコ良かったよ。2ピースでやるのは根性あるよねえ」
「ありがとう。いなかった二人は部活辞めるみたいなんよね」
オレが苦笑いしながら言う。
「え?!そうなん?どうしたのかな・・」
「うーん。まあ、合わなかったんじゃないかな」
「それなら仕方ないね」あいさんも苦笑いしながら言う。「ていうか後夜祭の時、気付いたらけんちゃんが宙を舞ってたからびっくりしたよー」
「やんね」オレは笑いながら言う。「でも、ステージ上に上げられて他にすること考え付かんかったんよ」
「けんちゃんをステージに上げた本人が「あいつはぶっ飛んでる」って言ってたよ」あいさんが軽く手を叩きながら笑う。
「それは良く言われる・・」
ホテル街がある方向は分かっていたが、極度の道オンチのおれはなかなかホテルに辿り着けず、大きな川沿いの、車一本通れるくらいの道をさまよっていた。さっきから、前方から車が来るたびに路肩の道無き道に車を寄せて通してあげてはまた進む、という作業を繰り返している。
「ヤバい、迷った!」
パニックになったオレが思わず叫ぶと。
「いいじゃん、いいじゃん、楽しいよ。着くまで冒険しよ?」
とあいさんがなだめる。
「まあ、そうか・・」
と、オレはあいさんの発想の転換を素直に受け入れる。しばらく車を走らせていると、やっと目的のホテル街が見えて来た。
「どのホテルやっけ?」
オレが目を凝らしてその一帯を見ながら聞く。
「あ、あの馬車のマークのとこだよ」
「ああ、あれか。わかった」
駐車場に入ると、駐車スペースに部屋ごとに割り振られた番号が書いてある。カウンターなどを介さずに、直接部屋に入れる仕組みになっているようだ。駐車スペースのすぐ横にドアがあり、すぐに部屋に入れた。
「これなら男女で入っても気まずくないね」
あいさんもラブホテル経験はあまり無いらしく、珍しそうに周りを見渡している。
室内に入ると小さい玄関でスリッパに履き替えるようになっており、前方に細い通路が伸びている。通路を進みドアを開けると、入ってすぐ横に大きなTVがあり、奥にキングサイズのベットがあった。その周りには、冷蔵庫やポット、コーヒーや紅茶などのアメニティが充実していた。アダルトな雰囲気というよりは、テーマパークにあるコンセプトルームのような非現実感が漂っている。
「へー、割と綺麗なんだねラブホテルって」
オレがカラオケの歌本を手に取って言う。
「そうやね。バイトの後輩が、「特にここがオススメ」って言ってたんよ」
あいさんは、ポンとベットに腰掛けながらそう言う。
大画面のTVを付けて、来る途中にコンビニで買ったポテチやチョコの袋を二人で開ける。二人並んでベッド上部に枕を立ててもたれて座り、しばらくは菓子を食べながら地上波やWOWOWのチャンネルを適当にリモコンで変えて見ながら、画面に映っていることに対して冗談を言い合って過ごした。そして話題はTVからこの前の学園祭に移った。
「あいさんの彼氏来てたね」
「あ、ミイさんね。去年卒業したばっかりやけど、OB枠で呼ばれたらしいんよ。ベースが結構上手いから」
「ふーん」
「なに?けんちゃん、もしかして妬いてるの?」
そう言ってあいさんは意地悪い顔で笑う。
「いや、そういう訳でもないけどさ・・。普通にカッコ良くてびっくりした」
オレはそう正直に言う。変に意地を張らないところがオレの良い所だと自分でも思う。
「もぉー、可愛いな!けんちゃんもカッコいいよ」
そう言ってあいさんはオレの髪をクシャクシャにする。「この前、後夜祭終わった後にけんちゃんと一年の女の子のツーショットを撮ったやん?」
「うん、あいさんが「二人とも並んで!」って言って撮ってくれたやつやろ?」
「そう、私、あのとき嫉妬したよ」
「え?あいさんが撮ったのに?」
オレは首を傾げて笑う。
「そう、撮りながら思ったんよ。ちょっと嫌やなって・・」
「まあ、それは普通に嬉しいかも」
「何よそれ」
あいさんはそう言いながら目を細めて笑う。「前に大学の駐車場の近くでけんちゃんが手を振ってくれたことあったやん?ほら、私が、ハルちゃんとめぐみちゃんと一緒にいたとき」
「ああ、手振ったね」
オレはそう言って頷く。
「あのときに、けんちゃんが近づいて来て4人で話してた時もちょっと嫉妬した」あいさんは口を尖らせながら言う。「私の方がけんちゃんと仲良いんやから!って思って」
「可愛い可愛い」
オレは笑ってそう言いながら、あいさんの頭を撫でる。あいさんは眉間にシワを寄せて不満そうな顔を作って見せる。でも、嫉妬はしてくれても彼女は一度もオレに「好き」と言ってくれたことは無い。なので、彼女の中でまだ踏ん切りが付かない部分があるのだろうということは感じていた。セックスをすれば言ってくれるのだろうか。
オレはあいさんの髪を撫でていた手をそのまま彼女の首の後ろに回し顔を上げさせてキスをした。待っていたかの様にあいさんはそのまま受け入れる。オレは彼女の頭を持ったまま、彼女をベットに倒してキスを続ける。オレが彼女の唇から首筋にかけて口付けを移すと、彼女はオレの耳を優しく唇で挟み愛撫しだした。
やべぇ、気持ち良い・・。
「けんちゃん・・胸触りたい?」
「うん。良いの?」
「いいよ」
そう言ってあいさんは座り直し、着ていたシャツを脱ぎ、上はロングTシャツ一枚になった。オレは恐る恐る両手であいさんの胸を包んでみる。
「ど、どう?」
あいさんが恥ずかしそうに言う。
「柔らかい・・」
「けんちゃん、本当に触ったことないの?」
あいさんは笑いながら言う。
「ないねぇ」
「じゃあ、初おっぱいやね。けんちゃんの初おっぱいを奪えて光栄です」
「「初おっぱいを奪う」って言い方初めて聞いた」
オレが笑いながら目線を胸から顔に移してそう言う。
「私も今考えたんよ。ていうか、そんな確かめるように触るのやめて。普通に触ってよ」
そう言ってあいさんは笑う。
「ごめんごめん。これは・・何カップなんでしょうか?」
「えー、けんちゃん変態。うーんとね、DとEを行ったり来たりしてる感じかな」
そういう会話をしながら、オレはまたあいさんをベットに横たわらせ、胸を触りながらキスを再開した。
「あいさん?」
「なーに?」
「エッチせん?」
「はい、アウトー!帰ろうけんちゃん」
「?!」オレは驚いてしばらく何も答えることが出来なかった。「なんで?」
「だって何もしないって約束やったやろ?・・エッチはアウトだよけんちゃん」
あいさんはそう言い、上着を着てベットから降りる。
「アウトなんてシステムがあったのか・・。それに、身体を触ることを許したのはあいさんじゃないか・・」そう思いながら、オレはなんだか悲しくなって来た。幸せムードから一気に険悪ムードになった落差により崖から突き落とされたような気分になる。常に物腰が柔らかいあいさんだからこそ、その辛辣さが際立つ。あいさんに拒絶されたショックで涙が眼球の裏まで来ているのが分かった。オレは普段、人間関係で泣きたくなるようなことはまず無いが、本気で惚れている相手となると話は違うようだ。今のオレにとって、彼女はほとんど世界だ。
泣くことを我慢しようと思えば出来るが、ここはむしろ泣いてしまった方が良いかもしれない。前にあいさんは言っていたじゃないか、「細ければ細いほど、弱そうであれば弱そうである人ほど好きになりやすい」と。オレが泣くことによって、もしかしたらあいさんは機嫌を直してくれるかもしれない。ここは賭けだ。このまま泣いてしまおう。あいさんとの関係は綱渡りみたいだ。だが、あいさんがオレにとっての世界なら、この不安定な足場こそ我が人生!
「シクシク」
意図的に泣くという人生初の試みに出たオレが下を向いて静かにすすり泣きの声を出す。
「えー。けんちゃん、泣かんで?ね?ごめんって・・」
あいさんはそう言って、下を向いたオレの顔を両手で挟んでキスをしてきた。あいさんの丸い唇がオレを優しく包み込む。
「今日はありがとね、けんちゃん」
帰り際、車であいさんを送るため例の公園まで来た。あの後、セックスさえ出来なかったが、お互いにさらに濃いペッティングをしたのだ。そのムードを引きずったままのオレは、散々車の中でも口付けをした後、車から降り帰ろうとするあいさんを引き留めてさらにキスをせがむ。
「あと、一分だけ」
「うん、わかった」あいさんは笑って応じる「もう、べちゃべちゃ」
そう言って彼女は唇周りを手の甲で拭った。
「悲劇の図書館」
カンカンと照る太陽の日差しが肌寒くなり始めた空気の中に溶けて行く午後、あいさんを迎えに行くために車を走らせる。あまりに天気が良いのでビルの窓ガラスに反射した光で目が痛い。日本人はサングラスをする習慣が無いので、サングラスをかけていると粋がっていると思われてしまう。別にその辺を歩く他人に見られてたところで知ったことでは無いが、あいさんに粋がっていると思われるのは嫌だったので持ってこなかった。
「やっぱサングラスあった方が良かったな・・」
オレは車内で独り言をいう。車のスピーカーからは、東京事変の「丸の内サディスティック」のジャズアレンジバージョンが流れている。あいさんが、「今度会う時オススメの椎名林檎の曲を車でかけて欲しい」と言っていたので、ipodnanoに沢山入れて来たのだ。
「やあやあ」
いつもの公園脇でウトウトしながら目を閉じて待っていると、ドアが開きいつもの挨拶が聞こえた。「寝てるやーん。ごめん、待たせたね」
「いや全然。今日天気良いから、車の中だと割と暖かくて一瞬眠気が来たわ」
「それなら良いけど」
「今からすぐ図書館行くので良いんだよね?」
「うん、お願いします」
スタンドライトの明かりが作る天井の影を見ていると、徐々にゲシュタルト崩壊の兆しが見えて来た。影が作る線そのものでは無く、影があることにより際立った天井に反射する光の部分が宇宙船の裏側を連想させた。そう思うことで、天井は壁に乗っているだけなのだという事が良く分かった。構造としての空間を意識すると、今度はこの部屋自体が空中に浮かんでいるような気がしてくる。宇宙船の中にいるみたいだ。深夜1:20、真夜中のため認知能力が低下した状態で、ゲシュタルト崩壊を起こすと宇宙線に乗ることが出来ることを知った。宇宙船の中では空気圧の違いからか、あいさんの声がいつもより粗く遠く聞こえる。もう一時間以上耳元に固定させている右手が痺れて来た。
「けんちゃん、明日良かったら図書館行かない?」
あいさんが電話越しにそう言う。
「図書館?」
「そう、けんちゃんもTOEIC頑張りよるやろ?一緒に図書館で勉強せんかなって思って。嫌だったら全然えんよ?」
「いいよいいよ。楽しそう」あいさんとならどこへだって行きたいオレは二つ返事をする「明日休みだよね、昼過ぎに迎えに行くよ」
「うん、ありがとう。じゃあ明日ね」
「また明日」
料理と言うのは不思議だ。その料理の種類によってその空間の雰囲気を変えてしまうし、その料理を食べる人自体の印象も変えてしまう。今、あいさんがすすっている「ラーメン」は少し庶民的すぎて、オレが持っているあいさんの印象からはかけ離れている様に感じた。庶民的なラーメンという相反する要素をまとった彼女は、いつもよりさらに、なまめかしかった。
「ここ初めて来たわ。美味しいね」
オレが店内を見回しながら言う。
「やろ?やっぱりラーメンは豚骨が一番好きなんよねー」
あいさんはそう言ってワザとらしく自慢げな顔をする。あいさんは感情を使った表情を使いこなす人だ。言葉を表情により強調していると言っても良いかもしれない。自分が発する言葉に合った表情をワザと大袈裟にすることにより、相手は冗談で言っているように感じるし、その言葉自体が嫌みなく聞こえるのだ。
「けんちゃんはラーメンで何が一番好きなん?」
「んー。豚骨醤油かな。ほら、ラウンドワンの前にラーメン屋あるやん?あそことか好きで前は通ってた。でもインスタント麺は味噌かな」
「あー。味噌良いよね。「サッポロ一番」とかビールと合うんよ」
「オレ、ビール飲めんから、その感じはわからんわ・・」
「お子ちゃまやねけんちゃんは。珈琲は飲めるのかい?」
あいさんはそう言って意地悪そうに微笑む。
「バカにすんなよ!毎日飲みよるわ」
「砂糖10個くらい入れてやろ」
「まあね」と言いながらオレは窓から外を見た。もうすっかり真っ暗だ。
最近寒くなって来たからか、イルミネーションが少しずつ増えだした木々が暗闇を照らす様を横目に車を走らせる。車のスピーカーからは東京事変の「乗り気」が流れている。あいさんは、曲終盤の歌詞が気に入ったらしい。
「いいねいいね。椎名林檎は歌詞が独特やんね。作家性強いわー」あいさんがそう言う。
「他では聞いたこと無いような言い回しするよね」オレはそう言って頷く。
「けんちゃんいつから椎名林檎好きなん?」
「実はまだ歴浅いんよ。オレがまだ高校の時やから2,3年前かな?椎名林檎がガムのCM出てたの覚えてない?」
「あ、分かるかも。すっごいショートカットの時でしょ?」
「そう、あのとき初め北乃きいかと思ったけど、どうも違うみたいやったから気になって調べたんよ。そしたら椎名林檎やって、そのCMで使われてた「能動的三分間」のMV見てみたらめちゃくちゃカッコ良くて。そこから一気にハマった感じやね」
「ビビッと来たわけや。そのMV見たことないから帰ったら見てみよう。楽しみ」
「でも、オレはそれまで東方神起と東京事変の区別もついて無かったから」
それを聞いてあいさんは笑う。
「女の子の服装は?やっぱり椎名林檎みたいな個性的なのが好きなの?」
「んー。これって言うよりは、振り幅がある服装が好きかな」
「振り幅?」
「うん。ロングスカートみたいな山ガールな感じの服着てると思ったら、別の日に見たら、カジュアルなジーパン履いてる、みたいな」
「なるほどなるほど、勉強になります」
「いやファッションは絶対あいさんのが詳しいやろ」オレはそう言って笑う「あいさん、学祭の片付けの時、ダボダボのジーパン履いてたやん?」
「うん、片付けやから汚れても良い恰好で行ったんよ」
「あの恰好はボーイッシュでかなりギャップ萌えやった。かなり良かった、うん」
「そうなんやね」あいさんはそう言って笑う。「ほんなら次会うとき履いてくるわ。私、最近けんちゃんの好みを詮索してるの気づいた?」
「うん、最近色々聞いて来るね」
「私ミイさんと長いからさ、ちゃんと恋愛するの久々なんよ。だから、この前高速近くの本屋で買った「恋愛攻略マニュアル」って本をいま読んでる」
「それ、本人を目の前にして言って大丈夫なん?」
オレはそう言って笑う。
「いやまあ、二人で話すネタにもなるやん?その本によると、男の人は「可愛い」って言われるの嫌みたいやね。私よくけんちゃんに言ってしまってるかも・・」
「まぁ、「可愛い」よりかは「カッコいい」とかの方が嬉しいかな」
オレはそう言って笑いながら、内心では「好き」という一言さえ言ってくれたらそれで良いのにと思った。
「あいさんモテて来たやろうから、散々「可愛い」って言われ慣れてるやろ?」
オレは意地悪で返事に困る質問をする。
「そんなことないよ。結構シビアな恋愛して来たかも・・」
「例えば?あいさんの過去の恋愛気になるわ」
「うーん。けっこう「オレ様」系が多かったかな。付き合ってから豹変するタイプ」
「例えば?」
「私が誕生日の時とかにプレゼントはくれるんやけど、外で会ってた時に一回地面に投げてよこされたことある」
「どういうこと?」
オレが驚いて言う。
「なんかすぐ機嫌悪くなる人やったから。でも、その時私はその人のこと好きやからさ、「ありがとう」って言って拾ったよ。今考えたら鬼畜」
「「ありがとう」はヤバいね」
「そうやろ。恋は盲目なんよ」
あいさんは下がり眉で笑いながらそう言う。
「細い人が好きなのは前からなん?」
「ううん。ゴリゴリの人とも付き合ったことあるよ。でもその人もオレ様系の人やって、私が気が乗らないときも無理やりセックス強要されたりしたことがあって・・。その反動で出来るだけ細くて弱そうな人が好みになった部分はあるかも」
童貞にそんな打ち明け話をされても「なるほどねー」としか言えなかったが、辛い過去を話してくれたことは嬉しかった。オレに心を開いてくれている気がしたからだ。
「ねえ、けんちゃん?」
視界の左の方であいさんがこちらを向いたのがわかった。
「なに?」
「私、誰とでもこんな風に出かけたりせんからね?けんちゃんやからやけんね?」
「分かってる」
オレは、となりでaikoの「ボーイフレンド」を楽しそうに歌うあいさんを横目で見ながら、いつキスをするか考えている。部屋は照明を消しているため、TV画面から放たれるブルーライトの混じった光がこの部屋で唯一の光源だ。暗いところにいるとエロい気持ちになるのはなぜだろうか。別に明るいところにいる彼女だって魅力的には違いないのに。
多分、それは「恥」の作用だろうと思う。暗いとそれだけ視覚の情報量がカットされる。そして、相手から見える自分の視覚的情報量もカットされているのだと無意識レベルで感じ、「大胆になる自分」という恥が軽減されるからエロい気分になるのかもしれない。
「けんちゃん、次の曲入れたん?」
あいさんは、カラオケのタッチパネルをいじくっているオレにそう言う。
「うーん、まだ・・」
「早く入れなよ」
「さっきサザン歌ったからなぁ。なんか違うテイストのが良いなぁ」
「けんちゃん歌ってるとき、力入って足ピーンって伸びてたよ」
あいさんは笑いながらオレの真似をして足を伸ばす。
「ほんなら次は軽やかな曲にするわ・・よし!入れたよ」
壁に掛かった液晶画面に「YUKI「メランコリニスタ」」と表示され、松明を持ったリーゼントの白人の姿が映し出される。
「このMVのYUKIエロいよね」
あいさんが両手で椅子を掴んで画面見ながら言う。
「そう、自分の胸掴みだすから」
あいさんがそのシーンの真似をしてくれないかと期待したが、その姿を見ることは叶わなかった。
車から降りると余計に陽の光がまぶしく感じた。
「いやー。今日ほんと天気良いよね!」
あいさんは、目を細めて眉間にシワを寄せるオレに向かってそう言う。
「これから寒くなるから最後の日光浴日和やね。まあ、今から図書館に籠るんやけど」
オレが見えてきた図書館入り口を指さして言う。
「残念やね、ピクニックとかにすれば良かったかね?」
あいさんが柔らかそうな薄茶色のジャケットの襟を直しながら言う。俺の持っているどの服よりも大人っぽく品があったので、俺もそれに見合うファッションをするために金が欲しいという初めての欲求を感じた。
「お、オレそういや、あいさんの手料理食べたことないな・・」
「いつか作ってあげるよ。でも上手ではないから期待せんでね」
図書館に入ると、本棚の間に複数人で使う大きな机が並んでいた。
「けんちゃん、奥の方に個別に使える勉強用の机もあるんよ。そっち行こうよ?」
椅子に座りかけていたオレにあいさんが言う。奥に進むと、個々の机にスタンドライトが備え付けられているエリアがあった。
「ここよここ。私、家だと集中できんからよく来るんよ」
そう言ってあいさんはオレに手招きする。そして、オレと彼女は端にある机に隣り合って座る。
「けんちゃんTOEICの教材持って来たん?それか単語帳とか?」
「TOEICの問題集持って来たよ。今日はテスト一回分やってみるわ」
オレは縦に教材を持ってあいさんに見せる。
「おー、いいねいいね。頑張れ。私はこれ」
あいさんはそう言って「財務完全攻略」と書かれた教材をオレに見せる。
「うわ!難しそう・・。あいさん百マス計算とか得意なんちゃん?」
「バカにしてるやろ」
あいさんは笑ってそう言う。
「いやしてないよ。オレ、理系はからっきしやから」
オレも笑って言う。
二時間ほど経ち、テスト問題をひとしきり終えたオレはシャーペンを置いて伸びをする。
「けんちゃん、飽きて来たんやろ」
それを見たあいさんがオレに言う。
「いやいや、大丈夫やで。とりあえず一周終わったわ」
「すみませんお客様。ここは社会人の方専用の席となるんですが・・」後方からそう声がしたので後ろ向くと、その声の主は図書館職員の人で、オレに向かって言っているのだと分かった。「身分証などお持ちでしょうか?」
「あ、僕は大学生なんですけど・・退いた方が良いですか?」
「申し訳ございません」
「あ、わかりました」
オレがそう言ったので、職員の人は頭を下げて去って行った。
「私あんなん言われたことないよ」
あいさんはクスクス笑いながら言う。
「うわぁ、なんかショックやわ。オレにだけ言ってたよね?」
「そうやね、けんちゃんの方向いてたね」
あいさんはツボに入ったらしく。ずっとクスクス笑っている。「まあ、実際けんちゃんまだ未成年やもんね」
「そうやけどさぁ・・何かカッコつかんわぁ」
帰りの車内、オレが作ってきた椎名林檎と東京事変を混ぜたプレイリストは一周し、また「丸の内サディスティック」がかかりだした。車のスピーカーからは低いベースの音が響いている。公園に着いたので車を停め、エンジンを止めた。キーを左側に回すのと同時に「マーシャルの匂いで飛んじゃって大変さ」の歌詞の部分で曲が途切れた。帰り際、あいさんとお決まりのキスをして、オレはそのままはあいさんのお腹に抱き付いた。オレはあいさんの匂いで飛んじゃって大変だ。嫌みの無い甘い香りの中にほのかにスパイシーさがあると言ったら良いのか。
この前、気になったオレは何の香水を付けているのか彼女に聞くと。「最近流行ってる「アクアシャボン」っていう安物をちょっと付けてるだけだよ」と言っていたので、店でその香水を見かけた時ににおってみたが、あいさんの匂いとは違った。
「あれはもしかしたら「フェロモン」というやつなのか?」そう思ったオレは、フェロモンの正体を確かめるためにネットで検索してみたのだ。
”俗にフェロモンと呼ばれるものは女性ホルモンのことであり、厳密にはエストロゲンという。特に女性よりもエストロゲンが少ない男性が嗅ぐと甘い香りがするため、性的魅力を感じる場合もある”
「なるほどあいさんのあの匂いはエストロゲンか!」
しかし、クラスの女の子などからはそんな匂いはしないので、あいさんは通常より女性ホルモンが多いということかもしれない。
「さすが色気があるはずだ・・」
「あいさん好きやー」そう言ってオレは顔を彼女の腹に擦り付ける。
「よしよし」
あいさんはそう言ってオレの頭を撫でる。あいさんはまだ一度も、オレに「好き」と言ってくれていない。
「酔えない酒」
会う頻度が増えてからは、前ほど毎日の様に電話はしなくなったが、それでも数日に一回は必ずあいさんから電話があった。今日の彼女の声は少し沈んでいる様に感じる。
「今日元気無いね。疲れてるの?」
オレが心配になり聞く。
「いや、疲れてはないんやけど・・ミイさんと昨日口論になったんよ・・」
「何で?」
「まあ、まず最近ミイさんと私あんまり会ってなくてさ、あっちの仕事も忙しいみたいやし・・。」あいさんの声は話すほどに小さくなる。「昨日久しぶりに会って卒業ライブのためにギター教えてもらってたんよ。私、全然弾けんからさ」あいんさんはバイトなどが忙しいのもあり、楽器が弾けないことを理由に軽音部を辞めようとしたことがあったらしいが、特に仲の良い女の子達が、「写真係でも良いやん?残れば思い出になるって!」と引き留めてくれたのだそうだ。
「でも、まあ、昨日は”そういうこと”もしなくて。時間も時間もやし私がミイさんの家から帰ろうとしたら、「お前、サークルのやつと会いよんやろ」って言われて・・」
「ああ、なるほど」
オレがそう応える。展開が起きそうな予感がして、恐怖で胸が詰まり軽い吐き気がした。
「「うん・・」って私が言ったら、「あの学祭で洋楽歌ってたクルクルパーマのやつか?」って」これ以上小さくするとオレが聞こえなくなると思ったのだろう。あいさんの声は一定の音量で落ち着いている。「「うん、気になってる」って私が言ったら、「俺かそいつかどっちか選んで」って」
「で、あいさんはなんて言ったん?」
「うん。「どっちを選ぶとかでは無いけど。ミイさんとはちょっと距離を置きたい」って言った」
「なるほどね」
ひとまずは一安心するが、胸のつかえは取れない。こうなった以上、軽音部の先輩たちにも広まると思ったからだ。「オレは、ミイさんと別れてオレと付き合って欲しいと思ってる」
「うん。けんちゃんの気持ちはわかってるけど・・。」電話越しでもあいさんが下を向いているのが分かる。「でも、ミイさんが私のやり方に納得してくれんかったから、昨日はうやむやなまま解散したんよ。だから、とりあえずまた明日話し合ってくる」
「うん。ある程度クリアにした方が良いね」
「昨日ハルちゃんにも相談したんよ。ハルちゃん「あいちゃんはけんちゃんと付き合うん?」って聞いてきたから、「まだ考えてる」って答えたら。「だってけんちゃん童貞やろ?」って言うんよ。」あいさんの声色は少し明るくなってきた。「私が「それは関係ないやん!」って笑って言ったら。「まあ、そうやけどね」って。ひどくない?」
「ひどいな。そんなん言わんでも」
オレは笑いながら言った。
「「まあ、けんちゃん細いもんね。確かにあの感じあいちゃん好きそうやわ」とも言ってたけど」
「なんか、細いだけが取り柄のやつみたいになってるやん」
オレがそう言うとあいさんはクスクス笑う。暗かった雰囲気が彼女の小さな笑い声一つでこうも明るくなるものなのか。こんな状況でも冗談を言って彼女を笑わせられる自分を誇らしく思った。
あいさんが彼氏と再度話し合いをするという翌日。学内の図書館内をオレが歩いていると、フリースペースのところでハルさんに呼び止められた。あいさんの親友であるハルさんもまた、最終学年のはずだ。彼女はこの前の学祭で相対性理論の「ミス・パラレルワールド」を歌っていた人で、ボーカルのやくしまるえつこに歌い声がそっくりだった。顔はメルヘンチックな美人で、その声に良く似合っている。そして、あいさん同様、話し方の物腰が異様に柔らかい。類は友を呼ぶのだろう。同じくらいの背丈の二人が並んで歩いていると、二人の柔らかいオーラが増幅されて、妖精が並んで歩いているような、何とも非現実的な景色になる。
ハルさんはフリースペースにある長椅子にオレを誘った。
「まあ、けんちゃんだけが原因じゃないと思うけど・・」とハルさんは切り出す。「あなた、あいちゃんとミイさんの関係壊しよん分かってるよね?あの人たち、もう3年以上付き合ってるんよ?」ハルさんは、可愛らしい声で喋りながらオレを睨む。「あいちゃん、もしかしたら別れることになるかもって言ってるよ?」
「はい。別れてオレと付き合って欲しいです。そのことは、昨日あいさんにも伝えました」
オレが睨み返してそう言う。
「けんちゃん、ほんまにあいちゃんのこと好きなんやねぇ」そう言って、ハルさんは初めて表情を崩す。「まあ、最終的には二人が決めることやからね。もうこれ以上口出しするんは止めとくわ」
「オレ、本気なんで」
「わかった、わかった」とハルさんは下がり眉で微笑む。「まあ、けんちゃんの気持ち聞けて良かったよ」
ハルさんは「ほんなら、次の講義があるから」と言って去って行った。
オレはさっきからマスカットサワーをチビチビ飲んでいるが、全く酔いが来ない。というのも、あいさんと彼女の彼氏の友達である四年生男子の部員が、居酒屋の隅で先ほどから深刻な顔をして話し合っているからだ。軽音部では、ライブの打ち上げ以外にも定期的に飲み会が開かれる。今回は、まだ12月になったばかりだが、忘年会ということで部員たちは招集された。
オレはトイレに行く際に、隅で話している二人の後ろをワザと通り耳を澄ましてみた。
「あいちゃん、そんなんじゃミイさん納得せんよ」
男子の先輩があいさんに対し前のめりになって言う。
「うん。でも、もう無理やと思う・・」
「もう一回会ったげな?ミイさん、あいちゃんと復縁して結婚する言いよるよ?」
「うん。それはこの前会ったとき本人に言われた」
「とりあえず。あいちゃんのしよることはメチャクチャやわ。二人とも気持ちが落ち着いたら、もう一回会って話した方が良い」
「うん・・」
深刻な顔で何を話し合っているのかと思ったら。先輩はあいさんとミイさんの仲を取り持とうと説得していたのだ。他の四年生も知っているのだろう。大ごとになって来た様子を見て、また胸がつかえて来たが、ここまできたらもう覚悟は出来ている。オレは一貫した意見を貫く決心をした。
二人の話し合いが終わると、あいさんは飲み会には参加せずに、軽くうつむいたま店を出ていった。オレも店を出て追いかけようかと思ったが。先輩たち全員の視線を集めることになり、あいさんにも迷惑をかけると思ったので、諦めてその日は最後まで酔えない酒を飲み続けた。
オレが家に帰りケータイを開くと、30分ほど前にあいさんから電話が来ていたので、オレはすぐにリダイヤルボタンを押した。
「あ、けんちゃん。今大丈夫?」
「大丈夫。今さっき家に帰ったわ」
「ごめんね遅くに。この前も電話で話したけど、私、今ちょっとミイさんとかとモメてて・・」
「うん。今日も居酒屋で先輩と話してたね。あれ、ミイさんのことやろ?」
「そう・・。皆に色々言われたからっていうんじゃないんやけど、私自身ちょっと訳わからなくなって来てて。一人でちゃんと考えたいから、けんちゃんともしばらく会えんかもしれん・・ごめんね」
「ううん、良いよ。仕方ないわ。ゆっくり考えて」
「うん。ありがとう」
「でも、オレの気持ちは変わらんから」
「うん・・」
「AV男優を呪った日」
軽音部の飲み会から二週間ほどが経ったがあいさんから連絡は無い。オレは重い気持ちを引きずりながら軽音部の練習場所に行く。
卒業ライブに出るつもりは無かったが、一週間ほど前、軽音部の四年生男子の先輩がバンドに誘って来た。その人は「ゴボウくん」というあだ名で呼ばれており、オレを含めた後輩たちも「ゴボウ先輩」と呼んでいた。彼はなぜか日に焼けていて、背が高くヒョロヒョロで、メガネをかけ優しそうな顔をしているのでそういう愛称が付いたのだろう。
「けんちゃん、洋楽好きなんやろ?メタルとか歌える?」
「ああ、友達がメタル系のバンドしてて、彼がライブやカラオケで歌ってるのを真似たりはしてますけど・・。バンドはACDCくらいしか知らないですよ」
「ええやん。今度マイケルシェンカーって人の曲したいんやけど、けんちゃん歌ってくれん?」
「あー・・まあ、良いですけど」
あいさんのこともあり、シャウトする気分にはなれなかったが、ゴボウ先輩の満面の笑顔と優しい眼差しに「NO」と言うことが出来なかった。
「ドラムはめぐみちゃんがしてくれるらしいから!けんちゃん仲良いやろ?」
「まあ・・そうですね」
「ほな、CDこれやから、練習しといて!」
ゴボウ先輩は、曲がコピーされたCD-Rをおもむろにショルダーバッグから取り出しオレに差し出す。
「はや!もう用意してたのか・・」
「楽しみやのぉ」
ゴボウ先輩は「ニカー」っと笑い、そう言い残してその場を立ち去ったのだった。
演奏するのは一曲だけだと勝手に思い込んでいたが、CDには三曲も入っていた。
「マジか・・」
今の精神状態で三曲もシャウトしなければいけないことに気後れしたが、約束した以上は仕方がない。歌詞をネットで探し、それを見ながらCDを流す。曲は、「アームドアンドレディ」「ドクタードクター」「ロックボトム」の三曲だ。
「うわ・・元気いっぱいの曲ばっかりやん・・」
しかしもう遅い、開き直ってやるしかないのだ・・。
練習場所に着くとゴボウ先輩がすでに一人で練習をしていた。
うわぁ・・CDのまんまや。激しいなぁ。
「おはようございます」
「おはよう!残りの二人はまだ来てない?」
「えーと・・あ、来たみたいですよ」
「ヤッホー。けんちゃん」
めぐみさんが近づいて来てそう言う。
「めぐみさん、他にもバンド掛け持ちしてませんでした?大丈夫なんですか?」
「他に4つ掛け持ちしてる」めぐみさんはそう言ってニコニコ笑う。めぐみさんも四年生で、あいさんやハルさんと仲が良く、よく一緒に行動しているのを見かける。小柄な彼女は常に元気いっぱいで、オレの姿を見るたびにコミカルな動きで近づいて来て毎回話しかけてくれる。普段は可愛らしいが、ライブではドラムを叩きながら頭を振ったりするロック色の強い人だ。
そこにベースを担当する三年生男子の田元先輩も合流し練習を開始した。ゴボウ先輩は頭をゆっくり揺らし、目をつむったままニッコニコ笑いながらギターを弾く。完全に他の人とは毛色が違う。
「Ah~~~~~!!!」
オレが、CDで聞いたまま、マイケルシェンカーの「アームドアンドレディ」のシャウト部分を再現すると、演奏しながら全員が大爆笑する。演奏が終わり、めぐみさんが近づいて来る。
「やっぱりけんちゃんは素敵やね!」
めぐみさんが満面の笑みで言う。
「いやもう、中途半端に恥ずかしがるのが一番恥ずかしいですから・・」
「言えてる言えてる」
めぐみさんは手を叩いて笑う。ゴボウ先輩は腕を組み、「オレの見る目は間違っていなかった」とばかりにこちらを見て微笑んでいる。
「でも、これをあいさんも見てる前でやるのか・・」このメンバーで演奏するのは楽しそうだが、あいさんに確実に引かれる気がして来て心配になる。だが、オレは筋を通す男だ・・約束は約束なのだ。
翌日、大学の講義が終わったので家に帰って来て、桐野に勧められた宮藤官九郎監督の「鈍獣」を見ていると、ケータイが鳴った。表示を見ると、「あいさん」とある。待ち望んでいたことを悟られないよう興奮を鎮めるため、オレは一度深呼吸をしてから電話に出る。
「はい。あいさん?」
「あ、けんちゃん久しぶり。ごめんね長いこと連絡できんで」
「いいよ。まあ、待ってたけどね」
「ごめん・・。私、いま大学近くのゲオにいるんやけど、けんちゃんまだ大学にいるの?」
「いや、家にいるよ。どしたの?」
「けんちゃんが今から帰るなら、もし良かったら晩御飯でも行かんかなって思ったんよ」
あいさんは車の免許をまだ持っていないため、電車とバスを乗り継いで通学している。「でも、もう家に帰ってるなら良いよ。また今度ねー」
あいさんはそう言って電話を切ろうとする。
「いや、全然迎えに行くよ。車ならすぐやし」
「いやいや、けんちゃん、それは悪いわ。今日はいいやん。ね?また今度」
「すぐ行くからそこで待ってて」
「えー、分からんよ、先帰ってるかも」
オレは返事をする前に電話を切り、急いで身支度をして大学近くにあるゲオに向かう。すると、大通りの歩道を駅の方に向かって歩くあいさんの姿が見えた。オレは慌てて車を路肩に停めて電話をする。
「今、すれ違ったよ」
「ほんまに来てくれたん?!じゃあ、もう駅に着くから、駅に来てくれたら嬉しいな」
ゲオで待っててくれと言ったのに・・。オレが着くのがもう少し遅ければあいさんは電車に乗っていたのだろうか?訳が分からない。
まだ陽は沈んでいなかったが、二人とも空腹だということで意見が一致したので、イタリアンのDearに来た。
「あいさん何にするの?」
「うーん、蟹クリームパスタかな?ペペロンチーノとか好きやけど口くさくなるやろうし」
「あーなるほどね」オレはあいさんがこの後キスをする想定をしてくれているのかと思い嬉しくなる。「オレは大海老の和風パスタにしよ」
料理が運ばれて来たので、空腹の二人はしばらくの間無言でパスタを頬張る。
「けんちゃん、オススメの映画ない?さっきゲオで何か借りようかと思ったけど良いの見つからなかったんよ」
あいさんが言う。今観ている「鈍獣」を勧めるわけにもいかないので、何かお洒落な映画はないかと考える。
「「ビフォアサンライズ」とか観たことない?」
「何それ、どういう系?」
「初めて出会った男女がウィーンの街を一日散策しながらひたすら会話する映画」
「えー。めっちゃオシャレそうやん」
「めっちゃオシャレやで」
オレは笑って言う。
「見たいかも・・」
「このあと一緒に観る?」
「え?どういうこと?」
「いや、またホテルとか行ったら、大画面TVあるやん?ネットカフェでも良いけども」
「・・何もしないって約束するなら行く」
「わかった。何もしないよ」
オレは決意を込めてそう返事をする。こんな不安定なときにモメるのだけはゴメンだ。それが分かっているなら、我慢くらい出来る。
「わかった。じゃあホテルで良いよ」
陽も大分落ちて来た道を車で走り、ホテルの近くにあるTSUTAYAに来た。
「あいさんも行く?待ってても良いよ」
「あ、行くよ」
あいさんはバックの中からキャップを取り出し被るが、一瞬固まった後、「もういいや!」と帽子を脱ぎ車の中に放り込んだ。
「どのコーナーにあるのかな?」
あいさんがD V Dを積んだ棚に書かれたジャンルを目で追いながら言う。
「ラブロマンスとかやろ、多分」
「「ラブロマンス」って露骨な表現やね」
あいさんはそう言って口に軽く手を当てて笑う。自然と身についているその品の
ある所作にクラスの女の子たちにはない精神年齢と強い魅力を感じた。
「確かに。あ、あった」
イーサン・ホークとジュリー・デルピー主演の「ビフォアサンライズ」を見つけたので、オレが手に取りレジに向かおうとする。
「けんちゃん。AVコーナー入ったことある?」
あいさんが、いたずらっ子のような顔で聞く。
「いや、そう言えばないかも・・」
「え?無いの?あなた二十歳も近い男子よね?」
「基本的にネットにお世話になっております」
「なるほどね。ねえ?ちょっと入ってみん?」
「かまんよ」
オレは笑って承諾する。「18歳未満立ち入り禁止」と書いたのれんをくぐり中に入ると、他のコーナーより棚と棚の間の道幅が狭く、ぎっしりとDVDが詰め込まれている印象だ。
「うわー。私も初めて入ったわ。えっちいね」
「そうやねぇ」
「けんちゃん、何か一枚選んでよ。ホテルでそれも見ようよ」
「お、おう」
「何もしたらダメ」と言っておきながら、ラブホテルで一緒にAVを観る提案をするあいさんの言葉に耳を疑がったが、これは何かのテストかと思い乗ることにした。
あいさんと一緒に棚を順番に見ていっていると、奥におじさんが熱心にDVDを選ぶ姿が見えた。手に持ったカゴには既に数枚のアダルトDVDが入っている。
「ねえ、けんちゃん。おじさんに悪いからもう出よう?」
あいさんがおじさんの方をチラチラ見ながらなりそう言う。
「そうやね、冷やかしみたいになるかも・・」
オレはそう言って、何も手に取らずにのれんをくぐりAVコーナーの外に出た。短時間だったが、あいさんと一緒に冒険をしたかのような気分になった。そもそも、オレが慣れ親しんだこのD V Dショップにあいさんと一緒に歩いていること自体に非現実感があった。
一枚だけDVDを借り店を出て、車に向かって歩いていると、あいさんが「ねえ、ドーナツ買わない?」と、TSUTAYAと同じ駐車場内にあるミスタードーナツを指差して言った。
店内に入ると、オレのクラスメイトの小宮という女の子がドーナツを選んでいてすぐに目が合った。
「あ、けんじやん・・」
「お、小宮やん。やっほー」
オレはあいさんと二人でいるところを見られて少し同様したが、悟られないように軽く振る舞う。小宮がすぐにオレの後ろにいるにあいさんの存在に気づき会釈をしたので、あいさんもつられて会釈を返す。小宮は気を遣ってくれたらしく、「じゃ」と言ってすぐにドーナツが乗ったトレイを持ってレジに向かって行った。
オレ達もドーナツを二個ずつ選んで買って車に戻り、ホテルに向かった。
「ねえ?さっきの子、けんちゃんのクラスメイトやろ?私ちょっとびっくりしてちゃんと挨拶出来んかったわ。やなやつやと思われたかも・・」
あいさんが心配そうな顔でそう言う。
「大丈夫やって。何も思ってないよ。なんならまた説明しとくわ」
オレが大丈夫と手を振って言う。
「大丈夫かな・・」
「あいさん、そんな心配症やったっけ?」
「いや、さっきのはちょっと無いなーって自分で思って・・」
「大丈夫、大丈夫。あっちも気を遣ってすぐ行ってくれたやろ」
そんな会話をしている内に、前に来たラブホテルに着いた。今回は予約はしていないが、いくつか部屋は空いているようだ。
中に入り、さっそくDVDをデッキに入れる。そして、ベット上部に二人でもたれ、ミスタードーナツの箱を開ける。この前も来たので、二人でするこの一連の流れが前よりもスムーズになっているような気がした。
「どうする?もう映画観る?」
オレがベッドの上に置いたTSUTAYAの黒いD V Dバッグを指差して言う。
「そうやね。見よう見よう」
映画が始まり、オーストリアを走るパリ行きの長距離列車の中で出会った男女が意気投合し、ウィーンで降りた二人が一緒に街を散策する様が映し出される。オレが横を見ると、あいさんの目に画面が映って見えた。部屋の照明を消して映画を観ているので、お洒落な街でお洒落な会話をする意識し合った二人の姿をあいさんの瞳がスクリーンとなり映し出していたのだ。
「贅沢だ」オレはそう思った。あいさんの匂いを感じながら、あいさんの瞳をスクリーンにして好きな映画を観る。これ以上の贅沢は無いように思えた。
あいさんは、オレが彼女の方を見ていることに気づくと、オレの肩と胸の間に頭を乗せて来た。陽も落ちた静かなホテルの部屋で惚れている人の頭を肩に感じながらスロームービーを観る。
「何か、男女って感じだなぁ」
オレはそう思いながら言葉を使わないコミュニケーションというものを初めて実感した。
映画も終盤に差し掛かり、画面の中の二人がイチャつきだした。それを見たからか、あいさんがこちらを向き、
「今日は何もしてこんやん?」
と言ってくる。
「約束したからね」
オレは大袈裟に余裕ぶった表情をする。
「んー」
あいさんはそう言いながら、唇を軽く突き出しキスを促す素振りする。
「いやいや、約束したから」
オレは今日はお堅くいこうと決めていたので負けじと言う。
「んー」
しかし、あいさんはまた同じ動作をする。
「これはもうOKだろ・・」
オレはそう思い、彼女の突き出した唇にキスをするとあちらもし返してくる。しばらくして、キスをしながらオレは彼女の服の中に手を入れブラジャーのホックを探す。
「けんちゃん、外せるの?」
あいさんは笑いながら言う。
「いける、いける」
そう言いながらオレがホックの部分を指で挟んでズラすとホックが外れた。
「あ!外されちゃった」
オレは外れたブラジャーの下から手を入れて、彼女の生の乳房を触る。
「柔らか・・。そして温かい・・」
直で胸を触られたあいさんが少し声を出し始めたので、オレはそのまま下に手を伸ばし彼女の股間をさすってみる。彼女は体を少し震わせると、身を固めオレにしがみついてくる。呼吸が荒くなってきたあいさんは、自らズボンを下ろし、そして下着を下ろしたかと思うと「できる?」と聞いてきた。
「これは・・手マンのことか!」と思ったオレは、事前にYouTubeで見ておいた、「AV男優の手マンテク」という動画を思い出す。おれは恐る恐る指を彼女の股間に入れ、動画でレクチャーされていたように指をフック状に曲げて手を動かした。しかし、あいさんの顔が曇り始める。
「けんちゃん、利き手でしてる?あと、なんで指曲げてるの?」
「え?痛い?」
「痛くはないけど・・ちょっと変な感じする」
それを聞いたオレは、手を動かすのをやめてゆっくり指を出す。
「けんちゃん、ほんまに童貞なんやね」
あいさんはクスクス笑う。
最悪だ・・一番ハズしてはいけない場面でハズしてしまった・・。何なんだあのAV男優!許せない!
「・・今度は私がやるよ?」
あいさんが下を向いて口角を上げたまま口をあまり開かずに言う。
「え、いいの?」
「うん。そこに寝て」
彼女がそう言うので、オレはベットにあおむけになり、ズボンを脱ぐ。だが、ボクサーパンツを脱ぐのが予想外に恥ずかしかった。
「けんちゃん恥ずかしいの?私が脱がしてあげようか?」
あいさんがニヤニヤしながら言う。
「いや、いいよ脱ぐから」
オレは思い切ってボクサーパンツを下ろした。
ああ、恥ずかしいな・・。
オレはそう思いながら、産婦人科で股を開かれて医者に診られる女の人の気持ちが初めて理解出来た気がした。
「じゃあ、失礼します」
あいさんはそう言って、右手でオレのモノを持ち口に含む。オレは初めての感覚に悶える。初めはゆっくりだった彼女の頭の動きが徐々に速くなったかと思うと、1ストロークごとに舌がモノの周りを一周しだした。
「何だこれ・・レベルが違う・・」
オレがその時感じたのは、紛れもない劣等感だった。オレのお粗末な手マンのあとに繰り広げられる上級テクニックの応酬にオレはミジメな気持ちになったのだ。まるで、股間だけ宇宙空間にいるような感覚がしたのだ・・。
「イケそう?ちょっとアゴ痛くなってきたかも・・」
いったん口を離したあいさんが聞いてくる。
「もうちょっとかな・・手でしてくれてもえんで?」
「ううん。私、手は苦手やから口でするわ」
彼女はそう言って、頭を動かす。アゴが痛むのか、心なしか表情に影が差しているような気がした。しかし、オレは、緊張のためか、初めての感覚に混乱しているためか、なかなかイけそうにない。
「どう?イけそう?」
しばらくして、あいさんが口を離しもう一度聞いてくる。
「イきそうやけど・・したいから我慢する」
「え?!」
彼女はオレのモノから手を離し、「どういうこと?!」と急に強い口調になる。
「いや、だから、したいから・・」
「こんなに頑張ってしてるのに、なに?我慢って・・」
オレはなぜ彼女が怒り出したのか訳が分からなかったが、ベッドの上に置いてあるコンドームが入った小さなカゴを目の前に置き「しようよ?」と尚も食い下がる。
「あ、けんちゃんもう時間やわ。3時間来るよ?出よ?」入り口付近にある精算機の上部で光る時刻を確かめてあいさんが言う。
こんな時に時間がどうしたと言うのだ。延長すれば良い話じゃないか・・。とイラついたオレは、
「いや、お金なら出すよ?延長しようよ」と強めに言ってしまう。
「・・もういい、帰ろう」
あいさんは完全に怒ってそう言う。「何よ、金なら出すって・・」
彼女の訳の分からない態度にムッとしたオレも、
「わかった、わかった。とりあえず出よう」
と折れる。もうセックスなどする雰囲気では無くなっていたからだ。
帰りの車の中でも二人ともしばらく無言でいたが、先に口火を切ったのはあいさんだ。
「いいよ?舐めるよ?どっか車停めてよ」
「いや、いいよもう。そんなどうしてもってわけじゃないから」
「いいよ、舐めるよ」
「いいって・・そんなんじゃないから」
帰り際、「じゃあね、けんちゃん」と言い、キスもせずに車を降りていくあいさんを見送る。いつもの公園のはずなのに、まったく別物に見えた。
暗い気持ちのまま家に帰ると、あいさんから着信が入っていた。オレは少し憂鬱に感じながらリダイヤルボタンを押す。
「あ、けんちゃん?今日はごめんね・・」
「うん。オレもごめん。でも、最初になんであいさんを怒らせたんかまだ良く分かってないんよね」オレはとりあえず一安心しなががら言う。「そんなにエッチ嫌だった?」
「ううん。嫌じゃないよ。でも、私、ミイさんとまだ付き合いよるから・・それはすごい罪悪感っていうか。ちょっとナーバスになってたとこはあるんよ、ごめんね・・」
「うーん。そうなんや・・。わかった。そのことを言ってくれたら良かったのに」
「ごめん。そんなんわざわざ言われるんもけんちゃん嫌がるかなと思って。でも、フェラでイッて欲しかったな」
「いや、気持ちよかったよあれは」
「ほんと?じゃあ、またリベンジさせてください」
「もちろん。ありがとう」
「ううん。今日はほんまにゴメンね。お休み」
「お休み」
「重力の虹」
年々、クリスマスや年末の特別感というのは薄らいでは来ているが、やはりそれらの行事が近づくに連れて街の景色は浮足立ったものに変化するので、こちらも何かが迫って来るような、少し不安感の入り混じる浮足立った気持ちになる。また、日に日に増すこの寒さも、その気持ちを助長させている様な気がする。
もうすっかりクリスマスモードに完成した木々にまとわりつくイルミネーションを見ながら、あいさんを迎えにいくために車を走らせる。昨日あいさんから「明日良かったらカフェでも行かない?」というメールを受け取ったので、ネットでいくつかピックアップして来た。
「やあやあ」
前のことがあったからか、少し恥ずかしそうに笑いながらあいさんが車に乗り込んでくる。
「やあやあ。いくつかカフェ調べて来たんやけど、どこが良いかな?」
「えー、ありがとう。本屋さんの雑誌とかで調べようかと思ってたけど、手間が省けたね」
「あ、でもそれも楽しそうや。本屋も行くだけ行ってみる?」
「うん。いいよ」
本屋に入ったオレとあいさんは、雑誌コーナーに行き、毎月県内のカフェや食事処の特集を組む雑誌を手に取る。
「お、こことかえんやない?私一回だけ行ったことあるわ」彼女はオレが持っているものと同じ雑誌の別のページを見せる。「なかなか雰囲気良かったよ」
「へー。これってあの倉庫を改築して作った場所にあるとこやんね?」
「そう。カフェの他に雑貨屋さんとかもあったから、そこも寄ったら楽しいかも。でも、けんちゃんが調べてきたとこも行ってみたい・・」
「よし。じゃあハシゴする?」
「いいね!カフェはしご」
場所的にオレが調べたところが本屋から近かったので、まずはそちらに行くことにした。
「すごーい。なんこれ?何かフランスのおやつに出るようなやつやない?」
あいさんはそのカフェで出て来た数段に分かれたケーキスタンドを見てそう言う。
「やっぱりマカロンとこの器似合うね」
オレはそう言って頷く。
「あ、そういや。けんちゃんオススメの亀の映画見たよ」
「「亀は意外と速く泳ぐ」やろ?どうだった?」
「面白かった。あの庶民的な感じの上野樹里って初めて見たわ。すっごいシュールな笑いやね」
「そうやろ。「あずきパンダちゃん」のネタとか、普通の映画なら「何やってんねん」って言われるだけやんな」
オレがそう言うとあいさんは笑う。
「要潤の三枚目キャラも面白かった」
「あの髪のかきわけ方ヤバいよね」
「うんうん」
時間は夕方に差し掛かったので、あいさんが勧めるカフェに移動した。菓子は先ほど二人とも食べたので、二人とも同じフラペチーノの様な甘いチョコドリンクを注文した。
「軽音部で二年の三島くんおるやん?」
あいさんがドリンクにストローを差し込みながら言う。
「三島くん?」
「ほら、薬学科の男の子よ」
「あー。分かった。オレのクラスメイトで一個年上の子がおるんやけど、その子の高校のときのクラスメイトらしいわ」
「そうなんやー。世間は狭いね。その子と最近話すようになったんやけどね、やっぱり薬学科って大変みたい」
「確かに、たまに軽音の練習とかで遅くなったときに、薬学科の校舎見てもまだ灯りついてるわ」
「うん。やっぱり難しいから留年する人も多いらしくて。三島くんも危ないらしいんよ。やから、軽音部続けれるか分からんのやって」
「まあ、勉強の方を優先させなね。薬学科は国家試験あるからなおさら」
オレが頷いて言う。
「彼、ストレスで結構白髪とか増えて、肌もめっちゃ荒れてて可哀そうやった」
「薬学科は生徒の雰囲気大人っぽいから、あっちの校舎は華やかな世界なんかと思ってたけどそうでも無いみたいやね」
オレが苦笑いしてそう言う。
「四年生の土岐くんみたいな人もいるけどね」
あいさんは笑ってそう言う。土岐くんとは、文化祭の時にオレをステージ上に引き上げた人だ。
「あの人も薬学科だったね。ずっとあの感じなん?」
「うん。私が軽音部入ったときからいて、お洒落でお調子者っていう立ち位置は今と一緒だよ。あの人は普通に頭良いから一回も留年せずに卒業できるみたい」
あいさんはそう言って笑う。
「ギターも上手いしなぁ。一つできる人は何でもできるんやねー。うらやましい」
そんな会話をしながら建物の2階にある海が見えるカフェの窓から外を見ると、もう陽が沈みかけていた。
「晩御飯どうする?カフェはしごしたからお腹空いてないか」
オレがケータイで時間を確認しながら言う。
「うんそうやね・・ちょっとドライブしよか」
カフェから出て、しばらく車を走らせていると、あいさんが「お茶を買いたい」と言うので、コンビニに車を停める。しかし、あいさんは車から降りようとしない。
「どうしたん?買いに行かんの?」
オレが不思議に思って言う。
「けんちゃん・・もう会うのやめよう?」
「なんで?」
「うーん。この前のホテル行った事とかハルちゃんに言うたんよ、そしたら「あいちゃん、それはビッチやわ。あいちゃんが悪いわそれは。けんちゃんが可愛そうやわ。付き合うなら付き合って、付き合えないなら会ったり、そんなとこ行ったりするのは良くないよ」って。それで私、我に返ったっていうか・・私、けんちゃんに最低なことしてたなって。ミイさんの気持ちもけんちゃんの気持ちも考えられてなかったって思った」
「いや、そんなんオレは初めから分かっててあいさんに告白したわけやん?」
「いや、でもけんちゃんは私のこと本気で好いてくれてるわけやん?私はそれを利用して曖昧な関係を続けてたとこはあったと思う。ごめんね」
「でもそれは・・」
「でね!それだけじゃなくて」
あいさんはオレの言葉を遮り話し出す。
「この前のホテルでのけんちゃんの言動で、私、スーッと冷めてしまったんよ。「お金は出すから」とか、鬼畜って思って」「鬼畜」はあいさんの口癖なので重くは捉えなかったが、彼女が前を向いたままこちらを見ようとしないので本気で言っていることが分かった。「すごい自己中なこと言ってるのは分かってる。私だって中途半端な向き合い方しかしてなかったわけやから十分ひどいし・・」
「オレは、あいさんのこと好きやから。今のままの付き合い方でも良いし、もう会わないとかは言わないで欲しい」
オレは当然のように食い下がる。
「ありがとう。でも、もう、気持ちが変わることは無いと思う」
自分でも意識しない内に、オレの目から涙が流れて来る。今回は我慢することなど考える暇も無かった。
「けんちゃん・・泣かんで?けんちゃんにはもっと良い人おるって。私みたいなダメ女じゃなくてさ」
あいさんが無理に明るく言おうとしているのを感じたが、その意思に反比例するようにオレの気持ちは底なし沼の中に沈んでいく。
「ちょっ、けんちゃん?」
オレはあいさんに抱きつき、泣きながら顔を彼女の肩に埋める。
「もー。服めっちゃ濡れたんやけどー」
あいさんは困り顔で笑いながら言う。
「ほんまにもう会わんの?」
「うん・・そうやね。もうお互いのためにやめた方が良いと思う」
それを聞いてオレは普段の何倍もの重力が体にかかったように体が重たく感じる。または、気持ちによって重力というのは変わるのかもしれない。皆それぞれの気持ちに応じた重力を個々に持っていて、でもその重力というものには慣れてしまうから、普段は重力の存在なんて考えもしないけど、きっとこうやって、気持ちが大きく振り切ったときだけその存在が顕在化するのだ。雨が強く降るほど虹が濃く出るように、それは気持ちのふり幅の大きさに応じてふっと現れては消える。これほど気持ちが振り切った人が未だかつているのだろうか?という気持ちになるが、もちろん、人は原始人だったときから重力の存在を定期的に感じていたのだろう。こんなに特異な感覚に思えるのに、きっと誰かと同じような体験だ。安っぽいなあと思った。
「けんちゃんどこ行くん?!」
オレは車から飛び出してコンビニの駐車場の端にある金網に頭を突っ伏す。外は雨が降りだしていた。
「けんちゃん風邪引いてしまうよ?」
あいさんが車にあった傘をさして追いかけて来て、オレの上にもさしかける。
風邪?風邪がなんだと言うんだ。
今のオレにとって風邪を引くことなど取るに足らないことに思えて、そんな愚問を投げかけてくる彼女に腹が立った。オレが何も答えないので、しばらく2人無言のまま時間が過ぎる。
「けんちゃん、私、寒くなって来たわ。とりあえず車戻ろう?ね?」
「・・わかった、ごめん」
寒くなったと言われ、そのまま放っておくことが出来ないのは、当然彼女のことが好きだからだ。
あいさんがさす傘の下に2人で並んで車に向かって歩き出す。まるで、駄々をこねる子どもを母親が連れて行っているようだと思いミジメになる。もう話すことは話し切ったのもあり、ミジメさを感じたのもあり、意気消沈したオレは無言で車のエンジンをかけ、あいさんの家に向かった。その道中は2人とも無言を通した。こんな状態では何も話すことがないからだ。あいさんの家の近くのいつもの公園に着き、車を停める。
「今日はありがとう。カフェ楽しかったね。けんちゃん?」
「なに?」
「今までありがとね」
またしても重力がオレを襲う。
「私、けんちゃんに会えてほんまに良かったって思ってるよ?カッコいいし、優しいし、面白いし。すごい楽しかったし、幸せだった」
「オレ、あいさんのこと諦めないんで」無意識的に関係性が変わったことを感じたのか、オレは自然と敬語に戻っていた。
「ありがとう」
「本気ですから、オレ」
「うん、わかってるよ」あいさんはしっかりと頷く。「じゃあね。バイバイ」
オレが何も答えないのを確認したあいさんは、そう言って車のドアを開け外に出る。
「けんちゃん、私帰るよ?」
ここでバイバイと言ってしまうと本当にもう会えなくなるような気がして、オレはかろうじて頷くことしかできなかった。
あいさんはゆっくりとドアを閉めたあと、家の方に向かって歩いて行く。その後ろ姿をボーっと眺めていたら、公園の角を曲がり姿が見えなくなる直前に、あいさんが一度だけ振り返ってこちらを見た。雨でフロントガラスが濡れていたのでぼんやりとしか見えなかったが、その表情は、泣いているようにも見えた。
「砂漠の中のオアシス」
あいさんが公園の角を曲がり見えなくなってもしばらくは車のエンジンをかけなかった。自分の中の「中心」を占める人を失ったので、全ての動作が無意味に思えたからだ。キーを右に回し、サイドブレーキを踏んで、ハンドルを握り、アクセルを踏む。これらの動作にもはや意味があるとは思えなかった。今残っているのは、求心力となっていたコアを失って無秩序に散らばった、がらくたばかりだ。
5分近く公園の曲がり角を眺めていると、彼女が本当にさっきまで助手席に座っていたのか分からなくなってきた。その瞬間、公園の角を見つめていることがひどく下らないことに思えてきたので、エンジンをかけた。サイドブレーキを踏んで、ハンドルを握り、アクセルを踏む。「なんだ、やれば出来るじゃないか」
静かな住宅街を抜けて高速下の大通りに出る。大通りに出ると、当然ながら大量の車が走っている。その容赦の無さにひるんだが、なんとか車の流れに合流しスピードを合わせる。しかし、この機械的かつ日常的な動作をせざるを得ないことでボーっと麻痺していた意識がクリアになり、「本当にフラれたのだ」という実感が襲ってきた。
「あ、ダメだ」
この意識状態には耐えられそうにないので、空いている車線に移動し、アクセルペダルを下に付くまで踏んでみる。「グオーーーン」というエンジン音と共にフロントガラスから見える景色がブレて見える。交感神経が上がり少しだけ意識が遠のいた気がしたので、その状態をキープしたまま、今度は大声を出してみる。
「あーーーー!!!!」
「うん、大分マシになってきた」辛さの正体は頭の中のシナプスとシナプスの間で走っている電気信号なので、それを邪魔してやればもっと楽になれるはずだ。オレは頭をハンドルの中央にあるクラクションに頭を何度もぶつけてみた。
「プッ、プッ、プッ」
ついでにクラクションも鳴って良い感じだ。スピードメーターを見ると、一番右側に表示されている「140km」を大きく振り切っていた。その過剰性も、今の精神状態に良く似合っていて、むしろ当然のことのように思えた。
家に帰って来てしまい、車が引き起こす過剰性が無くなったのでまた辛さが襲ってくる。家にあったチョコを手当たり次第に口に放り込むが味がしない。それでも構わず食べ続けてみたが、食べるほどに胸がむかむかするだけだ。
「酒買って帰れば良かったな・・」
そうつぶやいてみたが、もちろん酒が現れるわけではない。仕方がないので風呂に入り寝る準備をする。自分の部屋のベットに横たわると、その日常性が先ほど起こった非日常的な喪失を際立たせてしまうことに気づいた。そのため、居間に移動し、ダウナーなシーンが続く映画「ソーシャルネットワーク」をTVで流し、ソファに横たわった。その状態でソファの背もたれに頭を一定の間隔でぶつけてシナプスの電気信号の阻害を試みている内に眠気がきた。
一週間後、相変わらず居間のソファで横になって十何回目かの「ソーシャルネットワーク」を横目で見ながら眠気が来るのを待っていると、ケータイが鳴り、画面には「あいさん」と表示されている。
「はい。もしもし」
オレが通話ボタンを押して言う。
「あ、けんちゃん?」
「うん」
「・・・」
「どしたん?」
「けんちゃんの声聞きたいなと思って・・」
「そうなんや。オレもあいさんの声聞きたかったよ」オレは頷きながら言う。「しょっちゅう会ってたし、しょっちゅう電話してたから、急にそれが無くなると寂しいわ」
「うん。私も違和感ある。私、けんちゃんに依存してたんやと思う。あんな毎日電話かけて、異常やもん」
「オレは嬉しいけど・・」
「でも、依存は良くないよね」
「ミイさんとまだ会いよん?」
「うん・・昨日も会った」
「関係は修復されたってこと?」
「いや、わからんのよ・・わからんけどドライブ行ってきた。二人ともフライドポテト好きやからさ、マックでポテト買って私が横から食べさせてた。そしたらさ、ひな鳥みたいに食べるんよ」そこまで言って彼女は一度言葉を切る。「ごめん、こんな話聞きたくないよね」
「いや、オレは電話くれただけでも嬉しいからさ、かまんけど」
「うーん。けんちゃん優しすぎ。そういうとこに私は甘えてしまってたんやと思うわ」
「どんどん甘えてください」
オレが少しふざけた口調でそう言う。
「えー。良くないよそれは」
あいさんは笑ってそう言う。
「それはあいさんのさじ加減で」
オレもそう言って笑う。
「ねえ?また電話しても良い?」
「いいよ」
「パワフルガール」
送信日時:12//20/18:52
けんちゃん返事遅くなってごめん💦
映画は一緒には行けんわ(*´ω`)
あべまりちゃん誘いなよ、仲良いんやろ?=^_^=
英米文化特講の講義室に入り教材をカバンから出していると、前に座っていた小宮が話しかけて来た。
「ねえねえけんじ。ミスドで一緒にいたあの人だれ?すっごい綺麗な人やったね」
「ああ、サークルの先輩なんよ」
「え?!もしかしてあいさん?」
小宮の横に座っていたあべまりも振り返りそう言う。
「え、まりも知ってる人?すっごい綺麗な人やったんよ!」
「うん。私はもうサークルはやめたけどね。私も二人がこの前講義棟の前で話しよん見たわ。仲良さそうにしてた」
「え?けんじ、その人と付き合いよん?」
小宮が身を乗り出して言う。
「いや、なんていうんかな。フラれたけど連絡は来る、みたいな・・」
「え?」
「どういうこと?」
小宮とあべまりが同時に首を傾げてそう言う。
「いや、オレもよくわからん」
「はーい始めまーす」
少しオカマ口調の園田先生がそう言いながら講義室に入ってきたので、そこで話は中断された。
寒さに合わせ陽が落ちるのも早くなってきていて、まだ18時前だというのに夕日が沈みかけている。講義も全て終わったので車で帰るために駐車場に行くと、あべまりも車に向かって歩いて行くのが見えた。彼女は歩き方にクセがあり、歩くときに頭や体が上下せず足だけが動くので、遠くから見るとセグウェイに乗っているようだ。オレが近づいていくと、すぐにあべまりはオレに気づいた。
「お、けんじも帰るん?」
あべまりがセグウェイから降りて言う。
「せやで」
「てか、今日の話あれどゆこと?!てか、けんじがあいさんとそんな感じになってたんにびっくりしたわ!」
あべまりは喋るのがとにかく速く、よく同時に複数のことを聞いたり言ったりするので、聞いているこっちは混乱する。また、大体語尾に「!」が付くので色々な意味で圧倒されてしまう。
「え、あ、言ってなかったね。あんまり言い回ると幸運が逃げる気がして。ほら、フラグ問題もあるしさ・・」
「なんやそれ。早よ教えてよ、めっちゃおもろい話題やん!てか、けんじフラれたん?」
「うん、一応・・」
「でも連絡は来ると?」
「せやで」
「へぇー!あいさんも訳わからんことするなあ。てか、あの人彼氏おらんかったっけ?」
「おるね」
「え?!けんじ浮気?」
「まあ、浮気したんはあいさんやけどな。オレは浮気相手やで」
「え、どこまでしたとか聞いて良い感じなん?」
「あー。キス以上"それ"未満かな」
少し得意げにオレが言う。フラれて落ち込んでいる状態でも、あんな美人とキスをしたことを報告するのは鼻が高かったからだ。
「えー!キスしたんやー。ヤバー!え、え、最初はどっちから告白したん?てか告白とかあったん?」
「連絡先を渡して来たのはあっちやけど、告白したのはオレかな」
「えー!あっちから来たんや!」
「まあ、そのときは後輩としてしか見てなかったとは思うけどな」
「そうか。で、どうすんけんじ?」
「諦めるつもりはないけど、フラれてから病んでチョコばっかり食べよる」
「糖尿病なるで!」
「はぁー。あの人細い人が好きやのに、顔パンパンになって来たわ」
「女子みたいなこと言よるわ。てか、けんじは十分細いやん?」
「いや、ダメなんよ。細さを極めし者だけがあいさんと付き合えるんよ」
「モデルか!」
あべまりはそうつっこんで笑う
「なあー?どうしようあべまりー」
「あー、女々しいなあ!少なくともそのクネクネするん止めなあいさんも振り向いてくれんで?」
「やんなー。とりあえず帰ってチョコ食べるわ」
「結局食べるんかい!ほどほどにしときや?ほな!」
あべまりはそう言って自分の車の方へ去って行った。彼女のあまりのパワフルさに面食らったことで、自分がひどく落ち込んでいることを再認識した。帰ってチョコを食べよう・・。
「追い剥ぎ姉さん2」
「ここやろ?「机の下でペッティング現場」は?」
桐野がニヤニヤしながら言う。
「作戦会議がしたい」とオレが桐野とネエさんに連絡したところ、忘年会も兼ねて飲みに行くことになった。今回来たのは、オレのリクエストで、あいさんとの思い出が詰まった「わたみん家」だ。
「そうや・・ああ!もうダメや、あかん・・」
オレはそう叫び、当時の甘い記憶を思い出しながら頭を抱える。
「うわぁ、けんちゃん面倒くさい感じになってるやん。何でこの店選んだんや!」
「もぉー、やめとき!そんな人」
真冬にもかかわらず、ガリガリ君を突っ込んでいるサワーを混ぜながら姉さんが言う。
「いや、連絡はたまにくるから首の皮一枚つながってる感じなんよ。それが無かったら面倒くさいどころじゃないよ」
「自分で言よるし」
ビールジョッキ片手に桐野が言う。
「そう言えば、あいさんもあの時、ビールジョッキを片手で持って飲んでたなぁ・・」オレはそう思いながら、ウイスキーのストレートをチビチビと飲む。今爽やかなサワーのような健全な飲み物を目の前に置くと、自分の落ち込みとのギャップでより病んでしまうからだ。
「いや、あんたのことフッたのにまだ連絡してくるとか正気の沙汰じゃないやろ。あいさんはあんたがガチで好きなん知ってるわけやろ?」
ネエさんが眉間にシワを寄せて言う。
「このまま気が狂ってまた会ったりして欲しいわ。せめて前の関係でも良いから」
「あんたのためを思って言よんよ?断言しても良いけど、もし付き合えたって絶対上手いこといかんから」
「・・でもあいさん優しいんよ」
「で?だから?」
「・・だからとは?」
「あんたは何をもって「優しい」って言よんよ?態度が優しくたって実際あんたにしてることは酷いやないの」
「そうや!」
桐野がオレを指差して威勢よく叫ぶ。
「お前は黙っとけ桐野!」
ネエさんが桐野の逆立った髪をグイと掴みながら言う。桐野は「あひぃ」と声に出し大人しくなった。
「いや、あいさんは別にオレを傷つけようと思って今も連絡して来てる訳じゃないやん?」
「そらそうやわ。だから問題なんやろ」ネエさんは「何言ってんだこいつは?」という顔でオレを睨みがらそう言う。
「いや・・それなら、元の関係に戻れる可能性は少しでもあるわけやん?」
「あああ!女々しい、女々しいわ!あんたは女以下や!」
ネエさんが頭を掻きむしりながら言う。
「根性があるんかないんか分からんな」
桐野が笑いながら言う。
「執着心という名の根性や」
オレが冗談ぽく胸を張って言う。
話は平行線のまま終わり、飲み会後のお決まりとなっているカラオケに来た。オレがいきなり、HYの「366日」を入れたので二人が悲鳴を上げる。
「初っ端から重いの入れんな!」
ネエさんが叫ぶ。
「オレにぴったりの曲やろ」と言って、オレが歌い出す。
「やめろ!何か念的なもんを貰いそうや」
桐野が苦しそうに言う。
Solo(interlude)
電線の上に乗ったシャネルは
三番のキーの飾りが可愛いってさ
見たとおりだ、その鍵穴に入れる
キーを自作したつもり
キーが錆びれてたら消費者にフェイクだと
バレるって君が言うから
キーがまた錆びてくる前にどれか一つに
決めてくれ、新作はもう試しただろ
早くしないと三つ目の穴が空いちゃうよ
穴から出るのは排気ガスだと
思うようにしてるけど
見たいのはシャネルのソロ、
見たくないのは三番のソロ。
「自意識強めクリスマスイブ」
クリスマスイブ、前日にゴボウ先輩から、
「田元くんの家で練習したいんだけど来れる?」
と連絡があったため、断る訳にもいかず行くことにした。車を近くのスーパーに停め田元先輩の家に着くと、ゴボウ先輩も同時に着いたようで、
「おう、けんちゃん。クリスマスイブにデートする娘もお互いおらんみたいやな」
とニヤニヤしながら言ってくる。その言葉で余計寂しさが倍増したが、事情を知らないのだから仕方がない。
「はい。そうすねぇ」
などと曖昧な返事をしていると、めぐみさんも到着した。
「けんちゃん、ゴボウくん!ごめんね、待った?」
「いや、二人とも今着いたとこですよ。めぐみさんは今日予定無かったんですか?」
オレがめぐみさんの愛想の良さとテンションに合わせながら言う。
「ああ、デートとかはないけどね。私はこの練習終わったら、土岐くんの家で四年生の仲良いメンバーで集まってクリスマスパーティしてるから合流するんだよ」
そう言えば、そのパーティのことをあいさんが電話で言っていた気がする。
「なるほど、楽しそうですね」
「四年生で集まるのもこれで最後かもねー。田元くんに連絡した?」
「あ、そういやまだだ」
とゴボウ先輩が笑いながらケータイを取り出して電話をかける。
すぐに田元先輩が出て来て、実家の中に通された。田元先輩は相当の音楽好きらしく、部屋の一室が練習スペースになっており、ドラムセットや大きなスピーカーもあった。
「すごいね、田元くん!」
めぐみさんが部屋を見回して言う。
「いや、防音はしてないから、昼間たまにしか鳴らせないすけど」
田元先輩が笑いながら言う。
練習が始まり、
「クリスマスイブに何やってんだろう・・」
と思いながら、フられて落ち込んでいる状態での初シャウトを強行した。「こうしている間にもあいさんは、男女入り乱れて華やかなパーティを楽しんでいるのだ」と思うとミジメな気持ちになって来た。片や、フられたオレは、クリスマスイブという華やかなイベントの日に、男の先輩の実家で、恋愛に疎そうな男の先輩二人に囲まれてシャウトしているのだから、世界から取り残された様な気分になる。唯一の女性メンバーのめぐみさんがいなければ、完全にバッドに入っていたはずだ。しかしそのめぐみさんもこの練習が終わればパーティに合流すると言っていた。オレは、家に帰るだけだ。
「いやぁ、家でこの音出せるって良いなぁ」
練習が終わりゴボウ先輩が満足した顔をしながらそう言う。「寂しいから、クリスマスイブにこの状況で満足そうな顔をするのはやめてくれ」オレは心の中でそうつぶやく。
寂しさには二種類あり、一つ目は絶対的な個人の感情としてのロンリネスで、もう一つは、状況・状態としての相対的な「寂しさ」だ。後者の「寂しさ」に近い言葉として、「さびれている・すたれている・閉塞感」などがあるけどそれは単に「寂しさ」の一要素だ。そして、「寂しさ」は、現状に満足することでこれ以上の変化を欲しないことから始まるのだ。特に、人間関係において変化を欲しない人が作る「寂しさ」が一番強力で、クリスマスイブにデートをする相手がいない大学生男子がそんな満足そうな顔をしてはいけないと思った。
練習が終わり、パーティに行くめぐみさんを見送りながら、「寂しい」練習にダメージを受けたオレは、こうなったら今日は行くとこまで行くしかないと覚悟を決めた。「寂しさ」もある臨界点を超えれば、ユーモアとして笑えて来るのではないかと思ったからだ。特に、分かった上で自発的に作る「寂しさ」ならなおさら。
あいさん不在の寂しさを抱えながら「寂しさ」を作り相殺させることにしたオレは、まず「寂しさ」の代名詞の一つである「クリスマスイブ一人ケーキ」を実行することにした。先輩の家からの帰り際にある人気タルト店で、チョコバナナタルト、チーズケーキタルト、モンブランタルトを買い家に帰った。甘いもの中毒による欲求が始まってしばらくたっていたので、15分もかからず完食した。
しかし「寂しさ」を感じるよりも、中毒状態の体に甘い物をたくさん摂ったことにより少し元気になってしまったオレは、再度車を走らせて一時間のショッピングモール内にある映画館に来た。数日前にあいさんを誘って断られた「ニューイヤーズ・イブ」を一人で観るためだ。チャラチャラした映画なので、一人で観るほどでは無かったのだが、「あいさんを誘って断られた映画」という要素が重要なのだ。内容はどうだっていい。
可も不可もない内容の映画を観終わると22時近くになっていた。そこで、モール内にあるタリーズに行きミルキーキャラメルラテとチョコレートケーキ、マカデミアナッツクッキー、チョコチップクッキーを注文した。無論、「クリスマスイブの夜一人カフェ」を実行するためだ。カフェ自体に寂しさは無いが、クリスマスイブの夜とあり、ほとんどの席がカップルで埋まっているのだ。そこに一人ポツンと座り大量のスイーツを食べるということに意味がある。そう、今日という日は、独り者がする全ての行動を「寂しく」してしまうのだ。ただ、それにあらがい、ワザと「寂しさ」を助長するような行動をすることで、機械的に何の疑いも無くクリスマスイブを楽しんでいるカップル達を嘲笑っているかの様な、少し優位に立ったような気分になった。オレは自分の意思でここに来ているが、お前らは違うのだ、と。
「不安定の安定」
「爪切ったよ。あいさんが「伸びてたら彼女いないって思われるよ」って言うから、しっかりと」
電話越しにオレが言う。
「え、写真送って!」
「爪の?」
オレが笑いながら言う。
「そう!」
「まあいいけど。じゃあ一回電話切るよ?」
「うん、あとでね」
それを聞いたオレは電話を切り、自分の手を写真に撮る。爪を切った手が見たいと変なことを言って来たが、まあ話題作りなら良いかと思いメールに添付し送信ボタンを押す。
すぐにあいさんから、
かわいい(*´ω`*)
と返信が来た。オレが電話を掛け直そうとしているとあいさんから再度メールが来て、手の平が写った写真が二枚添付されていた。それを見ていると、あいさんから電話がかかって来た。
「もしもし。ほらまた「かわいい」って言いよる」
オレが言う。
「ごめんごめん。めっちゃ短く切ってたね。これで彼女いないズボラ男子の手やないね」
あいさんが笑いながら言う。
「てか、送って来た二つの手の写真何なん?あいさんのやんね?」
「ああ、あれは私の手とハルちゃんの手よ。すごい似てない?」
「確かに、どっちもあいさんの手かと思ったわ」
「やろ?でも私の手の平は赤いんよね、病気かな。ハルちゃんは真っ白やのに」
「血行が良いだけじゃない?」
オレが笑いながら言う。「あ、そういやバイト決まったよ。高級中華レストランのウエイター。もう学生ニートとは呼ばせないよ」
「え!?ほんまにするんやバイト。てかけんちゃん気にしてたん?本気で言ったんじゃないのに」
「気にしてたというか、同じ土俵に立ちたかったというか。まあええやん」
「うん。良い経験になると思うよ。前にもバイトしたことあるんやっけ?」
「高校卒業してから大学入るまでの間に一カ月びっくりドンキーでハンバーグ焼いてたよ。でも本格的にやるのは初めてかも」
「そっかそっか、楽しみやね」
「オシャレそうってだけでホットペッパー見て選んだから、キツかったらすぐ辞めるかもしれんけど」
オレが笑いながら言う。
「でもまあトライしてみるだけ良いやん。偉いぞけんちゃん」
そうあいさんに言われて嬉しかったが、完全に年下に見られているのだという不快感も同時に感じた。しかしここで「偉い」と言われたことに対し、「うるさいわ」なとど変に斜に構えた反応を取るとよけいに年下感が出てしまうと思ったので、斜に構えてないアピールをするため素直な反応をすることにした。
「うん。ありがとう」
「気の合う人達がいるといいね」
「そうやね。そういえばさ、今回のバイト先、桐野も誘って二人で同じ日に面接受けたんよ」
「え、ヘビメタ君も?」桐野の話を散々しているので彼のことを知っているあいさんが笑いながら聞く。「で、どうやったん?」
「それがね、この前桐野の家で遊んでたら、桐野のケータイに電話かかって来て、「はい、わかりました」って言って切ったから、「面接結果?」ってオレが聞いたら、「落ちた」って真顔で言うんよ」
「あちゃ~。ダメだったんやヘビメタくん」
「うん、それでね。その直後にオレのケータイに電話かかって来て、「採用が決まりましたので、何日ごろから来れそうですか?」って」
オレが笑いながら言う。
「その場ですぐにけんちゃんにかかって来たんや?めっちゃ気まずいやーん」
そう言ってあいさんも笑う。
「そう。で、オレも真顔で「受かった」って言ったんよ。テンポの良さが漫画みたいやったわ」
「ヘビメタくんの反応は?」
「「何でお前だけ受かってんねん!俺の魅力が分からんなんてこっちから願い下げやわ!」って言ってた」
「ヘビメタくんぽいねー」
あいさんはツボに入ったらしくしばらく笑いが止まらなかった。
「まあ、そんな感じでバイトするからさ。次からは全部オレが奢るから」
「えー。それは悪いよ」
「まあ、次会うときはオレが奢るから」
「うーん。考えとく」
「爪も切ったし」
オレはそう言ってまたホテルに行くことをほのめかす。しかし、爪に関しては最近伸びて来ていることをあいさんから指摘して来たのだ。
「でも、私ほんまにこの前けんちゃんをイかせれんかったんが悔しいわ」これも夜のテンションが成せる技なのか、そう言ってあいさんは、オレのほのめかしに対し直球で返してくる。
「あれはまあ、オレも緊張してたしさ。つぎはもっとリラックスしてるやろからすぐやと思うわ」
「うーん」
あいさんが不満そうな口調で言う。
「あいさんは?するときってどんな感じになるん?」
彼女が直球で来たため、オレも直球トークに持ち込む。
「えー。そやねえ。やっぱ声が出ちゃうかも」
電話越しのあいさんのささやく様な声色も手伝って、このトーク内容はもはやテレフォンセックスだ。あちらもノッて来たように感じた。夜中のテンション万歳。
「あー。やっぱ声出るんは演技とかじゃないんや?」
「うん。皆はどうかわからんけどね。私は素で出てしまう」
「まあ、それはぜひ生で聴きたいですね」
「ライブみたいに言うな」笑いながらあいさんが言う。「あ、けんちゃん、もう2時来るわ。明日は私も一限からあるんよ。もう寝よ?」
「そうやね、寝ようかね。お休み」
「お休みー」
通話終了ボタンを押した後も、オレの頭は痺れたままだ。「エロい、エロすぎる・・。」そして、これはもしかしたらまた関係性が戻って来ているのか?
こうした、のらりくらりとした関係性の中でも、彼女のかすかな好意の兆しが垣間見えることで、深海から登って来て、水面から顔を出し、数週間ぶりに酸素を吸い込んだような気分になった。そんな時、今まで見ていた景色がくすんでいたことに気づく。実際に一気に視野が広がり、見ている物の色彩が鮮やかになるのである。この数週間オレは生きていなかったのだ、自分ってやつを、取り戻した気がした。
「バイトで」
バイト先に行くと、面接のときにいたこのレストランの社員の塩見さんが入り口まで迎えに来てくれた。
「河北くんよね。こっち入って」
サバサバした性格らしく、スピード感のある対応に少し圧倒される。塩見さんは見たところ20代後半で、小柄でショートカットの美人だが、勝気な性格のようだ。
「・・あ、はい」
「開店時間まだだけど、他の皆が来る前に大体のこと説明するから」
「分かりました」
このレストランは海が目の前にあるビルの29階にあるので、相変わらずすごい景色だ。調理場に行くと、キッチン担当の人達はもうそろっていて、料理の仕込みを始めている。キッチンは全員男だ。それに、高級レストランであるからか、キッチンは年齢層が高く、皆バイトではなさそうだ。
「今日からお世話になります、河北健です。よろしくお願いします」
「おー塩見さんが言うてた新しい子か。よろしく」
と一番体格の良い人が返す。
「じゃあ次ドリンク場見せに行くから」
塩見さんはそう言って、オレを手招きする。「ドリンクはホールの人が作るんよ」
次に客席の方を案内されていると、ホールの人達がぞろぞろと入ってきた。
「お!新しい子?」
一番初めに入ってきた女の人が言う。英比さんと言うらしい。
「よろしくお願いします」
オレが言う。
「はーい、皆集まって。今日から入ったから挨拶してもらうわ」
塩見さんは皆を手招きする。
「河北健と言います。よろしくお願いします」
「よろしくお願いしまーす」
ホールの皆が言う。
「ホールの社員は私と近森さんだけやから。後は皆バイトでほとんど和大生なんよ」
塩見さんが説明する。和大と言えば、オレの通ってる大学より偏差値がうんと上だ。
「僕は意里大学一年なんです」
オレが言う。
「そうなんや!学科は?」
英比さんが聞く。
「英語科です」
「すごーい。じゃあ英語喋れるん?」
「ちょっとなら」
「おー。また聞かせてね」
「わかりました」
オレは半笑いで答える。それにしても、皆、一様にシャキッとした顔立ちをしている。そして優しそうだ。大学の偏差値が上がるだけでこうも違ってくるのか。おそらく、自信があり劣等感が少ないのだろう。
人の良さそうな人たちばかりなこともあり、バイトに通い始めてしばらく経ち、皆と打ち解けてくると、オレは気づいたら全員にあいさんのことを話していた。
①松尾さん
「健、周りをもっと見てみろよ。女の子なんていくらでもおるやろ」
あいさんと同じ銀行に就職が決まっているという大学四年の松尾さんが言う。一番ワイルドで皆の兄貴的存在だ。年の割に達観している。いや、オレの大学が皆幼いだけなのかもしれない。
「いや、周りを見渡したっていないですよあんな綺麗な人。まあ、見た目だけじゃなくて、中身も好きなんですよ」
「中身たって、お前めっちゃ振り回されてるやん」
松尾さんが笑いながら言う。
「振り回す以外の中身ですよ」
「なんやそれ。でも、そんな可愛いなら見てみたいわ。今度銀行の事前研修あるから見て来るわ」
「取らないでくださいね」
「それは見てから決める」
②藤谷くん
「あー。俺も似たような経験あるわ。その子は同い年だったけどね。フりそうでちゃんとフらないタイプね」
藤谷くんはオレと同じ年で、常に困り顔で微笑んでいる。写真が趣味とのことで、オレも映像や写真には興味があるので、そういう話を二人でよくしている。
「そうなんよ。いや、オレはもう事実上フられたんやけどな、でも関係性的にはフられてない感じやな」
「あー。一番やっかいなタイプやそれ。その期間が長いほどこっちのメンタルは削られていくから。で、どんどんメンヘラ化するよ」
「マジか。メンヘラ化したらどうなるん?」
「善悪の判断がつかなくなる」
「こわ!」
「相手にひどい事されててもそれが普通やって思う様になるんよ。あと、相手の言動に一喜一憂するようになる」
「あ、オレもうそれやわ。一喜一憂してるわ」
「あー。けんちゃんもメンヘラに片足突っ込んでるな」
藤谷は表情を変えずにそう言う。「理想を言えば、もうこっちから切って、後はひたすら耐えることかな。そういう辛さっていうのは時間だけが解決してくれるから。辛さレベルがあるんよ。オレは名前付けてる。1から5まであって、こっちからでもあっちからでも良いけど、連絡を絶った直後はレベル5ね。レベル5は「台風」、そこから一カ月後にレベル4「雷」、レベル5ほど断続的な辛さじゃないけど定期的にフラッシュバックして辛さが来る。さらに一カ月したらレベル3の「梅雨」、常にどんよりしてる時期ね。レベル2が「突風」、たまに来るけど大した破壊力はない。でさらに一カ月したらレベル1の「そよ風」。思い出しはするけど全然耐えれる。レベル1になるまで生きろ!」
「いや、藤谷くん諦めるていで話してるけどオレは諦めんからね」
「そっか。レベル6がどんなんか教えてな」
③英比さん
「健の気持ちも分かるわ。私もこの前彼氏と別れたけど、電話来たら出てしまうもん」
英比さんは大学三年生で品があり仕事も出来るお姉さんだ。
「どっちから別れようって言ったんですか?」
「私からやけどねえ。この前電話してたら会おうって言われて、その人の家に行ったときにヤっちゃたんよ」
英比さんが苦笑いしながら言う。
「おお!僕には嬉しいニュースじゃないですか?」
「あんたにはな。私はもう泥沼よ」
「泥沼万歳」
「健、一緒に連絡先消すか?」
「いやです」
④塩見さん
「私なんか5年付き合った人にフらんれたんやから。あんたなんか目じゃないくらい引きずり倒したわ」
塩見さんみたいな美人でもフられるのかと思うと少し気が楽になった。やはり性格がキツいからか。
「その引きずり倒すのはどういうふうに終結したんですか?」
オレが聞く。
「私もあんたみたいにフられてからも定期的に連絡してたんよ、ほとんど私からな。でもさ、あっちにもう気が無いの分かっているのにずっとそんなんしてたらさ、段々ミジメになって来たわけよ。河北、知ってるか?ミジメが一番辛いんよ」
「なるほど」
「連絡を絶つ辛さとミジメの辛さを天秤にかけたら、連絡を絶つ方がマシやって思ってな。思い切って消したわ。やからあんたも消しな」
「僕の天秤はミジメさの方が軽いと言っています」
⑤松宮さん
「私なんか浮気されたんで。辛いなんてもんじゃないよ」
松宮さんはオレと同じ年で、常にロートーンで話し、笑っているときも目が座っている女の子だ。
「浮気相手になってた俺には耳が痛いわ」
「別に浮気全般を責めてるわけじゃないけどね。浮気される程度の仲だったと分かったのが辛かったわ」
「その時は許したん?それともすぐ別れたん?」
「おもいっきり頬をシバいて別れたわ」
「おぉ・・それくらいすっきりした性格になりたいわ」
「その日バイトだったから、ドリンク場とか裏に行く度に泣いてたけどね。塩見さんがずっと背中さすってくれてた」
「塩見さん優しいんやね」
「そう、あの人のキツさは愛やからね。私達が失敗したときも怒ってるんやなくて叱ってるんよ」
皆に相談して分かったことは、オレが誰に何と言われようとあいさんを諦めないことと、塩見さんは実は優しいということだけだった。
「卒業ライブ」
ライブ当日、真冬の街中を歩きライブハウスを目指す。前回はギターを背負っていたが、今回はボーカルをするだけなので手ぶらだ。もう既に二回もライブを経験したのに、ライブが始まるまではソワソワと緊張してしまう。食欲もあまりないので、朝食はカロリーメイトだけで済ませて来た。胃の辺りに違和感があると言ったら良いのか。こんな不快さを感じない様な動じないメンタルが欲しいと思うが、これもある種の刺激なのかもしれない。就職などをして日々がルーティン化してしまうと、このような不快感すら羨ましく感じてしまうのだろうか。ともかく、ライブが始まれば自分が緊張はしないことは分かっているので、その点は心配していない。
ライブハウスに着くと下級生たちはほぼ全員到着していた。前回もそうだったが、上級生はライブが始まってからまばらにやってくる。中に入ると、ライブハウスに染み付いたタバコのにおいが鼻を突いた。その香りで今からライブをするんだという明確な予感がした。空間のにおいは電車などと同じ効果を精神に与える。その中に呑まれると、ある種の無力感を感じ強制的に運ばれ流れに身を任せるしか成す術がないと思わせられる。何かの面接に行くために電車を使うと感じるそれだ。
オレのバンドは中盤だったので、下級生から順に組まれたバンドを応援する。そうこうしていると、観客スペースの後ろの方にいつの間にかあいさんが来て土岐先輩と話していた。この間のクリスマスパーティーの話でもしているのだろうか。久々に見るあいさんの姿に緊張し、そちらが気になり応援にも身が入らない。
「お久しぶりですね」
オレはあいさんが一人になるのを見計らって話しかける。彼女は珍しくグレーのプーマ柄のパーカーを着ており、いつもより小柄に見えた。
「あ、けんちゃん。久しぶり。出番もうすぐなんやない?」
「そう、そろそろ控え室行くわ。あいさんのバンドの名前ってどれ?聞いてなかったよね」
オレがバンドの順番を書いてある予定表を見せながら聞く。
「そういえば言ってなかったね。「せんちめんたる・ばす」っていうバンドだよ。最後の方だけど見ていってね」
あいさんが紙に書かれたバンド名を指差しながら言う。
「え、こんな最後の方なんだ・・」
「何か予定あるの?」
「いや、今日バイト入っちゃってて、途中で抜ける許可部長に貰ってるんよね・・」
「それなら仕方ないね。バイト頑張ってねけんちゃん」
あいさんが少し残念そうな顔で笑いながら言う。
「いや、あいさんの演奏してるとこ見たいから、バイト休ませて貰えないか電話してくるわ」
「え?!そんな無理しなくていいよ!バイト行っておいで」
「いや、オレが見たいんよ。とりあえず聞くだけ聞いてくるわ」
オレはそう言い残しライブハウスの外に出てケータイを取り出し店にかける。この時間なら、まだランチタイムの営業時間なので塩見さんがいるはずだ。
「あ、河北です。塩見さんですか?」
「うん。どしたんよ?」
「今日は僕シフト入ってるんですけど。出来れば休ませてもらえませんか?」
「うーん。理由は?」
「今日、部活の卒業ライブなんですけど、例のあいさんのバンドの出番が思ったより遅くて」
「なんじゃそりゃ・・まあいいわ、行っといで。愛しのあいさんなんやろ?」
「そうなんです。ありがとうございます」
「代わりに空いてる人に入ってもらうから、その人に今度お礼言いなよ?」
「わかりました。その人が都合悪い時は何度でも代わりに休日出勤させていただきます」
「調子ええなあ。まあええわ、行ってきな」
「ありがとうございます。失礼します」
ライブハウスの中に戻るとオレのバンドの時間が近づいていたため控え室に行くと、ゴボウ先輩が既にギターを取り出してArmed And Readyのイントロ部分を練習していた。オレのぐちゃぐちゃの心中とは裏腹にその飛ぶようなリフは明るくオレの心のひだを逆なでした。
「いよいよやなけんちゃん!」
ゴボウ先輩が同じ箇所を弾きながらニコニコとオレに向かって笑いかける。
「そうですねえ」
お気楽な笑顔とその音色に少しイラっとしたことにより、緊張が無くなり、吹っ切れた気がした。こうなったら振り切るしかない。
出番が来てぞろぞろとステージに立つ。振り切ることにしたオレは、スピーカーのつまみを回し、マイクのボリュームを設定されているより大きくした。めぐみさんが真剣な目つきでバンドメンバーに目くばせする。ゴボウ先輩が頷くと同時に先ほど練習していたイントロを弾き始めた。どこかに行っていたあいさんとハルさんが一緒に観客スペースに入って来た。オレはそれを見て一瞬うろたえたが、やるしかない。
「Ah~~~!!!」
いつにも増してシャウトしたオレは完全に吹っ切れて、ゴボウ先輩のソロパートに合わせフロントスピーカーに足を乗せエアギターをして観客を盛り上げる。ゴボウ先輩の趣味全開の選曲であり、他のバンドとジャンルが違い過ぎるせいかライブハウスのオーナーも出て来てニヤニヤしながら見ている。
「あぁ、あいさん完全に引いたよなぁ・・」
曲が終わった瞬間オレはそう思ってあいさんを見たが、ハルさんと顔を合わせて笑っていたので少し安心した。
曲と曲の間では一応MCの時間が設けられているので、ゴボウ先輩が挨拶する。しかし、その後に話題が見つからないようだ。
「皆さんは、甘い物中毒になったことがありますか?」
見かねたオレが自分のマイクを通して観客に質問した。ゴボウ先輩は一瞬驚いたものの、すぐに笑ってオレに譲るという仕草をした。オレは昔から本番に強い。問題は本番が始まる前なのだ。本番前の数日は異様に緊張して体調が悪くなることもままあった。幼稚園の学芸会では、緊張で前夜から腹を壊してトイレにこもりきりだったにも関わらず、本番では他の皆を押しのけステージの最前列で演技をこなしていたそうだ。おそらくスイッチ的なものがあるのだと思う。スイッチが入れば、恐怖心は鳴りを潜め、刺激を求めて行動あるのみになるのだ。不安は想像から生まれると聞いたことがある。頭の中であれこれネガティブな想像をするから不安感が生じるのであり、行動している時は想像は必要ない。
「なーい!」
「どゆこと?」
などと観客が答えてくれたので、
「僕は、先月から甘い物、特にチョコ中毒になっちゃいまして。一日でチョコのファミリーパック一袋は空けてるんです」
「えー!」「虫歯にならないの?」
と先輩たちが聞く。
「ちゃんと歯磨きはしてます」
オレが笑いがら言う。しかし、あいさんを見てみると、ドン引きした顔をしていた。
「しまった」
調子に乗って先輩のMCを奪ったことがフラグだったのだ。ただでさえ年下だと思われてるのに、もう若いと思われるような派手な言動は慎もうと思っていた矢先にこれだ。
続く二曲も歌いきり、とりあえずの安堵感に包まれる。陽も沈む時間帯になり上級生のバンドの出番が始まり、あいさんがステージ上にギターを持って現れた。バンドメンバーは皆女子で全員がセーラー服を着ていた。ボーカルがハルさん、ギターがあいさん、ベースがオレの英語科の先輩でもあるなるみさん、ドラムがめぐみさんだった。セーラー服で出て来た女子バンドに興奮した上級生男子達が、動画録画ボタンを押したケータイを投げてスカートの下に滑らせ出した。こういう恰好をしたバンドが出てきた時の恒例行事なのか他のメンバーは平気な顔をして笑ってケータイを蹴飛ばしているが、あいさんは半泣きの用な顔をしていた。前にオレに打ち明けてくれた様に、男の性的な強引さに拒否反応を示してしまうのだろう。あいさんは楽器をすることは諦めていたので元は卒業ライブも出るつもりはなかったらしいが、このバンドメンバーに強く誘われ断れなかったらしい。そのため、セーラー服も、もしかしたら不本意なのかもしれない。オレはというと、可哀そうに思いながらも、あいさんの服装の振り幅の一つが見ることができたので満足はしていた。曲はセンチメンタルバスの数曲で、特に流行ったSunny Day Sundayはキャッチーで聴きやすく、それを演奏するあいさんのセーラー服姿がオレにとっての今日のハイライトとなった。
「アウトレイジ」
あいさんのオレに対する関係性の態度が安定しないことによるストレスでチョコ中毒になったオレは、みるみる体重が増えていった。そのため、チョコのカロリーを消費するために運動を始めることにした。基本はウォーキングだ、初めはランニングをしていたが、長時間走り続けることはできないので、量を稼げるウォーキングに切り替えた。基本的に毎日家から町まで往復3時間を毎晩している。
その日は休みだったので、夕方から町まで行き、アーケード街を抜け、ブランド店が並ぶ広場まで来た。ここはイタリア、ミラノのアーケード広場を模しているらしい。しかし、この広場の中心には肝心の、股間を踏みながら一回転すると願いが叶うという闘牛の絵が無い。人の雑踏の中にいると、家にいるよりもあいさんのことを考える時間やその密度が減る気がして少し気が楽になった。しかし、気持ちが病んでいるときというのは、自分と他人が全く違う生き物に感じることがある。町を歩く人たちの健全さに暴力性を感じるのだ。皆オレを苦しめるために大きな声で笑ったり、話したり、じゃれ合ったりしているという感覚になる。彼らの発する騒々しさが逆に静けさ、つまりは冷たさを強調させるのだ。この感覚は極めて主観的で事実ではないとわかっている。客観的に見れば、自分が病んでないときは、病んでいる人に、オレがその暴力性の主として認識されているのだろう。しかし、そんな事実は今のオレに何の助けにもならない。苦しみの比較ほど不毛なことはないと思う。誰かに悩みを相談すれば、「もっと辛い人もいるんだからそんなことで」と常套句のように言われることもあるが、アフリカで飢える子供たちに思いをはせたところでオレの問題に対して何の解決にもならない。どれだけ主観的であることが真実とかけ離れていようと、「苦しみ」とはどこまでも主観的なものなのだ。
その広場を抜けようとしていると、登ったことのないエスカレーターがあったので乗って二階に上がってみた。すると、広場が一望できる場所に辿り着いた。そこには椅子やテーブルが並んでおり、チラホラと人で埋まっている。その様を見ていると、あいさんとライブをしていたなるみさんが耳にイヤホンを付けて文庫本を読んでいる姿が目に入った。
「なるみさん」
オレが彼女に近づき声をかける。
「え?あれ?けんちゃんやん」
文庫本を閉じイヤホンを外しながらなるみさんが言う。
「何してるんですか?」
「けんちゃんこそ何しよんよ?」
「僕はウォーキングです」
「ウォーキング?」
「チョコのカロリーを相殺するための」
「ああ、この前のライブで言ってたね」
なるみさんが苦笑いしがらながら言う。
「あの・・ちょっと相談があるんですけど」
オレは不意に思い立ち、なるみさんに相談してみることにした。彼女はあいさんと仲が良いので何か具体的なアドバイスをくれるかもしれないと思ったからだ。
「あいちゃんのことやろ?」
なるみさんが少し意地悪そうな顔で言う。
「なんでわかったんですか?」
「見てたら分かるよ、けんちゃんがあいちゃんのこと好きなことくらい」
「そうなんです・・・」
オレは机を挟んで向かい側にあるイスに座り、この数カ月あいさんとどういう関係性でいたかを話した。
「それはあいちゃんが悪いわ」半分あきれたように笑いながらなるみさんが言う。「ホテルまで行ってヤルんはダメって酷すぎるやろ」
「まあ、オレもなんで行ってまで拒否するのか訳が分からなかったですけど」
「まああの子も変わってるからねー。そういう意味ではけんちゃんと合ってるんやない?」
「そういう意味ではね」
オレが苦笑いしながらいう。
「すごい子好きになったね、けんちゃんも」
「わかります。でも、可愛いんですよ!」
「それは分かる。あいちゃんは可愛い。あの顔面交換して欲しいもん」
「いや、顔だけじゃなくて、性格も、話し方も、趣味もやし・・」
「ベタ惚れやないか!あんまり好き好きオーラ出してたら上から見られるよ。無理にでも温度差合わせるんも一つの作戦よ。まあ、辛抱強くいきや」
「それはめっちゃ良いアドバイスです」
「そしたら私今から家庭教師のバイトあるから、じゃあね!」
なるみさんはそう言って机の上に置いていた文庫本をバックに入れイスから立ち上がる。
「わかりました。あ、あいさんには絶対になるみさんに相談したこと言わないで下さいね!あいさんからハルさん以外誰にも言わないでって釘刺されてるです」
「わかった、わかった」
彼女はそう言って去って行った。
暗くなり始めていたので、オレも家に向かって残り半分のウォーキングをした。家に着き、ケータイを開いてみると、あいさんからメールが入っていた。
送信日時:2/26/18:46
けんちゃん!なるちゃんに言うたやろ!
言わんでって頼んだのに(T_T)
「しまった!」
そうだ、女の子とはこういうものなのだ、いくらオレがお願いをしたところで女友達を取るに決まっている。オレの判断ミスだった。しかし、なるみさんもあいさんに、オレに相談を受けたことをバラしたことを言わないように釘を刺していたに違いないが、あいさんはそれをさらにオレにバラしているので全員が約束を破ったことになる。全員が裏切者で全員が平等に悪なのでオレの中でおあいこにすることにした。
「佐藤先生にもすがる思い」
オレが佐藤先生の研究室をノックする気になったのは、先生がよく生徒のプライベートの悩みの相談に乗っていると知っているからだ。彼は英語科の教授であり、オレの担任では無いものの、生徒とフランクに関わろうとして来るので自ずと教授の中では一番話をしているが、私用で研究室に来るのは初めてだ。
佐藤先生とは入学前にオープンキャンパスで出会った。図書館内にはTOIECの質問や留学の相談などが出来る英語に特化した部屋があり、そこを見学していると話しかけられたのだ。そしてその時、そこにいた英語科の平野さんという女の先輩も合わせた三人でしばらく話をした。
「河北くんはなんで英語に興味があるんや?」
スキンヘッドで体格も良い佐藤先生が、大きい目でしっかりとこちらを見ながら聞いてきた。
「洋画が小さいころから好きなんですよ。その影響で海外の文化や英語にも興味が出た感じです」
あまりの眼光の鋭さに少し圧倒されながらオレが答える。
「海外言うたって、フランス語とかドイツ語とか色々あるやんか」
「英語が一番カッコいいじゃないですか」
「ドイツ語の方がカッコええやろ」
「僕は日本語も含めて英語以外は全部ちょっと間抜けに聞こえます。英語だけ間抜け感が無いです」
「英語なんてええもんちゃうぞ、あんな俗っぽい幼稚な言語」顔をしかめて首を振りながら佐藤先生が言う。
「英語教えてるのにめっちゃけなすじゃないですか」
オレが笑いながら言う。
「佐藤先生はアメリカが嫌いなんよね」
平野先輩が意地悪い顔で言う。
「せや。俺はアメリカなんか大嫌いや。英語は敵を知るために学んでるだけでそれが仕事になってしまったんや」
「なんで嫌いなんですか?」
「アホしかおらんからや。映画も音楽も全部アホっぽいやろ。大衆受け、金のことしか考えよらへん」
「でも、技術はすごいじゃないですか。映画にしてもそうだし、ほらiphoneとか作ったジョブズとかすごくないですか?」
「ああ、あんなんガキや。ひよっこや。しょーもないでほんまに。スタバとアップル製品だけは絶対に利用せんって決めてるんや。アホになるからな」
オレはアメリカの文化が大好きだが、親の仇とばかりにアメリカを嫌う彼に好印象を持った。アメリカを嫌っているからではなく、歯に衣着せぬ物言いをする大人が新鮮で面白かったからだ。
「河北くんは彼女はおらんのか?」
先生が聞く。
「いないですねぇ。大学での出会いを楽しみにしています」
「ほんなら平野さんとかどうや?同じ英語科で話も合うやろ」
「いや、私普通に河北くんタイプやわ。爽やかやし」
平野さんが言う。
「え、マジですか?!」
童貞のオレは、いきなりそんな事を言われ動揺したが、斜に構えた態度だけは取らないように注意した。どの様に注意したかと言うと、普通童貞は突然好意を示された場合、斜に構えてムスっとした顔で「ありがとうございます」などと言ってしまいがちだが、オレは笑顔を無理やり作ったのだ。
「マジよ。でも私、彼氏おるんよなぁ。おらんかったら告ってるわ」
それを聞いたオレは少し残念に思ったが、同時に棚ぼた式に自信を得ることになった。今まで女子にここまで露骨に好意を示されたことは無かったのでお世辞でも嬉しかった。
「ほんなら、平野さんが彼氏と別れたら付き合うということで決まりやな。彼女予約やな河北くん」
オープンキャンパスでの佐藤先生の印象は良かったが、初めに印象が良すぎる人は必ず後から難が出て来るという法則がオレにはあるので大学に入ってからは少し警戒してはいた。そして、入学して数カ月でその難が見え始めた。佐藤先生は、人気があったのだ。
佐藤先生の講義が終わると、数人の女子生徒が彼の元に駆け寄っていき色々と話しかける様を毎回見るようになった。というのも、彼はスピリチュアルなことを言いながら皆の相談に乗ったり、色々と言い当てたりするということをしていたからだ。一度オレが女子生徒たちに混ざって近寄って見ると、女子生徒が持って来たペットボトルの水に手をかざして水の味を変えるということをしていた。
「ほら、変わったわ。飲んでみろ」
佐藤先生が女子生徒に言う。
「あ!すごーい!ほんとに変わってる」
喜ぶ女子生徒たちを見ながらオレは不快感を感じた。別に水の味を変えるという怪しいことをしていたからでも、スピリチュアルなことを言うからでもなく、「なんだ流行か」と思ったからである。
オレは基本的に流行が嫌いだ。流行っているものは程度が低いと思っているわけでは無く、流行っているものに自分が飛びつくと自分の意見が無いように見えてしまうからだ。他人からの目だけではなく、自分がそうなっていることが嫌なのだ。それは身近な人に関しても同じで、人気がある人に自分から関わって行こうとすると、その他大勢のファンたちと同じ行動をすることになり、ただ少し話したいだけだったとしても自らもファンの一人の様になってしまうのである。それは人気がある人と自分との上下関係が必然的に出来てミジメな気分になるという大きな不快感を伴うため、ファンになるくらいなら少なくとも自分からはその人とは関わらない方を取って来た。
しかし、今回はあいさんのことで切羽詰まっていて、藁にもすがる思いで佐藤先生の研究室のドアをノックしたのだった。
「おー、ケン。どしたんや、珍しいやないか」
先生は、オレが部屋の中に入るとPC画面から目線を外し、いつもと同じように大きな目でしっかりとこっちを見ながら言う。研究室に備え付けられた壁一面の本棚には、大量の本が几帳面に整理されてあり、机の上に乗った資料も綺麗に揃えられている。
「ちょっと相談があるんですけど。時間大丈夫ですか?」
「かまんで。今ちょうど腕時計をネットで見てたとこや、フランクミュラーはやっぱりかっこええなぁ」
先生は、アメリカの俗っぽさを嫌っているにも関わらず、全身ハイブランドで固めており、それに合わせるかのように自信に満ち溢れた物言いをするため、そのことも女子生徒からの人気の理由であるようであった。
「恋愛相談なんですけど」
オレがそう切り出す。
「え、気持ち悪いな。なんや?」
真っ白なパンツに、淡いピンクのシャツを着た先生がワザとらしくのけぞってみせながら言う。
「僕、軽音部に入ってるんですけど、最近4年生の人と恋愛関係になってまして」
「おお、ええやないか年上」
「その人には彼氏がいるんですけど、僕としばらく浮気みたいになってまして」
「ほう」
「でも、僕は最近フラれまして。でも、まだ連絡とかはしていて関係性的にはフラれて無い感じなんです」
「で、お前はどうしたいんや?」
「僕はまだ好きなんでやり直したいと思っているんです」
「あー、多分あかんなそれは。名前はなんて子や?」
「羽田愛衣って人です、日本文学科なんで佐藤先生は知らないかも」
「何となくわかるわ。割と背が高い子やろ?」
「そうです」
「はいはいはい。諦めな、あかんわあの子は。他にも数人お前と同じようなんおるで」
「え?!知ってるんですか?」
「いや、知らんがな。ただ、あの見た目やろ?そら女を使いたい盛りやろ」
「それは想像ですよね?」
「そうや。でもそう思うで、俺はな。それでもケンが行きたいなら好きにしたらええがな」
「諦めるっていう選択肢は今の所ないですね。どうしたら上手くいくかのアドバイスを貰えないかなと思って来たんです」
「やから無理や言うてんねん」佐藤先生が笑いながら言う。「お前とはレベルが違うわ」
「まあ、レベルに関しては薄々分かってはいるんですけどね、僕童貞だし」
「お前童貞なんか」先生が手を叩きながら笑う。「ほんならアカンわ」
「めちゃくちゃ言いますね」オレも笑いながら言う。「まあ、しばらくはアタックを続けてみます」
「好きにせえ」
「また来ます」
「変なやつやのお」
「「私は恋がしたいのよ」と彼女は言った」
「けんちゃん!ごめん!」
あいさんは久々に電話をかけて来たかと思うと急に謝り出した。
「なになに、どうしたん?」
オレが慌てて聞き返す。
「私、ハルちゃんにめっちゃ怒られてしまった・・ハルちゃんには、けんちゃんとはもう別れたって言ってたから、まだ連絡してることを言ったら、「それはほんまにけんちゃんがかわいそすぎるよ!」って」
「いや、オレは構わないからまだ連絡取ってるわけやん?」
「いや、良くないよ。ほんまに自分の弱さやと思う・・・私、今度土下座するわ」
「いや、いらんよそんなん」
オレが慌てて言う。
「いや、させて。私、ほんまに最低やわ」
「そんなんされたって気分悪いだけや」
「じゃあ、頬を思いっきりシバいて良いよ」
「なんで好きな人にそんなことせないかんのよ」
オレがあきれながら言う。
「・・・わかった。でも、もう連絡は止めようと思う」
「何でそうなるかなぁ」
オレがため息混じりに言う。
「そろそろケジメつけないかんわ。ハルちゃんに怒られてそう思った」
「それはハルさんに言われたからやろ?あいさんはどうしたいんよ?」
「それは・・・やっぱり良くないよ。ごめんね」
「うーん。どうも納得いかんわ。あいさんがハルさんのこと信用してるのは分かるけど、人に言われたからって」
「うん、そうやんね。でも私自身、私のやってることは間違ってるって気づいたから」
「うーん」
「じゃあ、電話切るね」
「えー、ちょっと待ってよ」
「ごめんね、じゃあね」
そう言ってあいさんは電話を切った。あまりに突然だったので、キツネにつままれた様な気分になり現実感がなかった。
その後、「一方的すぎて納得がいかないので、二人の関係性についてちゃんと話がしたい」とメールを送ったが返っては来なかった。こんなあっけなく終わるものなのだろうかと、腑に落ちない気持ちで日々をすごした。
四年生の卒業式も近づいた日の夜、あいさんからやっと電話がかかってきた。
「ごめん、なかなか連絡返せなくて」
あいさんが言う。
「うん」
「佐藤先生と話したよ」
「え?あいさん佐藤先生知ってたっけ?」
「一般科目で英語があるからね。なんか、大学から帰ろうとしてたら呼び止められて車で送ってくれた」
「佐藤先生女好きやからなぁ」
「そうなんや。けんちゃんの話になって、「あいつはかまってちゃんやからな」って言ってたよ。そうなん?」
軽く笑いながらあいさんが言う。
「余計なことを。佐藤先生適当なことばっかり言うから気にせんで良いよ。多分この前オレが研究室に顔出したからそう言よんやわ」
「わかった。まあ、今日はともかく、けんちゃんとちゃんと別れようと思って」
「またそれか」
「けんちゃん。私、好きな人が出来たんよ」
「え、三島先輩?」
「なんで?」
「この前大学の中を二人で歩いてるの見たから」
「・・うん、そう。それでミイさんともちゃんと別れた」軽音部で薬学科の三島先輩はオレより一つ先輩だ。そういえば、最後にデートをした日にあいさんが話題に出していたので、あのときから気になっていたのだろうか。
「・・オレとほぼ一緒やん歳」
「なに?オレの方がカッコいいって?」
あいさんが笑いながら言う。あいさんの声や喋り方はやはり魅力的だ。こんな切羽詰まった状況でも、彼女の柔らかい口調に聞き惚れてしまう。
「そんなんじゃなくて、あいさんはオレのこと弟にしか見えなくなってきたって言ってたから、やっぱりもっと年上の方が良いんかと」
「うーん。実際の歳とかじゃなくて、私と同い年でもけんちゃんは幼く見えるよ、会話もやっぱりリードされたいし。あと私、犬みたいな顔の人が好きなんよ、けんちゃんはどっちかって言うとキツネ顔やんね」
「まあ、顔はどうにもできんけど・・あいさん、オレあいさんのこと好きなんよ、この気持ちはどうしたら良いんよ?」
「うーん、でも、恋愛は二人でするもんよ?嫌いになってもらうしかない」
「どうやって?」
「今度すっぴんで学校行くわ、幻滅してけんちゃんきっと私に興味なくなると思う」
「それはないわ、別に見た目だけで好きなわけじゃないし。でも、あいさんオレと同い年の弟おるんよね?ほんまにその子と同じ様にしか見えなくなったんかと思った」
「でもね、三島君に私の事「お姉ちゃん」ってたまに呼ばせたりしよる。けんちゃんはそう呼んでみて?ってお願いしても呼んでくれんかったよね」
あいさんは、オレが彼女を嫌いにさせるためか、オレが嫌がるようなことをワザと言っているようだ。
「そのショタコン癖があるけど、幼さが見えたら嫌なんや?」
「それとこれとは別よ」
「まあとにかく、三島先輩のことが好きなんやね?」
「うん」
「あっちは?どう思っとん?」
「・・・告白された」
「OKしたん?」
「まだ返事してない。今、ゴボウ君にも告白されてて、そっちもまだ返事してないから・・」
「モテモテやん。オレにもこうやって言い寄られてるしな」
「モテ期かもしれん」
「いや、あいさんは常にモテ期やろ。綺麗やもん」
「そんなことないよ。私だって一杯辛い思いしてきたし・・けんちゃん!もっと色んな人と付き合って経験積んで出直してこい!」
「・・・もう死のうかな、オレ」
二人の会話も、オレの気持ちも、そこまで暗い雰囲気では無いが、自然と口に出た言葉だった。「世界」と触れている今はある意味至高の状態だが、それももうすぐ終わりを告げることを予感して出た言葉だった。オレは喉元まで来ている絶望を感じながら、最後の快楽の一滴を味わっている。
「え!?もぉー、そんなん言わんでよ。死んだらもう映画観れんようになるよ?」
「もう、そんなんどうでもいいわ・・」
「そんなん言ったら映画が泣くよ?」
「もう生きとったって楽しくないわ」
「大丈夫よ。絶対けんちゃんに合う素敵な人が出て来るから!けんちゃん優しいし、一途やし、カッコいいから、大丈夫」一呼吸置いてあいさんはこう続けた。「・・けんちゃん、私は恋がしたいのよ」
「・・・」
「・・けんちゃん「*****」って英語分かる?」
「え?もう一回言って」
「えー、もういいよ。英語科やろ、しっかり!」
あいさんはそう言って笑う。
「もう一回言ってよ、よく聞こえんかった」
「もういい。じゃあお休みけんちゃん」
「・・おやすみ」
「世界」が終わった。「世界」の言ったことが聞き取れなかったことで、何かとても重要なことを取りこぼした気がした。
「卒業式」
今日は4年生の卒業式なので、それ以外の生徒は基本的に大学にはいないが、部活やサークルの人達で祝うためにちらほらと集団で固まって卒業式をしているホールから先輩たちが出て来るのを待っている。
ホールから四年生が一斉に出て来た。男の人はスーツ、女の人はカラフルな袴を着ている。あいさんがハルさん達と笑いながらホールから現れた。サクラ色と紺色を基調とした袴を見事に着こなし頭には花を挿している。関係が終わった今、彼女が魅力的に映れば映るほど、オレの気持ちは沈んでいく。それでも、彼女が近くにいるというだけで昂揚感を感じるから不思議だ。感情のスピードボールにもだえていると、英語科の先輩の平野さんがオレに話しかけて来た。
「河北君、今日来てたんやね」
「ああ、そうなんですよ。軽音部の先輩のお見送りで」
「そっかー。河北君はあと3年も大学生活あってうらましいわ。でもほんまにあっという間に卒業やから」
平野さんが笑いながら言う。そして、手に提げている着物に合わせたポーチから小さい紙をオレに手渡した。
「ん?何ですかこれ?」
「良かったら連絡して」
平野さんはそう言うと挨拶も無しに立ちさってしまった。
折りたたんだ紙を広げてみるとメールアドレスが書いてあった。先ほどの不自然な立ち去り方からみて、どうやら卒業式の告白というもののようだ。オープンキャンパスの時にオレの事がタイプだと言ってくれたのは本当だったようだ。オレは誰かに告白されたことは無いので、本来ならオレの気持ちがOKでもNOでも告白されたこと自体の喜びを噛みしめているところだが、今は事情が違う。オレはそのメモを見て何の感情の起伏もないまま、再び折りたたみポケットにしまった。こうした淡い思い出となるような経験も全て、今目の前にいるあいさんが吸い取ってしまう。
「あいさん」
軽音部の皆と一緒に次々と写真を撮っている間をうかがい、オレはあいさんに話しかけた。
「あ、けんちゃん来てくれたんやね。ありがとう」
「一緒に写真撮ろうよ」
「いいよ」
ケータイを近くにいた同学年に渡し、写真を撮ってもらう。
「あ、じゃあ私も」
あいさんがケータイをその子に渡しもう一枚撮ってもらい、二人で写真を確認する。「いいね、いいね。けんちゃん肌焼けた?」
「そう、最近外でよくウォーキングしてるから」
オレが笑って言う。
ミジメな行為だと分かっているけども、この一連の作業なくしてこの場にいる意味などないと思った。ケータイ画面の中で屈託なく笑うあいさんを見て不思議に思った。これまでの関係性の残り香すら、彼女の中には残ってないなのだろうか。対して、少し日に焼けたオレの顔は、残り香しかない表情をしていた。
「あいさん、私とも写真撮って!」
二年生の女の子があいさんに話しかけて来た。
「あ、うん。じゃあ、けんちゃんまた今夜の飲み会でね」
「わかった」
その日の夜、大学近くの居酒屋でお見送り飲み会があった。おそらくこの飲み会があいさんに会う最後になるかもしれないという予感と共にコールに応え続ける四年生男子を盛り上げる。一番イッキ飲みをしている土岐先輩の口からこぼれる酒をあいさんがおしぼりで受け止めるのを見たとき複雑な気持ちになった。嫉妬もあったが、何よりその仕草がものすごく大人っぽかったからだ。単に年齢だけでは無く、違う人種であると感じた。前から感じていたが、オレの前にいる時のあいさんと四年生の人達と絡む時のあいさんではまた違って見える。オレの近くに座っている一、二年生を見ても、彼らが四年生になってもあの大人っぽい雰囲気は出ないことは容易に予想が出来た。
この飲み会後にはあいさんだけでなく、大人っぽい人がいる四年生の出す雰囲気とも別れを告げることになることを知り、「寂しさ」に覆われる恐怖を感じた。怖くなったオレは、「イッキに参加するやつは他にいない?」という四年生の呼びかけに対して手を挙げて立ち上がり、コールに合わせて恐怖心を振り払うようにジョッキ一杯のマスカットサワーを飲み干した。
「おおー!」「いいねー!」
などと四年生から歓声が上がるが、当然、オレの口元をおしぼりで拭ってくれる人はいない。