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短編小説 『豊川海月希のハッピーライフ』

 海月希みつきさんが取ってきた伝票を確認する。アクアパッツァ風パスタ。ちょうどこれから夏が始まるので昨日今日あたりから急に気温が上がり出したことと、南国を連想するアクアパッツァという名前に、海月希さんがとても似合っていると思った。
「ねえ。今日の夜はまかないじゃなくて、あの海沿いにできた新しいカフェ行かない?」
三組の客の相手が一段落した海月希さんが、カウンターにもたれかかりながら言った。まだ六月半ばだが、彼女はもう半袖黒色無地のオーバサイズTシャツを着ていて、そのこともアクアパッツァという語感と彼女を似合わせた要因であると思った。
「いいですよ。海月希さんの奢りですか?」
俺は彼女と戯れたいためにわざと意地悪を言った。
「やだよ。私は、奢るのも奢られるのも嫌いなんです」
彼女は拗ねたように顔をくしゃっとしてから笑った。俺は彼女の笑い方が好きだ。満面の笑顔で、しっかりと声を出して笑う。笑っている姿は、俺が女の人に特に魅力を感じる姿の一つだ。あまり嘘がないように見えるからだ。どんなに近い人と接していても、人はある程度演じていると思う。

 新しくできたカフェにはオーナーも誘ったが、娘の誕生日だからと言って帰ってしまった。オーナー兼シェフの荒川さんは、俺たちが誘うと三分の二の確率で断る。
「俺たち嫌われてるのかな?」
「島だからじゃないの?世間が狭いから、しんどくならないように人と無闇にベタベタしないようにしてるとか」バイト帰りに横に並んで歩いている海月希さんが、少しバカにしたように言った。顔は満面の笑みだ。俺はそのニッコリマークみたいな笑顔が、陽が沈んで薄暗くなってきた中で自分に向けられていることが嬉しかった。明るいときより、暗いときの方が相手を親密に感じるから、知り合いとは夜に会うのが好きだ。「なかなか的を得ていそうな視点じゃない?」
「確かに」
オーナーの荒川さんは細身のヒゲお兄さんで、接した感じは柔和で上品な奥様といった感じだ。オネエっぽくはないけど中性的な感じがする。俺とは歳が一回り違う。人当たりがよく人懐っこいが、誘うとほとんど断る。接している時の近い距離感とそういった行動に隔たりがあるので、感じが良い荒川さんの裏側を否応なく想像してしまう。
「でも、東京にいるときは友達間でそういう人のことアクリル版って呼んでたな」
「アクリル?」
「見えない壁がある人みたいな」
海月希さんはそう言って顔の前に両腕を上げて壁を作った。そういう風にして相手に伝えようとする彼女の分け隔てないサービス精神が好きだ。意識的にしろ、無意識的にしろ、人とのコミュニケーションに多くのエネルギーを使う人だと思う。
「なるほど。荒川さんもアクリルですか?」
「荒川さんは性格じゃなくて、島の文化かもしれないからなんとも」ケータイのライトを付けようかと思うほど道が暗くなって来ていたが、角を曲がると見えてきた海沿いに密集しているカフェの光が道を照らしてくれた。俺は、暗闇で海月希さんと話していることに興奮していた。それに、強い日焼け止めを使っているのか、この島の強い日差しに負けず色白な肌をキープした腕が黒いシャツから伸びているのが暗闇から浮き出て見えて綺麗だった。「あ、ここだ、ここだ。前の店とだいぶ内装変わったね」
そう言って海月希さんは色の薄いジーパンを履いた足を揃えてかがんで、店頭に置かれたコーヒーテーブルの上にある粗い紙で作られたメニュー表を見始めた。
「確かに、だいぶ南国テイストの店になりましたね」
俺がそう言うと、彼女はそれには返事をせずに、ねえねえ、これ美味しそうだよ?と大きい目を上目遣いにしてこちらを見た。
 ほとんど席の空いていない店内は、中央に置かれたわざとらしい椰子の木とは対照的に、天井から伸びる無数の小さなスポットライトが作る明暗が品のある雰囲気を作っていて、外しファッションのように見えて格好良いと思った。
「うわ、ハワイアンパンケーキ美味しそう」
海月希さんが窓際の席に座ってメニューを開いて言った。「これにしようかな。最近生クリーム食べてなかったし」
「そんなデザートみたいなのが夕食で良いんですか?」
俺は、メニューを見てテンションがわかりやすく上がった彼女に置いていかれた気がした。精神年齢が低いわけじゃないけど、そういう純粋さを適度に持っている人に惹かれる。
「確かに、お腹は満たされても、まだ晩ご飯食べてないってなるかな」彼女はメニューの最初の方にあるハンバーガーセットのページと、パンケーキのページを何度も往復した。「よし。半分こしようよ」
「え、僕もその巨大パンケーキ食べるんですか?」
「そう。美味しいよ、多分」
彼女は、だってこれ見てよこのクリームの量、と言って俺にメニューを見せてきた。
「いいですけど、半分こなんかして好きになったらどうするんですか?」
「えー。そんなことで好きになるの?ちょろいね」
海月希さんはそう言って、意地悪い満面の笑みで俺の目を覗いてきたので、俺は反射的に目を逸らした。
「それは相手によるんじゃないですか。タイプの人だったらソフトエッチですよ」
「いいじゃん。ソフトエッチしようよ。お姉さんが可愛がってあげる」
この感じだ。そう思った。俺が沼っているのはこのあっけらかんとした毒の許容範囲だ。男が言うとセクハラになってしまうようなことを平気で言ってくる。美人の器が成せる技だ。
 店内にはわざとらしい南国テイストの曲をサンプリングしたゆったりとしたヒップホップがかかっている。ヒップホップという要素と海月希さんはとてもマッチしていて、その開放感のある緩いビートが彼女をより奔放に色っぽく見せていた。
注文したロコモコとハワイアンパンケーキが来ると、海月希さんは、よーし、と言いながら、顎に掛かったショートカットの髪を片方だけ耳にかけた。
「まあまあ私に任せなさい」
彼女はそう言って、パンケーキをナイフとフォークを使って半分に切り始めた。「これ、もうソフトエッチ始まってるからね。ちゃんと見て」
「分かりました。よろしくお願いします」
彼女は、ほらほら、あーダメだこりゃ、と変態のおっさんみたいなことを言いながらわざとエロティックなフォークの動かし方で切っていく。店の天井からランダムに伸びるスポットライトが当たっていない暗い部分がちょうど彼女の手元なので、フォークがあそこに見えなくもない。俺は、美人がそういうなまめかしい動きをすると発生する破壊力にうろたえ、自信を失くし、それによって急に遠くなった彼女との隔たりに切なさを感じた。
「はい、どうぞ」
彼女はパンケーキが初めに乗っていた皿より一回り小さい取り皿に乗せた半分を俺に手渡した。「興奮した?」
「たまらないです」
俺は、変にはずかしがったり、否定する方が生々しくなるので、彼女が作っている冗談の強度を高めるために気持ち悪い方向に全振りした。
「よろしい」
海月希さんは、皿を渡すために前屈みになった姿勢で、あげていた口角を下げ俺を睨むようにしてそう言ってから、俺が掴んだ皿を離して、あはは、とニッコリマークの顔で笑った。俺はただ操り人形のように彼女の表情の変化に自分の表情を合わせた。
「好きになりそう?」
彼女はそう言って、アヒル口を作りぶりっ子の表情を作った。俺は、ちょっとそのままの顔をキープで、と言ってチノパンのポケットに入れていた携帯を取り出し彼女の顔を撮影した。
「あーいいですね、アングル変えますね」
俺は先ほどと同じく、わざと気持ち悪い方に全振りすることでジョークをジョークのままに保った。彼女は、俺の行動を受けて今度は化粧品のCMの女優がするように、すまし顔で次々とポーズを取った。俺が撮影を止めると、彼女は、見せて?と俺の手から携帯をひったくり撮影した写真を確認して、あははと笑い、いいじゃん、待ち受けにしてね。と言って携帯を返して来た。少し調子に乗ったように引ったくってきたことは、見下してるようにも、誘惑しているようにも見えた。
 俺が海月希さんに初めて会ったのは、アート推しが成功して外国からの観光客が多いこの島に働きにきた時だ。俺はバイト募集の記事をネットで見つけて特に考えもせずに応募のボタンを押した。その時付き合っていた彼女に振られて全てどうでも良くなって、大学をを卒業してから数年務めた事務の仕事を辞めていた。だから単純に、島というイージーでわかりやすいリアルな日常からの遠さがある場所を選んだのだと思う。俺は失恋に打たれ弱い。それは、相手の喪失に加えて自尊心が傷つくからだと思うが、俺は未だに、自信があることと、プライドが高いことの違いをわかっていない。
 海月希さんは俺より二歳年上だが、俺は十年後も彼女の様なある種の大人っぽさを手に入れることは出来ないと思う。その到達不可能な大人っぽさは、イケてる、ということなのかもしれない。そうであるならば、俺は十年経っても彼女よりイケている人にはなれそうもないので、歳のせいではないことがわかる。多分それは自信と余裕から生まれる大人っぽさだ。彼女は半年前からここにいて、その前は北海道の酪農家の家に住み込みで働いていたそうだ。半ばヤケになってここに来たものの、俺はまだ、普通は学生を終えると会社に就職することが当たり前だというレール的な価値観が脳にしっかりと植え込まれていたので、東京の保育系の専門学校を卒業してから色々な仕事を転々としているという海月希さんの自由さにカルチャーショックを受けた。しかも、単純にその方が面白いから、という理由らしい。専門学校で取った保育士の資格を使い保育園でも一年ほど働いたことがあると言っていた。なぜ辞めたのか聞くと、子どもは好きだけど、同じところで働き続ける必要はないよね?とあっけらかんと彼女は答え、俺は、毎日睡眠を取る必要はないよね?と言われたような不思議な気持ちになったのを覚えている。確かに、本人がそれで良いのであればそれで良いのだが、それでも俺はショックを受けたし、何か明確に、負けた、と思った。

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